インタビュー 6
コロナ禍以降に再考する、建築の美と生と死
伊東豊雄(建築家、伊東豊雄建築設計事務所) 聞き手:西沢大良(建築家、西沢大良建築設計事務所)+中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)+浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)
諏訪湖のほとりで過ごした少年時代
浅子佳英
本日はよろしくお願いします。このシリーズでは中川エリカさんとともに、住まいと社会についてさまざまな方にインタビューをしているのですが、前回、西沢大良さんをお招きしてお話を聞き(「コロナ禍以降に再考する、健康な住まい」)、コロナ禍の現状を考えるにつけ、モダニズム以降の建築家たちは〈死〉の存在を消してしまったという話題に及びました。ミシェル・フーコーが生権力というかたちで名指ししたように、近代以降の人間は〈生〉に積極的に介入し、管理し、人々が危険や死を意識する機会を奪ってきた。その延長で、収録後に「建築家にとっての死や、建築の死とは何か」というテーマについて議論したんですね。その際に、伊東豊雄さんが「みんなの家」というかたちで震災後の社会に向き合おうとしていたこと、また、病院や斎場の設計を少なからずされてきたことなどを思い出し、伊東さんに「建築の生と死」、そして、『新建築』2021年10月号の月評でも主張されていらっしゃる「美しい建築」についてお話をうかがいしたいと3人で盛り上がり、ご登壇をお願いした次第です。
ただそれらはとても深淵なテーマなので、まずはこのインタビュー・シリーズでいつもお聞きしている「建築家にとっての住まいの原体験」と「コロナ禍におけるご自身生活の変化」についてお伺いしたあと、徐々にその話題につなげていければと思います。まずは幼少期のお住まいや環境、当時の社会状況などについてお聞きかせください。
伊東豊雄
よろしくお願いします。ぼくは京城、今のソウルで生まれたのですが、日本に引き揚げるまでの記憶がほとんどないのですね。思い出すのは引き揚げ後、2歳から中学校3年生までを過ごした父の故郷の信州・諏訪の記憶ですね。諏訪で過ごした少年時代には、3回引越しをしました。まずいちばん最初が父の姉の家で、その時はまだ父が戻ってきていなかったので間借りをしていたのです。土間や縁側がある大きな民家で、蔵も2棟建っていました。そこで1、2年ほど過ごしたのちに父が戻ってきて、すぐ近くに20坪ほどの小さな平屋を建てました。畑でカボチャやキュウリなど野菜を育てて、自給自足に近い暮らしをしていました。そして3軒目が、父が味噌屋を始めたことをきっかけに移った諏訪湖のほとりです。ぼくが小学校2年生か3年生の頃のことで、家の庭から湖に出れるような近さでした。
浅子
諏訪湖のほとりには何年ぐらい住まわれていたのですか。
伊東
10年近くでしょうか。毎日諏訪湖を眺めていたので、ぼくにとっての原風景というと、諏訪湖のほとりでの生活になります。若い頃は原風景というものが自分の建築に影響を及ぼすなど、考えたことはなかったのですが、さすがにこの歳になってみると、腑に落ちるものがありますね。藤森照信さんには、「湖を眺めていたから水平が強いんだ」なんて言われたこともありましたが(笑)。
いずれにせよ諏訪盆地での生活は、諏訪湖があってこそ成り立っていたものだったのですね。今ではだいぶ湖周辺の風景も変わってしまいましたけれども、それでも湖という中心があり、冬になると湖面の氷の亀裂が盛り上がる御神渡りという光景が見られる。眺めるだけだけれども重要な場所である。そうしたことが、最近は面白いなと思うようになってきました。東京だって中心に皇居があるでしょう。内には入れないけれども手付かずの自然がある。
シンボルというのは、そのような場所のことだと思うのですね。ぼくは回遊式庭園も好きなのですが、どこか建築そのものよりも池や湖のまわりを巡る、ということに対する興味が強いのだと思います。中心のようでいて、シンボルでありながら、何もない。そう考えてみると、諏訪湖のほとりの諏訪大社にも本殿がないんです。上社・下社それぞれ2社、あわせて4社あるのですが、いずれも本殿はなく、4本の御柱が神域を表していて、中心がないのですね。こうした構図は、日本の文化に本質的な影響をもたらしていると思います。
何もない、ということについては、かつて原広司さんや石山修武さんにも指摘されました。伊東の建築には何もない、その何もないことに意味がある──と。当時はぼくも若かったので、何を言っているんだ、と思ったものでしたが、今にしてみれば本質を突いていたと思います。
西沢大良
諏訪湖のまわりの人々の暮らし方は、具体的にどのようなものだったのでしょう。諏訪湖で漁をしたり舟運をしたり、生業を営んでいるという感じでしょうか?
