日本の窓を、考える by LIXIL
開放性を実現し、建築と融合する。
Dialogue 中山章(建築家・東洋大学) 佐藤伸一、宮本進一(LIXIL)
『コンフォルト』2018 April No.161 掲載
日本人は建築に自然との一体感を求めてきました。現代も変わらぬその思いを、窓はどうかなえていくのでしょう。古建築に詳しい建築家とLIXILの窓の開発に携わる担当者が静岡県三島市の楽寿館(旧小松宮別邸)で、窓の未来について語り合いました。
数寄屋造りの開放的な縁と楽寿の間
より開放性を求めたガラスの雨戸
中山章(以下、中山):
この楽寿館、旧小松宮別邸を見ると、とことん開放性を求めてつくられた建物だということを感じます。
宮本進一(以下、宮本):
とくに「楽寿の間」は建具を全開にできる造りになっていますね。ガラス戸がずらりと連続している様子には、すごいなと驚かされました。開放性を好むのは世界的なことかもしれませんが、日本は古くから内外をつなぎ、自然に親しむことを住空間の文化として持っていることがよくわかります。
中山:
楽寿館の開口部に注目すると、縁の先に建て込まれているガラス戸が、じつは「ガラスの雨戸」であることに気づかされます。日本の建物にガラスが入ってくるのは明治時代末から大正時代の初めですから、明治24年頃のこの建物の竣工時には、木の雨戸が入っていたはずです。木の雨戸を戸袋に引き込んでしまえば、縁には遮るものが何もなくなり、小浜池に向かって開かれるという圧倒的な開放性です。
しかし後年、宮様の建築ですから比較的早い時期かもしれませんが、ガラスが普及しだすと、木の雨戸をガラス戸に入れ替えてしまった。雨風を防ぎながら、美しい景色を見ることもできるというわけです。財力を持つ人の邸宅では、一時期ですがこうした時代がありました。
佐藤伸一(以下、佐藤):
日本とヨーロッパでは基本的に窓の成り立ちが違い、日本の建物は木造で、柱と梁で支える構造ですから大開口をつくりやすかったんですね。ヨーロッパの煉瓦造や石造の場合、上からの荷重に開口が耐えられないので、横長よりも縦長の窓になりました。
世界の住宅が大開口に向かう
宮本:
日本語の窓ということばは、柱と柱の間、柱間に戸を立てる意味の「間戸」から来ていると言われていますね。
中山
そういう説がありますね。日本の建物の歴史は開放的な空間を手に入れようとする歴史だったともいえると思います。平安時代の寝殿造りでは、大きく重い蔀戸を押し上げて吊り、開放していましたが、引き戸が登場し、中世鎌倉時代以降の住居系建築の外部建具は、柱間に引違いの板戸2本とその内側に障子1本を建て入れていました。そのため板戸を開放して採光・通風できる面積は、柱間の半分だけだったんですね。
それが近世1600年代の初め頃に雨戸が発明されて、大きく変わりました。柱間ではなく、柱の外側に一本溝を設けて雨戸を走らせることで、柱間の建具を障子だけにできるようになりました。雨戸を戸袋に引き込めば、全体が明るくなり開放性が拡大し、戸締りも雨戸側でできます。この開放性は数寄屋造りにも活かされました。桂離宮の古書院から新御殿が増築された40年ほどの間にもこの変化を見ることができます。さらに近代になっても、ガラスを使って、もっと開放したいという意識が続いていく。それが現代に移り、アルミサッシの時代になると、高性能化が進む一方で、大開口は実現しにくくなってきました。
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公開日:2018年09月30日