インタビュー 6
コロナ禍以降に再考する、建築の美と生と死
伊東豊雄(建築家、伊東豊雄建築設計事務所) 聞き手:西沢大良(建築家、西沢大良建築設計事務所)+中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)+浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)
抽象化した自然と建築の美
中川
次に、「美しい建築」についておうかがいしたいと思います。お話しくださった諏訪での少年時代は、『伊東豊雄 自選作品集:身体で建築を考える』(平凡社、2020)でも触れられています。「私にとっての原風景は湖を囲む山々から成る諏訪盆地ということになるのだろう。盆地で囲まれた空間で暮らすという感覚は海辺の空間とは全く異なるものであるに違いない。それはまるでお椀の中に居るように完結性の強い内部空間である。内部だけがあって外部のない空間である。この内部感覚こそ、後の私の建築空間の身体性を形成しているに違いない」(p.44)という部分、私は特に印象深く感じています。
というのも、ここで綴られている「内部感覚」は、『新建築』2021年10月の月評での、平田晃久さんとの対談にある、「外まで広がっていくようなものをつくろうとしたけれど、どうしても美しい建築にならない(笑)。(…中略…)僕は、一回切って中に別のものを考えると、自然を再解釈した抽象的な意味での自然になる。その方が美しい建築をつくれる、という信念があるんです」という発言にも通じるものがあり、伊東さんが考えられている建築の美の話とも関連が深いのではないか、と思うのです。 平田さんとの対談では、「たしかに美意識は時代と共に変わっていくものかもしれないし、僕がこだわる美意識はどこかでいまだモダニズムの意識を継承していると思います。」とも語られています。伊東さんのモダニズム観と諏訪湖のほとりでの原体験に端を発する「切り取られている感覚」や「美」との連関について、ぜひおうかがいできますでしょうか。
伊東
ずっと考えてきたことなのですが、モダニズム、いわゆる西洋の人の自然観とわれわれの自然観は相当違うものがあると思っています。日本人は自然のなかに神がいると思っており、神は身近だけれども敬うべき、そして敵わない存在という意識が根付いていますよね。しかし西洋の人たちは、神は自然をつくり人間をつくった、したがって人間は神がつくった自然を守るのではなく管理する立場にある、と考えている節があるのではないでしょうか。
このようにぼくら日本人はどこかでつねに自然の中に身を置いていたい、という感覚をもっていると考えているのですが、それをいかに建築で表現するか。それは環境に優しい建築やサスティナビリティという話だけではないのです。建築で自然を美しく表現するためには、一旦、外部と切らないとうまくいかないのではないか、その切るということがモダニズム的なのでしょう。そして外部から断ち切られた内部に抽象化した自然をつくる。
なぜ抽象化が必要かというと、原風景というものは、人によって違うものです。抽象化することで多くの人々と共有することができるし、人によってさまざまな受け取り方をしてもらえる。 今の日本の生活──特に都市生活は、近代化を無視して考えることはできません。自然から切り離された都市環境の中で、近代化を否定せずに、いかに自然を回復できるか、ということを今は考えています。
中川
