対談 5

パブリック・トイレから考える都市の未来 ──
オフィス、サービス、そして福祉的視点から

浅子佳英(建築家、進行)× 吉里裕也(SPEAC,inc.)× 中村治之(LIXIL)

多様性を受け入れるための意識変化を

中村

この対談のシリーズで以前紹介されていましたが(青木淳×中山英之「清潔なトイレ、パブリックなトイレ」[2017年6月8日公開]、中山英之さんが小豆島につくった《石の島の石》(2016)はまちづくりと一体になっていて、掃除道具が外側に置いてあって、誰でも使えるという一風変わった公衆トイレです。定期的な清掃はされるものの、利用者であったり、地域のみんなで植えた花々に水をやりに来たりなどを進んですることで、「自分たちのトイレ」という意識を地域の方々にもってもらうことにつながり、そういう思いを観光客にも感じ取ってもらえる。そういう意味では、ある程度成功している事例ではないでしょうか。昔から「トイレがきれいな家はしっかりした家だ」と言われたりしますが、それぞれの人が誇りをもって掃除をすることで心のつながりのようなものが生まれてくれば、もっと変わっていくのではないかと思います。

中山英之《石の島の石》

中山英之《石の島の石》。掃除用流しとさまざまな掃除用具が人の目に触れる場所に設置されている。(提供=中山英之建築設計事務所)

浅子

《石の島の石》は僕も取材に行って実際に見たのですが、心のつながりとは別に、トイレの掃除自体をエンターテインメントにしているところがあるんですよね。詳しくは中山さんの回を読んでもらえればと思うのですが、中山さんは香港の空港で、清掃係のおばちゃんが掃除道具が一式揃った最新鋭のカートを引いている光景を目にして、それがかっこよく、要はエンターテインメントのひとつに見えたというんですね。そこで、公衆トイレの外に誰でも手に取りやすいように掃除道具をうまくレイアウトして、ついつい掃除をしたくなる状態をつくっている。これはたしかにひとつのモデルになりえると思いました。

吉里

事務所でも飲食店でも、一般的にトイレの掃除は一番若いスタッフや下っ端の人がやらされる作業になりがちですよね。

浅子

やはりこの対談シリーズでdot architectsの家成俊勝さんとお話しする機会があって(乾久美子×家成俊勝「福祉の現場から考える──多様性を包摂する空間」[2017年11月29日公開])、そのときに聞いたことなのですが、あるお寺では一番の高僧がトイレ掃除をするらしいのです。そのことでトイレの掃除は尊いことなのだという教えを実践していると。たしかに下っ端の人に押し付けてしまうと、それがどのように清潔に保たれているのかを見えないものにしてしまう。モノ自体を変えることより人の気持ちを変えるほうがはるかにたいへんで、人の意識や社会常識をどうやって変えていくのかが今問われていると思うんです。こうした問題意識は今日のイベントの大きなテーマである「福祉」という話にもつながってくるはずです。

吉里

僕たちは「公共R不動産」というプロジェクトをやっていて、いろいろな公共施設の再生に関する相談が来るんですね。そのときに一番引っかかるのは耐震などの構造の問題ですが、その次に出てくるのがバリアフリーの問題やそれに関わる「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(バリアフリー新法)」のような法律の問題なんです。廃校になった小学校など、新しくエレベーターやスロープが付けられないところでは、2階を閉鎖して1階しか使わない場合もあります。そういう事例を見ていると、もちろん法律は法律で大事なのだけれど、融通が利かない点についてはどうにかならないのかという思いを抱きます。車椅子の方が階段を使いたいとなったらスタッフが2人がかりで持ち上げればいいだけの話です。JRなどはそういう考え方で駅員を増員していると思いますが、公共施設ももっとそうなっていいんじゃないかなと日頃から感じます。

浅子

結局、物理的に解決できる部分とそれだけでは解決できない部分があって、最終的には属人的なところで人間が解決しないといけない部分は残るし、みんなの意識が変わっていかないと、それによって不利益を蒙る人たちは依然として生まれてしまう。最近もなにかの記事で読みましたが、通勤ラッシュの時間帯にベビーカーを押して乗ろうとすると睨まれたりする。そういうことはいくら物理的に段差をなくしても、あるいはバリアフリー新法のような法律を整備しても解決しない問題で、人が変わっていくしかない。