伊東
何かをしているというより、みんな諏訪湖を眺め暮らしているんですよね。盆地なのでまわりは山に囲われて、湖の南側に住んでいる人も北側に住んでいる人も、諏訪湖に向かって家をつくり、盆地の外側のことは気にしていない。ぼくも、この山の外側はどうなっているんだろうなどということを考えたことはなかったですね。 そうしたことと関連があるのでしょうか、ぼくは外側のない建築ができたら最高だと思っているんです。ただ、結局は毎回、外側をつくってしまい、またやってしまった、と後悔する。それは永久に解決できないことなのでしょうが、本当は建築なんてないのが最高だって思いますよね(笑)。
病とコロナ禍が浮き彫りにしたマンションの均質性
中川エリカ
続いて、コロナ禍において伊東さんが一個人としてどのように過ごされたか、おうかがいしたいと思います。お仕事柄、これまで頻繁に日本と海外を往復されていたなか、強制的に自宅に居なければならない時間が増えたのではないでしょうか。住空間に対してあらためて発見されたことや、暮らしの変化などがあれば教えていただけますか。
伊東
ぼくの場合はコロナ禍というよりも、2019年のはじめに突然、脳幹梗塞で倒れてしまって、1年近く病院に出たり入ったりという生活を繰り返していたので、コロナ如何にかかわらず自宅に居ることを余儀なくされていたのです。ちょうどその頃、新型コロナウイルスも流行し始めてダブルで閉じ込められた、という感じですね。ですので、生活の変化といえば、コロナ禍よりも病気の影響のほうが大きかったですね。打ち合わせも事務所のスタッフに自宅のマンションに来てもらうようにして。ただ今では週2〜3回ほど事務所に出るようにしています。
マンション暮らしは10年ほど前から始めました。生まれてからずっと独立家屋に住んでいたのですが、療養で在宅時間が増えたことで、マンション暮らしは退屈だなあ、とあらためて思いましたね。一日中リビングで過ごしてそこで仕事もする。対して飼い犬は、あちこち居場所を変えるんですよ。暑ければ玄関の三和土で寝ていますし、寒い夜は暖かい寝室に入ってくる。一日に数回居場所を変えるのを見ていたら、昔の暮らしってこういうことだったんだな、と思いましたね。
ですので、西沢さんが前回のインタビューでおっしゃられていたように、マンションは非常に均質的というか、目的が決まった部屋をつくり、ここで食べて寝なさい、と決めつけてしまうつくりで、それはとてもつまらないということをコロナ禍で再認識しました。
浅子
もう自邸を設計されるお気持ちはないんですか?
