「建築とまちのぐるぐる資本論」取材 4

建築を残し希望を託す 尾道空き家再生プロジェクトの15年

豊田雅子(聞き手:連勇太朗)

Fig.1: 2023年に再生された「オノツテ ビルヂング」(1938年竣工)。Fig.1: 2023年に再生された「オノツテ ビルヂング」(1938年竣工)。

「建築とまちのぐるぐる資本論」の4回目の取材は広島県尾道市へ。2日間にわたり、NPO法人尾道空き家再生プロジェクトによる複数の建築再生事例や、資材・古い家具などをストックしている倉庫まで見せていただき、深い感銘を受けた。日本における空き家活用の先駆者である同NPO代表理事の豊田雅子さんから、尾道の貴重な建築群をいかに活かし、まちがどのように変わってきたのか、そして現在の課題まで含めて、その粘り強い活動の15年の軌跡と背後にある理念を伺った。

わからないまま走り始める

連勇太朗(連):

この20年ほどで、空き家問題や中古物件のリノベーション・利活用は広く社会的な認知を得ましたが、豊田雅子さんはそうした変化の機運をつくった方のひとりだと思います。2007年に活動を始められ、2008年にNPO法人尾道空き家再生プロジェクトを設立されていますが、特に尾道という稀有な地理における仕事のあり方、経済循環、価値についてお話を伺いたいと思います。まずは、尾道空き家再生プロジェクトについてご紹介をお願いします。

豊田雅子(豊田):

活動は法人名そのもので、尾道で空き家を再生しています。組織としては役員が11人いて、会員さんは150人程度が随時入れ替わっています。 2007年当初は30人ほどのメンバーで細々と活動をスタートしました。私は2歳の双子の子育て真っ最中の主婦で、そもそも事業とは何かや、NPO法人と株式会社の違いすらまったくわからない状態でしたので、家計に迷惑がかからない範囲で私個人の貯金も使いながらのスタートでした。衝動のままに長らく空き家だった「尾道ガウディハウス」(1933年竣工)と「北村洋品店」(昭和30年代竣工)を、まるでリンゴでも買うかのようにポンポンと続けて購入したのです(笑)。

何もわかっていませんでしたが、回りにはたくさん仲間がいて、ネットワークだけはありました。空き家は将来絶対に大事な社会問題になると感じていましたし、空き家再生は行政との折衝や専門家の協力なども必要になってくるので、ちゃんと法人化した方が良いというアドバイスを受けつつも、私はビジネスにする気がなかったので非営利組織を選びました。若干の賃料やイベント参加費が入ったり、方々に出した補助金申請が通ればそれらが収入となり、少しだけ改修工事が動かせるという自転車操業で、社会保険にも入れない状態が数年続きました。まさか人に給料を払うような事業になるとは夢にも思いませんでした。

Fig.2・3・4・5・6・7: 「尾道ガウディハウス(旧和泉家別邸)」。1933年に建てられた和洋折衷の別荘。25年間の空き家を経て、2007年に豊田雅子さんが衝動的に購入し、尾道空き家再生プロジェクトの発端となった。段階的に工事を行い、2020年に一棟貸しの宿泊施設として再生が完了。

連:

私がNPO法人をつくったのは2012年ですが、その頃参考モデルを探そうと「空き家、NPO」でウェブ検索すると、尾道空き家再生プロジェクトが上位にヒットしたことを今でも覚えています。まさに先駆者として私も活動を遠くから拝見してきたわけですが、実際どうやって運営されているのか気になっていました。そんな内実だったのですね。

豊田:

かつてカフェの売上げがどのくらいあるといいか聞かれて、「うーん、5万円くらいかなあ」と答えたら飲食経験があった理事のひとりから「お前はバカか」と言われたり(笑)。それくらいの素人でした。

2009年からは「尾道市空き家バンク」の事業を市から委託され、年間200万円ほどが入るようになりました。今、専務理事を務めてくれている新田悟朗は、学生時代に卒業論文を書くためにUターンしてから手伝ってくれていて、そのままズルズルという感じです。委託費のなかから、払える分はすべて彼に人件費として払っていましたが、当然ひとりを賄えるような額ではなく、彼は実家住まいだったからセーフという状態で……。彼自身もずっと続けるつもりはなかっただろうと思います。