「自然」といえば、建築の美と同じく、「自然」についても、伊東さんは独自の感覚やお考えをお持ちでいらっしゃるように感じています。『自選作品集』の「3.11に学ぶ」というエッセーの中で、震災直後に通われていた岩手県釜石市や、「みんなの家」(2011)をつくった宮城県仙台市の東海岸で、地元の方々から掛けられた言葉が、伊東さんのなかに深く残っておられる、と綴られています。なぜそれほど残っているのか自問された時に、「彼らの発言は一瞬であった。思わず発した一言であった。だが、一瞬、の背後に通常の状態では見ることの出来ない深い何かを見透かしていたように思えるのだ。この深い何か、とは一言で言えば「自然」ではなかったか。」「ここで言う「自然」とは、彼らの生の全体に関わる本質的な何か、とでも言ったらよいだろうか。それは自然に親しむ、とか自然に開く、といった程度の自然ではない。彼ら自身の存在の意義を決定づけている「自然」という概念である。」(pp.52、54)「しかしあの時の彼らの一言の背後に存在していた「自然」と言う概念こそ、「モダニズム建築」に決定的に欠落していたものであると、今では確信できる。それはいかにして現代建築に回復できるのだろうか」と書かれています。 ここでおっしゃられている「自然」とは、人々の原風景やアイデンティティのようなものではないでしょうか。切断、という手法はモダニズム的ではありますが、モダニズム建築が捨て去った原風景や生き方、アイデンティティを伊東さんは建築の内側にまた取り入れることで、通常の切断とは異なる表現をされようとしていらっしゃる。このような発想は、やはりはじめにおうかがいした諏訪での原体験や、原風景がご自身の建築に影響を与えるという気付きと無関係ではないように思います。
伊東
東北での体験は、田舎育ちだったぼくが、いかに東京という大都市とかかわり、そこに身を置いていったか、という過程を思い出させるものでした。振り返れば、諏訪での少年時代においては、東京というところはもう本当にすごいところだ、と、熱烈な憧れの対象であったのですね。中学校3年生の途中で東京に移ったのですが、当時のぼくにとっては、新宿の高野フルーツパーラーに行ったり中村屋のカレーを食べられるなんて、夢のなかにいるような出来事でした。そのように都会を経験して建築を学び始めると、当たり前のように近代的なシステムのなかで建築や都市を考えるようになるのです。つまり、ぼくの建築的な思考は都市と密接に結びついていて、ずっとその延長線上に身を置いていたということなのですね。
しかし東日本大震災で津波に流された三陸のまちを訪れたところ、ぼくが育った諏訪の田舎にいたような方たちがまだいらっしゃいました。その時は、自分が予想もしていなかった人たちに初めて会ったような──外国の村を訪れた旅行者にも似た感覚を覚えたんです。そして、お前ら何しに来たんだ、と言われて、はっとなって。ぼくがこれまでつくってきた建築をこの人たちに見せても、何だそれは、という反応しか返ってこないだろうし、実際、よそからきた変なおじさんだと思われていて、後で、あの時来たのはけっこう有名な建築家だったんだな、と言われて(笑)。いずれにせよ、このようなところでこのような人々に、ぼくは役に立つことができるだろうか、と一生懸命考えたんです。そして山本理顕さんたちと話し始めたのが「みんなの家」でした。 すでに行政が考えている復興計画は近代主義そのものを押し付けるかたちで、非常に抵抗感がありました。もっといろいろなできることがあるはずだ、と悩み抜いたのですが、最低限できたのが「みんなの家」だった次第です。
中川
私個人の意見ですが、最初期の「みんなの家」は、その存在自体が問題提議だったように思います。モノと人々の思いが同時に現れてしまうような建築を通じて、多くの建築家は、なぜ建築が必要なのか、建築に何ができるのかという、建築のモノを超えた意義を、自分自身に突きつけられたように感じたのではないでしょうか。ただ、その副作用のように、今、建築の美について、建築家が考えることが少なくなっているようにも思われます。もちろん、美の価値観は時代とともに変わるし、モノの美だけではないとも思うのですが、伊東さんはそのことについて、どうお考えでしょうか?