伊東
ないですね。自邸をつくるのは若い頃じゃないと。やはり自分の家というのは、何らかの色気のようなものがあってつくったと思うんですよ(笑)。
たしかにマンションって住んでみるとつまらないけれども、旧自邸(《シルバーハット》(1984))に比べるとまあ相当にラクなんですよ。暖房をつけなくても程よく暖かいし、セキュリティもしっかりしている。ただラクすぎて人間をダメにしかねない(笑)。
中川
このシリーズで乾久美子さんをゲストにお招きした回でもお話ししたのですが(「建築家として、生活者として──プログラムとパラダイムの先にあるもの」)、1980年代生まれの私は、じつはこれまでマンションでしか暮らしたことがないのです。ただ自分の原風景・原体験として思い出されるのは、マンションの室内ではなく、エントランスの半屋外空間の風の抜けや坂道の地形と連続した高天井のアプローチなど、マンションの周縁です。つまり、均質ではない部分の方がおもしろく、印象的に感じていたし、均質な内部空間への鬱憤や脱出願望のようなものが今の設計につながっているのかもしれません。完全に切り離された内部で閉塞感を感じ、それが退屈さにつながるという伊東さんのお話は、自分の実感としても、とてもよく理解できます。
伊東
集合住宅で均質さをいかにはずしていけるか、ということは大きなテーマのひとつですね。現在進行中のプロジェクトで、渋谷の集合住宅があるのですが、10戸ほどの小さな戸建てを重ねたようなもので、クライアントは喜んでくれています。東京もビルの高いところから見下ろすと表通りは均質なビルが建て並んでいるけれども、裏にはまだ昔ながらの一軒家がたくさん残っているんですね。東京でできることはもうないのか、とも思っていましたが、まだまだ取り組むべきことはあると最近は考えるようになりました。
中川
伊東さんは長らく渋谷で事務所を構えておられるので、再開発によって変化する渋谷に対しての実感を踏まえながら、都市や社会の均質化についてしばしば発言されています。これからの社会やこれからの建築というテーマに対して、どのようにお考えでしょう。
伊東
できるだけ高層化しないことに越したことはないと思っています。ディベロッパーからすると都市をさらに開発するには上に延びるしかない、という発想なのでしょうが。高層建築でも、もっとやりようがあるんじゃないかと考えています。
2021年9月にソウルで開催された建築都市ビエンナーレで行なった「動的平衡」というインスタレーションでは、透明なアクリルの立体のなかに、いびつな表層に覆われた真紅の人体像を閉じ込めました。これは生物学者の福岡伸一さんの論説にインスピレーションを得たもので、曰く、人間の身体は内部で毎日細胞の自己破壊が行われていて、それこそが生命体が生きている状態なのだそうです。このインスタレーションは福岡さんがおっしゃる動的平衡のイメージを解釈したものなのですが、一方でぼくなりの超高層ビルのイメージも重ねています。外はガラス張りだけれども、中に入ったら人工的な環境とは異なる自然がある。現代建築では自然との関係が失われていますが、それを取り戻せるような高層ビルもできるのではないかと思って。
ただ最近、とある高層ビルのプロポーザルに誘われたところ、ディベロッパーがあまりに目先のことしか考えていないことに愕然として、やはりこの人体像と現実には程遠いものがあると痛感しました。けれども今日明日のことではなく10年先のことを考えるようにしたら、高層ビルも変わるんじゃないかと思うんですよ。
西沢
たしか90年代末にお台場の再開発が始まろうとしていた頃、伊東さんから今のような超高層の話を聞いた覚えがあります。人体型ではなかったですが、下から上へ流れるような吹抜けのある超高層をやりたいとおっしゃっていました。そんな風に考えるのか、と驚いた記憶があります。
伊東
そういうことを考えていましたね。流体のような吹抜けではないですが、シンガポールの高層オフィスビル《CapitaGreen》(2014)では、地上200mの屋上に高さ45mのウィンド・キャッチャーを設置し、ここで得られる涼しく清浄な空気を、ビルを貫くコアを通じて各フロアに供給する空調計画を立てました。また最上階には植物が生い茂る森をつくり、ファサードには奥行きは浅いものの緑のテラスを設けることで約55%を緑化しています。緑化はメンテナンスや管理面から忌避されがちですが、この時のディベロッパーは、この建築はシンガポールのシンボルになる、とあっさりその場で了承してくれて。こんなワンマンのボスがいたら日本でももっといろいろなことができるのですが、残念なことに本当にそういう人がいなくなってしまいましたね。
消費社会における生き方を肯定する
浅子
