海外トイレ取材 9
パリのトイレ
浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)
史上初の開会式
2024年7月26日、フランスの首都パリにおいて「パリ2024オリンピック開会式」が行われた。東京2020オリンピックの閉会式で発表されたその斬新なプランは、
「街の主要な水路であるセーヌ川が伝統的な競技場の代わりとなり、岸壁が観客席となり、パリの有名なランドマークに反射する夕日がイベントの背景となる。この屋外コンセプトにより、パリ2024の開会式は、観客数、地理的範囲ともに最大規模のものとなる。」(★1)
と公式サイトにあるように、スタジアムの中だけで行われていたこれまでの閉じた開会式を都市に開き、アスリートたちを乗せた船がパリの中心にあるセーヌ川を遊覧するという全く新しいものだ。実際、開会式を競技場外で行う夏季五輪は初めてである。
総勢6,800人の各国のアスリートたちを乗せた85隻の船は、パリ東部のオステルリッツ橋からスタートし、エッフェル塔の正面にあるイエナ橋までの約6kmの道のりをノートルダム大聖堂、ルーブル美術館、コンコルド広場、グラン・パレなどの世界的に有名なランドマークの前を横切り、ゆっくりと進んでいく。観客はその様子をセーヌ川の岸壁に設置された仮設のスタンドから眺めることになる。
警備が広範囲に及ぶため、テロの危険性など安全面の問題もあって当初予定していた60万人から最終的に約半分の32万6000人に縮小されたが、それでもスタジアムの最大収容人数には約10万人という物理的な上限があることを考えると、実に3倍以上というこれまでのスタジアムの開催では不可能なほど多くの人々が「パリ2024オリンピック開会式」に参加したことになる。
さらに今回のパリの開会式は、チケットにおいてもオープンさを貫いている。セーヌ川の上流岸壁でパレードを観戦できる22万2000枚の無料チケットと、下流岸壁の10万4000枚の有料チケットが用意され、空間的にひらくだけでなく、無料でチケットを提供するという意味でも市民や街に開いたオリンピックとなっていた。
また、開会式を含めた今回のオリンピックのチケットは直前までアプリで売買できるようになっており、実際筆者もアプリをダウンロードすることで日本から購入することができた。しかもその価格はオークション形式ではなく一定なのでプレミア価格でしか購入できない訳ではない。例えば、サッカーのチケットなどは収容人数も多いので€30から販売されていた。もちろん開会式などの人気のチケットは倍率も高く、発売されると同時に売り切れてしまうので、根気と運がなければ手に入れることはできない。それでも人気の種目以外は直前でも比較的安価で売買されているので、種目を選ばなければ手に入りやすく、このチケットシステムは非常に洗練されていると感じた。
開会式当日のパリの様子
もちろん、都市に開いてオリンピックを行うことには弊害がないわけではない。実際に体験してみて一番大きいと感じた問題はなんといっても天候だ。というのも、開会式当日は大雨となり、当初予定していたプランを大きく変更することになったからだ。その辺りは、新建築2024年9月号に建築家の田根剛氏がパリに住む建築家としてレポートを書いているのでぜひ読んでみてほしい。(★2)
筆者は、開会式当日パリに入った。16:40着のエアフランスはシャルル・ド・ゴール空港に定刻通り到着。入国検査も順調に済ませ、いざパリノルド行きの列車に乗ろうとすると、空港を出る段になって長蛇の列ができていた。当日の朝にTGVの放火があったからだろう、空港の出口を封鎖し警官隊がセキュリティチェックをしていたのだ。なんとか1時間ほどで列を抜け、そのまま列車でレ・アール駅に向かう。普段から人でごった返すレ・アール駅周辺は落ち着いた雰囲気だ。というのも田根剛氏のレポートにもあるように、「期間中の過密や混乱を避けるために、企業へは休暇の繰り上げやリモートワーク推進の強い要請が発せられ、物価高騰を理由に、半数近くのパリ市民は市内を脱出したと言われる」からだろう。滞在中、田根氏にも直接聞いてみたが、普段と比べ、車も人の数も少なく、渋滞や満員電車もないので普段より快適だと言っていた。たしかに滞在中は人気の美術館などを除けば混雑もなく非常に快適だった。
また、都市の中心で開催するにあたり、一部の地下鉄駅や道路は封鎖されていた。もちろん市民からは不満の声もあったようだが、上手く対応しているように見えた。これにはコロナ禍の経験が役に立ったようだ。
結局開会式のチケットは手に入れることができなかったので、無料で見られると聞きつけたマリー橋の方へとレ・アールからセーヌ川の近くを東に向かって歩いていった。川沿いは警官隊が警備しており入ることができなかったが、ところどころ開いた場所からは飾り付けられた橋や建物を見ることができる。歩いている人たちは市民と観光客が半々といった感じで、思ったほど大きな混雑もなく、どこかお祭りにいくような雰囲気である。マリー橋の前に着くとフェンスに囲まれた少し開けた場所があった。フェンスの先は、チケットを持っている人だけが入れるゾーンでモニターも設置されている。ただフェンス一枚しか隔てるものがないので、セーヌ川とモニターは十分見える。そこに来ていたのは、自転車でふらっとやってきたような地元住民から、飲み物や食べ物も用意している観戦目当ての人から、家族連れまで様々だ。とてもオリンピックの開会式とは思えないほどゆるい雰囲気で、ピクニックにでもやってきたようにめいめいがそれぞれの楽しみ方をしている姿が印象的だった。
そのまま開会式はスタート。ただ1時間ほどすると雨がどんどん強くなってくる。ちょうどその頃、警官隊が大量にやってきて、結局我々は川沿いのその場所からは追い出されることになった。そしてこの雨が実は今回の開会式のプランを大きく変更させている。
雨によって大きく変更された演出プラン