尾道で働ける場所をつくる

連:

自転車操業から変わっていったのはなぜでしょうか。

豊田:

2012年前後がひとつの転機でした。小さな住宅は空き家バンクでうまくマッチングさえできれば、センスよく再生されて回るようになっていきましたが、「あなごのねどこ」と「みはらし亭」という個人住宅として使いきれないような大きな建物と出会ってからです。ゲストハウスとカフェの複合施設にするために、建築基準法や消防法、旅館業法を遵守する必要が出てきました。消防設備や厨房設備だけでも数百万円という大金がかかりますから、それまでの事業とは桁違いでした。

「あなごのねどこ」の事業資金として初めて借り入れをしました。日本政策金融公庫さんから500万円を借りようとしたのですが、その頃のNPO法人はまだ信頼がない時代で、私も事業らしい事業をやったことがありませんでしたから、貸す側も不安だったと思います。私のありとあらゆる通帳や保険などが根掘り葉掘り調べられました。たまたまかつて購入していた北村洋品店が、建物自体には不動産的な価値はなかったものの、10坪ほどの土地が接道していて駅も近く、車も横に停められるため担保になりました。

給与所得もないのに500万円も借りていいのだろうかと悩んで鬱々としていましたが、一念発起でした。この再生事業をやろうと思ったのは、空き家を使って仕事の場をつくるためです。活動を始めた初期の頃の移住者はイラストレーターや建築士など手に職をもった人や、いくつかの仕事を兼業しながら生きていける人が多かったのですが、そうした第一波の人たちのライフスタイルやリノベーションされた住宅などを見た新たな若い移住希望者が現れてきたのです。 また、尾道市立大学は公立大学ながら芸術文化学部があり、希少なので県外から学生が集ってきます。尾道で大学生活を過ごし、卒業してからも残りたい、アートに関わる仕事をしていきたいと思っても、なかなかこの規模のまちでアートだけで食べていくのは難しいですよね。そんな尾道に住みたいという人たち、UターンやIターンをしたい人たちのために、空き家を使って働ける場所をつくろうと思ったのです。

時代が良かったのでしょう。2006年に瀬戸内しまなみ海道が開通してサイクリングが盛り上がり始めた頃でした。2014年には海運倉庫をリノベーションした複合施設「ONOMICHI U2」(設計:谷尻誠・吉田愛/SUPPOSE DESIGN OFFICE)もオープンして、若い観光客や外国人観光客も増えました。

「あなごのねどこ」は、運営スタッフとしてゲストハウスとカフェそれぞれの店長と、アルバイトやパートの方々など計24人を雇用しました。ですから、急に組織が大きくなって給与計算が大変になり、仕入れや売上げなどの収支の数字も見るようになりました。2012年はひとつ大きなハードルを越えた感じがありました。

Fig.8・9: 「あなごのねどこ」。尾道中心市街地の商店街に建つ全長約40mの町家。ゲストハウスとカフェとして2012年にオープン。

連:

現在のスタッフはどのような構成なのでしょうか。

豊田:

理事は一級建築士の片岡八重子さんや同じく一級建築士で『台湾日式建築紀行』(KADOKAWA、2022年)などの著書もある渡邉義孝さん、東京工業大学で都市計画を教えている真野洋介さんなど、様々な領域の専門家が加わってくださっています。役員報酬はありませんが、街歩きなどのイベントで講師をしていただいたらその都度お支払いするかたちです。スタッフは本部に経理担当のパートさんがひとり、空き家の再生や再生物件の管理運営、尾道市空き家バンクなどを担当する専属スタッフが私以外に2人、ゲストハウス2軒とカフェ2軒の店長がそれぞれいて計4人、他にフルタイムで大体3人くらいが生計を成り立たせています。

20件を再生し、うち17件を直接運営していますが、しっかり回っているものと、非営利的にゆるく運用しているものと両方あります。NPO法人の売上げの約1/3はそうしたゲストハウスとカフェからで、人件費の支出もほぼそれで賄っています。

連:

理事は専門家のネットワークで構成されていて、スタッフはそれぞれの施設運営に当たっているということですね。

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公開日:2023年09月28日