本日、お話をお聞きするのにあたり、伊東さんが30余年前に書かれた「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(『新建築』1989年11月号「建築論壇」)を読み返してみたのですが、現在でも非常にアクチュアルな問題を扱っており驚きました。消費の時代にあって、フォルマリズムではなく「新しい都市生活のリアリティを発見することから始めたいと考えている」という一節は今なお重要な指摘だし、なにより当時鮮烈なデビューを飾った吉本ばななさんの『キッチン』(1987)への言及が素晴らしい。深夜のコンビニの入り口の前でモノを食べ語らう女性たちを、「屈託なく食べ、とりとめなくしゃべり続ける。実に生き生きとしゃべる。それでいて実にデリケートな感受性に溢れている。人間を信頼しきっている。消費社会の真只中に生きていながら何のスノビズムもなく、消費に押し流されることもなく、人間肯定的である。豊かで新しいリアリティに満ちている。」と評されています。
長年、建築家をはじめコンビニを均質空間の象徴として批判的に捉える風潮がありましたよね。けれども当時から伊東さんは、深夜のコンビニの前で女性が食べながらおしゃべりをしている情景を肯定している。これは慧眼だったと思うんです。現在のモダニズムの延長線上にあるこの社会や建築はあきらかに疲弊し、矛盾を抱えているのにもかかわらず、コンビニの否認に代表されるような、硬直した社会観はそのままで建築だけ新しくしても意味がない。だから、コンビニ前で楽しそうに食べてしゃべっている女性たちを肯定している伊東さんに感銘を受けたんです。
伊東
当時のぼくはそこまで深読みはしていませんでしたが(笑)、コンビニはどこにでもある均質な空間でありながら、それを生き生きと描いた吉本ばななさんの視点やボキャブラリーが素晴らしいと思ったんですよね。
浅子
伊東さんご自身が当時どう思われていたかは、わからないですが、ぼくには伊東さんのその後の建築に、吉本さんが描いていた女の人たちの片鱗が見えるような気がするんです。モダニズムがこうあるべし、と描いた、時の止まった理想的な近代人としての人間像ではなく、仕事帰りにコンビニで夜食を買って好きに過ごすような生き方を肯定しながら、建築をつくっているように見える。なにより、その人間像は、元所員の妹島和世さんを連想させるし、《せんだいメディアテーク》(2001)についても、図書館やギャラリーはあるけれど、それだけが目的というよりもあそこを訪れる人はある意味でダラダラととても自由に過ごしていますよね。その姿を、建築を通じて肯定しているように見えるんです。
伊東
たしかにそうですね。浅子さんはイメージとしての女性を引き合いに出されたけれども、ぼくがつくった公共建築でも肯定的に利用してくれているのは、圧倒的に女性が多いと思います。社会でも、もっと女性が活躍してほしいですよね。
一方で都市生活について言えば、都市がこのまま右肩上がりでいくと思われない、というのは皆が思っていることだと思います。コロナの影響もあり、都市と地方は、これまでの二項対立的な関係からオーバーラップしていくようにも思われるのですが、皆さんはどうお考えですか?
中川
今、中川事務所で設計をしている建築を踏まえてお話をすると、お施主さんは、30代後半から40歳前後という私と同世代の方がほとんどで、半分程度のプロジェクトは、二拠点居住、もしくはコロナ以降の生き方、働き方、サービスを考えてのご依頼なのです。仕事のために都市に住まなければならなかったところ、オンラインでも仕事ができることがわかり、都市生活の不足を地方で補いながら生活したいといういう方や、今だからこそ新しい場の提供ができるのではないかという野心のある方からの設計依頼が確実に増えています。それらに共通するのは、都市と地方を二項対立として捉えるのではなく、両方のよさを横断しながら生きたいという思いです。
伊東
経済的な都合もあるでしょうから、都会に住む場合には小さなマンションで、その代わりに地方では安い空き家を買って広々と住むなど、工夫できるのでしょうね。
中川
まさにおっしゃる通りで、東京の家に対して私たちが出る幕はあまりなくて、地方の空き家や空き地の活用を建築家に相談したい、というケースが多いのです。都内から2〜3時間程度の現場がすごく増えました。もともと特別なものではなく、一見どこにでもあるようなものだからこそ、建築的なアイデアが欲しい、ということなのかもしれません。かつては地方に別邸をもつというと経済的に恵まれた特権的なライフスタイルだったと思うのですが、そうではなく、自分の生き方を見つめ直した結果、都内か地方かという2択では括りきれない選択肢を模索しているという印象を受けます。
伊東
マンションの均質さは、特に子どもがいる女性にとっては嫌というほど退屈なものだと思いますね。中川さんがおっしゃる空き家は、たとえ古民家として優れた価値はなくとも、マンションとは違った考え方・暮らし方ができるはずですから、これからそのような暮らし方をする人は増えてくるのでしょうね。《シルバーハット》(今治市伊東豊雄建築ミュージアム内)を再建した瀬戸内の大三島も人口6,000人に対し、空き家が800軒ほどあるらしいんです。もう少しうまく活用できればと思うのですが……。
浅子
空き家は放置していると壊事故などの危険もあるし、もう少し法整備も含めてなんとかできればと思うところはありますよね。
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公開日:2022年02月22日