海外トイレ取材 9
パリのトイレ
浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)
パリ2024オリンピックの仮設トイレ(コンコルド・アーバンパーク)
前ページで紹介したコンコルド広場の敷地はそもそも交通広場だったことから、当然ながらトイレなどの設備は備えていない。そのため会場には仮設のトイレブースが設置されていた。 筆者が訪れたBMXの予選と決勝が行われた7月30日と31日は35度の猛暑日。炎天下の中トイレを探して案内板に導かれるままスケートボード用の仮設スタンドの裏側に回り込むと、人だかりができている。なにがあるのかと近づいてみると、人だかりの中心には巨大な洗面台が置かれていた。洗面台の周囲には水を飲む人、顔を洗う人、水筒に水を入れる人、頭から水を浴びる人などもいて、さながらキャンプ場のような雰囲気だ。巨大な洗面台は、広場に面してなんの囲いもなくただ置かれているだけなので、男性用と女性用の区別はない。
この巨大な洗面所の隣は、道路と仮設スタンドに挟まれた細長いスペースで、その中央に一直線に真っ白のトイレブースが大量に並んでいる。ブースは女性用と男性用のブースが背中合わせになっていて、仮設スタンド側が女性用、道路側が男性用だ。ただ、女性用と男性用のブース自体の差異は特にないので、扉のアイコンをよく見なければ気が付かないほどだ。一直線に並んだブースはだいたい6〜7ブースごとに分割されていて、その切れ目の部分が洗面台となっている。要は平面形としては約3.5m×9mほどの長方形をしていて、長方形の長辺の2辺に女性用と男性用のブースの扉が並び、短辺の2辺に洗面台がついているかたちだ。さらに外形をよく見てみると、四方はスチールのフレームで組まれていて、床に2つ1組の大きな穴が空いている。頂部のディテールなどから察するにこれらのトイレブースはコンテナの規格に合わせてつくられており、そのまま車で搬送できるようになっていると推察される。
ブースの内部は、小さい男女のブースは壁面と天井が樹脂系のパネルで床はステンレスの縞鋼板。一回り大きい日本でいうところの多機能トイレは、壁面は同じ樹脂系のパネルだが、天井が半透明のポリカーボネートなのでかなり明るい。どちらもまだ数日間しか使用されていないこともあるだろうが、白くシンプルで清潔な雰囲気だった。
Sanisette(サニゼット) 全自動公衆トイレ
Sanisette(サニゼット)は、有料の全自動公衆トイレとして、以前からパリに存在していた。それをまず2006年に無料化したのち、2009年に現在のデザインに大幅にリニューアルされ、さらにオリンピックの行われた2024年の今年、2009年のデザインを引き継ぐ形でセカンドジェネレーションへとアップデートされた。 デザインを行ったのはフランス人デザイナーのPatrick Jouin(パトリック・ジュアン)。パトリック・ジュアンは、国際寝台車会社(ワゴン・リ社)でデザイナーとして働いた後、フィリップ・スタルクの事務所に所属し、1995年に独立。独立後は、アラン・デュカスのレストランや3Dプリンティング技術によって製作した椅子「Solid」まで、幅広くデザインを行っている。
2009年のファースト・ジェネレーションは400台がつくられ、15年間使用できるよう計画された。歩道に置かれても邪魔になったり攻撃的にならず、可能な限り自然な印象を与えるようデザインされている。 色は白、緑、グレーの3色で構成され、特にくすんだ緑が効いている。日本の公衆トイレは白やグレーなどの無彩色か、水色や桃色などの淡いパステルカラーが使われることが多いが、確かにサニゼットの3色は街並みに馴染みながらも、シックで品のある印象を与えている。形は平面形に角がなく丸くなっていること、壁の頭頂部に大きなアールが取られモールディングのようになっていることが大きな特徴だ。
2009年のファーストジェネレーションから15年を経た2024年の今年、サニゼットはセカンド・ジェネレーションへとアップデートされた。基本的な形態は、ファースト・ジェネレーションと同じだが、よりシンプルでクリーンな印象となっている。外観の大きな変更点としては、外壁についていたリブがなくなってフラットになり、代わりにドット状のドアがリブ形状に変更になっている。パトリック・ジュアンのHPにある解説によると、
