築地本願寺 × LIXIL
伊東忠太の空間を生かす─復原タイルへの挑戦
長澤輝明(株式会社三菱地所設計)
独特なフォルムが異彩を放っている築地本願寺。関東大震災で木造伽藍が燃えてしまったことから、当時しては珍しい鉄筋コンクリート造で1934年に再建されました。設計したのは、東洋建築史の第一人者で、寺院建築も数多く手掛けた伊東忠太です。インドの古代仏教建築のモチーフが多用された建築は、隅々にまで伊東の独自性やこだわりが表現され、今日でも多くの人を魅了し続けています。
創建から400年を迎えた2017年、「開かれたお寺」を目指して行われた境内の整備では、カフェやブックセンターを併設したインフォメーションセンターや合同墓が新たに建設され、駐車場で占められていた前庭部分は、建立当初のイメージを引き継いだ広い参道と、見通しの良い広場空間に生まれ変わりました。
もう一つ注目されるのは、これまで一部未公開であった本堂1階の空間を、“終活”のワンストップサービスを提供するラウンジとして蘇らせたことです。ここでは株式会社LIXIL(以下、LIXIL)の技術で、建立当時のタイルが復原され、貴重な空間が復活しています。
築地本願寺と建築家・伊東忠太
築地本願寺は、正式には「浄土真宗本願寺派 築地本願寺」といい、京都・西本願寺の別院として江戸幕府から公認され、1617年に創建されました。1657年の明暦の大火で焼失。その後、江戸幕府の区画整理で現在の築地に再建されたのが1679年。そして1923年の関東大震災で伽藍を焼失し、現在の本堂は1934年に竣工しています。
この設計を託されたのが、東京帝国大学工学部名誉教授で、建築史家としても有名な伊東忠太でした。伊東がアジア・欧米留学中(1902?1905年)に、西本願寺22世宗主・大谷光瑞が派遣した探検隊と出会ったことから縁が生まれたと言われています。世界の建築を見てきた伊東は、日本の建築も新しい時代のスタイルや材料に合わせて進化するものとして「建築進化論」を唱えます。築地本願寺も、最新の技術を用いながら、意匠としては独特なものとなりました。インドのアジャンター石窟寺院などにあるチャイティア窟をモチーフにした中央屋根、西洋の宮殿建築を思わせる左右シンメトリーに広がるファサード、市松張大理石の格調高い前廊、伝統的な真宗本堂の形式を踏襲した本堂、サーンチー遺跡の玉垣を模した階段手摺や石塀など、建築と境内が一体となり、異国のような空間を生み出しました。この巨大な白亜の殿堂は、さぞかし当時の人々を驚かせたに違いありません。
こうして生まれた築地本願寺は、建築家・伊東忠太の代表作となり、他に類を見ない寺院建築としてその価値が認められ、2014年には国の重要文化財に指定されています。
時代の要請に応えるための整備
今回の整備に求められたことは、築地本願寺が目指す「開かれたお寺」の実現でした。かつて人々の暮らしの拠り所として機能していたお寺の役割を、今の時代に合わせて再構築することです。
今回の改修整備で設計の指揮をとった株式会社三菱地所設計(以下、三菱地所設計)の長澤輝明氏は、伊東の設計意図を汲み取りながら、もともと持っていた価値の顕在化を目指したと語ります。「通常、寺の境内には小さい建物がたくさんありますが、設計を依頼された伊東忠太先生は、それを一つの大きな建物に集約することで機能性を高め、同時に境内に大きな前庭空間をつくり出しました。これは、関東大震災後の再建であることから、防災のための空地を確保したのだと思います。さらに、通常より幅の広い参道を設けることで、巨大な本堂の荘厳さを演出したのではないかと。改修するにあたり、資料が残っていない参道と前庭空間には苦戦しましたが、当時の航空写真などを参照し、伊東先生のデザインを活かす形で設計しました」。
こうして整備された築地本願寺の前庭空間によって、伊東の建築はようやく建立当初の威厳に満ちたものとなり、境内全体が訪れる人を招き入れる空間に変わりました。
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公開日:2018年05月31日