1982年生まれの若い芸術監督のトーマス・ジョリーは、開会式の演出にあたり人工照明ではなく、夕日を使うプランを検討していた。(★3)
環境負荷を減らすことはもちろんだが、なにより夕日の時間に黄金色に輝くセーヌ川というのは、パリという都市を発信するのに申し分ない。開会式の時間はちょうとパリの日の入りにあたる午後7時半から3時間半。そこで、彼らは開会式の演出を検討するため、セーヌ川と周辺の建造物をシミューレーションできるソフトウェアを開発している。セーヌ川と周辺の街並の3Dモデルがつくられ、開会式当日の太陽光をシミレーションし、完璧な形で夕日に包まれていく美しいパリとセーヌ川が開会式と通して世界に発信されるはずだった。
想像してみてほしい。沈みゆく夕日に浴びてパリの街とセーヌ川が黄金に包まれていくその姿を。「逆光の夕日」というこれ以上ない光の演出の中、セーヌ川の水面はその夕日をゆらゆらと写しだし、隣にはルーブル美術館が、左手奥にはエッフェル棟が見える。セーヌ川に架けられた美しい橋や岸壁からは観客の大歓声が聞こえてくる。周到に配置されたカメラとドローンはこれ以上ない最上のかたちで、パリの街並みをリアルタイムで映像化していく。もちろん、その時間と場所に合わせたダンスや演劇や歌などの演出も織り込みながら。
ただ、このプランは実現しなかった。当日の大雨は夕日を消し去っただけでなく、多くのパフォーマンスはキャンセルされ、プランBの計画に変更を余儀なくされた。当日我々が体験したのは実はプランBだった。例えば、開会式のオープニングでパフォーマンスを飾ったレディ・ガガも、ライブではなく雨のために急遽当日に収録した映像を使用している。(★4)
都市に開いたオリンピックと無観客のオリンピック
このように、開会式というオリンピックの中でも最大のショーの演出を、天候という人の力でどうすることもできない自然現象によって大幅に変更せざるを得なかった今回のパリオリンピックも不幸ではあった。ただそれは開会式に限ったことだ。今回のパリ2024オリンピックは、開会式をスタジアムから連れ出し、都市に開いただけではなく、その他の競技においても新たな競技場は水泳競技場ひとつだけしか新築しておらず、その多くを既存の建物や都市の中で行っている。
ヴェルサイユ宮殿の美しい庭園では馬術が、光り輝くガラス屋根を持つグラン・パレではフェンシングとテコンドーが行われた。圧巻はコンコルド広場に設置された特設のアリーナで、パリの中心にある交通広場を封鎖し、スケートボード、BMX、3×3、ブレイキンなどのアーバンスポーツが行われた。都市の中心で都市型スポーツを行うという意味でも、今回のパリオリンピックでも最も象徴的な場所のひとつだろう。会場の中には、都市にひらくというコンセプトを体現するかのように、競技用のチケットを持っていなくとも、安価なチケットで入場することができるようになっていた。そして、スケートパークなどの仮設のスタンドの周囲には、市民がこれらのアーバンスポーツを体験できるスペースが複数あり、子どもから大人まで新たなスポーツを楽しんでいた。屋台のブースや休憩所が並び、多くの人々で賑わうその風景は、音楽フェスの会場のようだった。
これまでのオリンピックは常にその中心にはスタジアムがあった。開会式も花形の種目であるマラソンのゴールや100m走もそこで行われる。舞台は中心にある一か所に決まっていて、その一点を周囲から眺めるだけだった。映像がリアルタイムで全世界に放映されるので、確かにそれが合理的だった。
ただ、近年は先述したスケートボードなどのアーバンスポーツの盛り上がりなど、人々の楽しみ方も多様化してきている。閉じた会場で行う計算し尽くされた演出か、半開きの都市の中で行うハプニングをも巻き込んだイベントか。全世界が同時に見るイベントはオリンピック以外にはほとんど存在しない。パリの開会式はスタジアムから飛び出し、セーヌ川を舞台とした。芸術監督のトーマス・ジョリーは、全長6キロメートルの周囲に12の情景を映画のように展開するプランを描いていた。必然的に観客たちはそれぞれ異なる体験をすることになる。悪天候もあり、すべてが上手くいったとは言えないかもしれない。しかし、多様性を重んじるという意味でも非常に現代的で、新しい時代に相応しい開会式だった。
そもそもスタジアムの総工費は、1996年のアトランタが約220億円、2000年のシドニーが約550億円、2004年のアテネが約210億円、2008年の北京が約510億円、2012年のロンドンが約930億円、2016年のリオが約600億円と莫大な予算を必要とする。その中でも2021年の東京のスタジアムの総工費は1490億円と突出している。(★5)
そして、これだけ大きな建物をレガシーとして活かすこともまた難しい。しかも東京2020オリンピックの場合は、1年の延期のあと、無観客で行われたので、そもそもスタジアムを建設する必要すらなかった。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行というパンデミックに重なる不幸があったので致し方ないが、それにしてもあまりにも不幸だったと言わざるを得ない。
片や都市そのものを会場にしたパリは、新たなスタジアムを建設することなく、オリンピックというスポーツの祭典を可能な限り市民にひらき、さらには自分たちの都市を世界にアピールした。一方で東京の閉じたスタジアムは、市民にひらくどころか誰ひとり観客を収容することのないまま、東京2020オリンピックはその幕を閉じた。思えば、ザハ・ハディドが建築家や市民の反対運動によって降ろされることになった時点で、今回の東京のオリンピックとスタジアムの閉鎖的な未来はすでに決まっていたのかもしれない。
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公開日:2024年10月28日