Morris
column(モリスコラム、パリの街中でよく見かける緑色の鋳鉄製広告塔)や、オスマン様式の街灯など、この街が従来から持っている特徴をベースに、パリのアパルトマンの屋上や、Newsstand(ニューススタンド、モリスコラム同様パリでよく見かける新聞販売店、こちらも色は緑が多い)などを想起させるファサードとなっているとのこと。(★1)
サニゼットは日本の公衆トイレと比べるとはるかに小さく、大便器のブースと小便器が置かれた壁の窪みのようなスペースと壁際に手洗いと水飲み場があるだけで、女性用と男性用の区別はない。壁面には周辺のサニゼットがプロットされた地図もあり、誰かが入っていて使えない場合には近くのサニゼットを探すことができる。
ブースの内部は、壁面は白をベースに便器のついている壁はグリーンで天井はライトグレー。壁面上部にはハイサイドライトもあるので室内は明るい印象だ。床は全自動で水と洗剤を流すことができ、かつ滑らないようにリブ形状をしたステンレス製。扉はアール形状の自動ドアでこれもサニゼットのキャラクターになっている。
コンパクトなサイズもそうだが、耐用年数を15年と設定していることから、日本の公衆トイレのように建築としてではなくプロダクトとしてつくられているのだろう。実際、現在の日本の普通自動車の法的耐用年数は6年だが、平均使用年数は13.87年となっており、ほとんど同じだ。(★2)
車は「移動する」、公衆トイレは「排泄物を洗い流す」とその機能は大きく異なるものの、長期に渡って風雨に晒されるという点では同じ。公衆トイレと車がほぼ同じ寿命だというのは興味深い一致点である。
せっかくなので使用してみたが、感想としては、写真にもあるように床に落ちた紙が半分溶けて流されずに残っていることが多く、どうしても汚れは気になった。毎回全自動で洗浄してはいるものの、洗剤と水で床を洗い流しているだけなので、こびりついたような汚れを落とすことは難しいし、床を水で流してしまうと、床が濡れてしまうので落ちているゴミを拾う気にならない。ただ、日本の公衆トイレの多くは一日に何度も人の手によって清掃されているので、コストを考えれば仕方のないことかもしれない。
オリンピックの仮設トイレもサニゼットも道路からブースに直接入る形式であり、2つのプランを見て改めて気がついたのは、男女のトイレの違いはブースにあるのではなく、その手前のスペースにあるということである。女性用も男性用もブース自体のサイズやデザインは基本的に変わらない。ただ、そのブースが並ぶ洗面台のスペースに違いがある。だから仮に洗面スペースを別途設けたり、共用にしてブース自体は仮設トイレのように廊下に面する形にすれば、また違ったプランを描けるかもしれない。
また、パリでは最新の美術館なども見てきたが、男性用と女性用の部屋を分けないいわゆるオールジェンダートイレのプランは採用していなかった。多機能トイレがその役割を担っておりその辺は東京と似た状況だ。
改めて今回のオリンピックを振り返ると、やはり都市計画で都市のデザインを縛り、古い建物や広場をきちんと保存していることの強さを改めて実感させられた。サニゼットにしても、パリという都市のデザインと調和させるという目的があるからこそあのデザインになっている。だが東京の場合、そもそも調和させるための都市の意匠が希薄だ。ベースとするデザイン自体がほぼないので、歴史として蓄積することができない。
コンビニ・日常・平和
新たなスタジアムを建設することなく、街の中心に流れる川で開会式を行い、ほとんどの競技を街の中の、それも既存の建物や広場を利用するというかたちで極めて戦略的に自らの都市を世界に発信したパリのオリンピックを眺めながら、では東京はどうすればよかったのかとずっと考えていた。さらに言えば、そもそも東京や日本の魅力とはなんだろうか。
たどりついた1つの結論は、それがあまりに当たり前すぎて、東京や日本は自分たちの魅力に気がつけないのではないか。