中村

2016年に、私たちはLGBTの方たちがトイレでどのようなことに困っているかを調査しました。以前はあまり情報がなく、そのときに初めて男女が分かれていることに抵抗があったり、トイレに行きづらく我慢して病気になってしまう人がいることを知りました。さらに言えば、男女共用トイレを欲しているのはLGBTの人たちだけではなく、男性が女性を、あるいは女性が男性を介助する必要がある方たちもいます。さまざまな方がいるのだという事実を知ることは実際にハードを開発するうえですごく大切です。先ほども紹介しましたが「男女共用トイレを許容できるか」というアンケートにおいても、困っているLGBTの人がいるという背景を知ってもらうと、許容できる人の割合がぐっと増えるわけです。そうしたことが多様な人を受け入れる社会の柔軟性や意識の変化につながるのではないでしょうか。

トイレ利用でストレスを感じている割合

トイレ利用でストレスを感じている割合(LIXILおよび特定非営利活動法人虹色ダイバーシティ調べ。「日本在住の10代以上のLGBT当事者に対するパブリックトイレに関するアンケート」(2015年実施、回答数624)より。詳細は2016年4月8日のLIXILニュースリリースおよび、LIXIL企業情報誌『LIXIL eye』no.11(2016)に「パブリックトイレにおけるダイバーシティ」として掲載)。

国土交通省「高齢者、障害者等の円滑な移動等に配慮した建築設計標準」

国土交通省「高齢者、障害者等の円滑な移動等に配慮した建築設計標準」平成28年度改正では、男女共用トイレの必要性が記載されている。(参考=国土交通省HP

吉里

空間的な問題も絡んでいる気がします。僕も子どもを連れてレストランに行くことがありますが、都心部よりも郊外のほうが嫌がられません。満員電車のベビーカーの話にしても、社会的弱者に対する都市部特有の冷たさというのは、単純に混んでいて空間的な余裕がないからという理由もあるように感じます。日本の都市に比べて空間的にゆったりしているヨーロッパの都市では、都心部でも割とみんな社会的弱者に対して寛容ですよね。

浅子

日本のみんなのトイレは引き戸が多いですよね。それはたぶん車椅子の人がひとりでも入れることを前提にしているからだと思います。一方、アメリカのみんなのトイレは、開き戸が多いうえに、大きいので非常に重かったりする。それは誰かが一緒に入ることを前提につくられているからだと思います。階段も同じで、地下鉄の駅で階段しかないところはたくさんありますが、車椅子の人もガンガン使っている。それは周りの人がよってたかって手を貸すからです。とにかくベビーカーも車椅子も階段に近づくと当たり前のように人が寄ってきて手伝っている。それが日本との大きな違いで、そういう社会のほうが人は生きやすいのかもしれない。もちろんハードの整備は進めるべきですが、それだけでは十分ではないと、海外の事例などを見ていると思い知らされます。

吉里

あえて便利にしないほうがいいという理屈もあって、コミュニティ・デザインの観点から言えば、不便なときほどコミュニティが生まれやすいという側面があります。一家団欒での食事は家族の象徴のように思われていますが、電気炊飯器がなかった頃は釜でご飯を炊いていたわけですよね。釜だと炊けた直後はすごくおいしいのだけど、すぐに冷めてしまう。だから料理ができたらすぐに集まってみんなで食べる。このことは単純に理に適っていて、その結果の一家団欒だったとも思うんです。でも、現代のような時代に「家族は団欒するものだ」といっても、炊飯器も電子レンジもあるわけで、集まる合理的な理由がない。団欒を目的として集まることにはどこか無理があるように思います。その延長で、必ずしも段差をなくしたり法律を整備することが、問題の真の解決につながるとはかぎらず、そのままのほうがいいケースもあると思うんです。

僕がヨーロッパで一番印象に残っている光景は、ベルリンで夜中の3時か4時にクラブに遊びに行ったときのことです。火力発電所をリノベーションした巨大なクラブで、大音量の音楽がかかるなか、車椅子の人も結構いたんですね。古い建物でエレベーターもないのですが、地元の見た目にも悪そうな若者が5、6人で協力して車椅子を上のフロアまで持ち上げていて、その様子を見て「なんていい光景なんだろう」と思えました。

浅子

たいへん素晴らしいですね。まさにおっしゃるとおりで、そのためにはどうすればいいかが問われているわけですね。現在の日本は悪平等がはびこっていて、誰かが手助けを受けようものなら「特別扱いだ」「あいつだけ得をしている」と言われてしまう。ヨーロッパの場合、みんなそれぞれ違っていることをよしとする風潮があって、それが社会的弱者への理解にもつながっているように感じます。

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公開日:2017年12月27日