日本では最もありふれた施設であるコンビニは、海外で生活してみると極めて特異でありがたい存在だということを思い知らされる。サニゼットを除くとパリは中心部でもトイレを探すのはかなり難しい。もちろん商業施設や美術館などの公共施設の中にはあるが、ほとんどの美術館はチケットがないと入れないし、商業施設も日本ほど至るところにある訳ではない。また、カフェは街中にあるけれど、有料で円安もあってかなり高価だ。
さらにトイレだけでない。水分の補給や食事も取れる。雨が降ってくれば傘を購入できるし、ティッシュペーパーや化粧品や下着などの日用品もどこにいても手に入る。もちろんパリでもキオスクに水は売っているし、レストランに行けば食事もできるし、スーパーに行けば日用品は手に入る。しかし、24時間どこにいても安価で手に入ることとは大きく違う。コンビニだけではない。日本は民間企業による安価でインフラ的なサービスが都市の隅々にまで張り巡らされている。牛丼やファミリーレストランなどのチェーン店による安全安心かつ安価で美味しい食事。ユニクロなどのような同じく安価で機能的でファッショナブルな衣料品などがわたしたちの日常の幸福を確かに支えている。
また、日本の国土はその多くが山林で、周囲は海に囲まれているため、豊かな自然に恵まれている。四季もあり、北は北海道から南は沖縄まで多様な気候を持つ。その一方で、都市部は東京を中心に世界最大の都市を持つ。そして豊かな自然環境もこれだけ広大な都市も一夜にしてつくることはできない。自然については当然だが、都市についても鉄道を中心とした公共交通網を既存の都市に新しく整備するのは莫大なコストと時間が必要だろう。実際、世界の駅の乗降者数は新宿駅を筆頭に10位までは日本の駅が占めている。
そして、これはパリに限ったことではないが、欧米の都市に行くとスリに合うリスクは格段に上がる。メトロに乗る際にも、カフェで食事をする際にも常に緊張を強いられる。そしてこの緊張感はじわじわと、だが確実にわたしたちの日常の精神を擦り減らしていく。
コンビニはもちろん、安価で高品質な食事も、衣料品も、豊かな自然も、最大の都市と鉄道網も、ましてや安全も、日常にあまりに溶け込んでいるのでそれらが存在しない世界を、その中で生活しているぼくたちは想像できない。あまりにも当たり前すぎてそれが魅力的なものだとは認識することができない。
そして、これは平和についても同じことが言えるのではないか。
「平和時には戦争は存在しない。戦争は見えない。戦争について考えなくていい。少なくとも考えないことが許される。【中略】ところが戦争が始まると、まさにこの対立が維持できなくなる。なぜなら、戦争が始まるとは、「戦争の欠如そのものが消える」こと、つまりすべての人が戦争について考えねばならない状況になることを意味するからだ。」(★3)
これは、ゲンロン17で発表された、東浩紀による「平和について、あるいは「考えないこと」の問題」という論考の中の一節だ。論考はこのあと旧ユーゴスラビアの旅行記というかたちをとりながら、平和について考えることの困難さを描き出していく(そこでは、1984年のサラエボ冬季オリンピックが重大な話題として扱われる)。そして1章はこんな言葉で締めくくられる。
「戦時において守るべきなのは、あるいは取り戻すべきなのは、反戦という名の戦いが延々と続く永久革命の世界ではない。銃を取る可能性なんて考えすらしなかった、あの平和ボケの日常のはずなのだ。反戦を戦い抜いたあと、みなが平和ボケの価値を忘れてしまっているとしたら、いったいなんのための反戦だろう。」(★4)
平和ボケの日常は、コンビニや安価な食事や衣料品や安全で便利な都市によって支えられている。それは普段は価値には見えない。ただ、その当たり前のものたちは、実は手に入れるのが極めて難しいものだ。今こそ、ぼくたちは自分たちが持っている日常の価値を改めて見つめ直す必要があるのかもしれない。
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公開日:2024年10月28日