伊東
公共建築では、どうやったら人々がそこに毎日でも来てくれるか、ということを考えます。それは便利だから、という理由ではなく、建築の魅力に惹かれて足を運んでもらえれば、という願いがあるのですね。それがぼくにとっては抽象化された原風景で、何か懐かしいものを感じてもらえたり、共有できるものがあったり、単なるモダニズム建築にはない魅力を感じてもらえるものであってほしい──それを平田さんとの対談では「美」とも言ったつもりなのです。特に女性や子どもの感性に触れられるものがあればうれしいですね。
西沢
先日お会いしたとき、伊東さんはある建築について「あれは美しくない」と何度かおっしゃって、僕は「ではどういう建築が美しいですか?」と聞いたところ、伊東さんは意外なことに昔のお寺や境内のような名所旧跡みたいな例を挙げられました。建築史に出てくる作品というよりも、その地域に住む人々が誇らしく感じていて、見事だと思っているような場所でした。そこに行くのが嬉しいから、今でも子どもも女性も集まってくるというような。そういう建築の受け入れられ方を「美しい」と言っているのかな、と思いました。
建築の生と死をめぐって
中川
先ほど「みんなの家」のお話が出ましたが、私はこの建築以降、伊東さんの建築に「生と死」を感じるようになりました。しかし、せんだいメディアテークができた2001年に建築学科に入学して学び始めた私とは異なり、西沢さんは、以前より伊東さんの建築に「生と死」というテーマを感じておられたと伺っています。このテーマは、西沢さんが深い関心を寄せられていることもあり、西沢さんからご質問いただけますでしょうか。
西沢
2年前から続いているコロナ禍では、多くの人が自分も感染するかもしれないと感じたり、もしかすると死ぬかもしれないと考えたと思います。コロナ以前に比べると、死を身近な問題として考えるようになった人は少なくないでしょう。ところが建築界では、依然として死や感染は例外的なものとされているような気がします。コロナ禍におけるほぼ全ての感染と死は、野外でなく建物の中で発生しているのですが、それにしては誰も建築と死の関係を取り上げないですね。
近代以前の住宅は、人を看取ったり、亡骸を安置したり、葬式をあげたりする場所でもありました。死者の居場所もあって(仏壇)、毎日お供物をしたり、特別な言葉で話しかけたり(お経)、日々の生活行動に死が織り込まれていました。でも近代住宅以降、そうしたことを排除するようになった。今日のマンションや戸建て住宅もそうですが、我々の知っている近代住宅は、人は永久に死なないかのような感覚でつくられています。少なくとも家の中で人の死に立ち会うことはほとんどないです。ドラマやニュースで見聞きするくらいでしょうか。それで死が観念的なものになってしまう。
僕としてはもうちょっと、死や感染を前提として建築をつくった方が良いと思って、過去の建築家の仕事を見返していたところ、伊東さんの仕事にはなぜか死と関連したものが少なくないですね。《中野本町の家》(1976)は伊東さんのお姉様と2人の娘さんの3人のための家ですが、もともとお姉様のご主人、伊東さんのお義兄さんの死がきっかけで設計されました。その《中野本町の家》も30年後には住み手がそれぞれ第二の人生を生きるために解体されました。人が死んだことでつくられたはずが、30年後になると人が生きるために建築は死ぬことになった。その後の《東京遊牧少女の包》(1985)や《シルバーハット》などの仮設建築の系列も、建築が担ってきた永遠性、墓標のような永続性に対する拒絶があったと記憶しています。建築なんて空き缶くらいの軽さでいいんだ、消費財として破棄してかまわない、とおっしゃっていた時期でした。
まだあります。2000年にハノーヴァー国際博覧会で伊東さんが設計したパヴィリオン《へルス・フューチャー》も、別の意味で死がテーマのように見えました。あれは巨大な倉庫のような空間のなかに、諏訪湖のように楕円形状に水が張ってあり、その周囲に50脚くらいのきれいなマッサージチェアが置かれていて、博覧会で疲れた人々が自動マッサージを受けている、というインスタレーションでした。ライティングされた淡いカラフルな空間のなか、何十名ものドイツ人がマッサージチェアで眠りこけていて、ふと目覚めた人が起きあがってあちこち彷徨ったり。あの光景は、まるで三途の川か蓮池かというような、死後の世界のようでした。その後、文字通り死者のための施設(斎場)や終末施設(ホスピス)も手がけてられました。《コニャック・ジェイ病院》(フランス、2006)や《瞑想の森 市営斎場》(2006)、《川口市めぐりの森》(2018)などです。ですから見方によっては、いろんな角度で死を扱ってきたようにも見えます。
伊東さんご自身も数年前に大病をされました。大変なことになったとお見舞いに向かったときは緊張しましたが、意外なことにあまり変化がなく、いつもどおり2時間くらい建築の話をしました。話が長くなってしまいましたが、伊東さんにとっての住み手の死、または建物の死、もしくは死者のための施設、あるいは建築家自身の死など、何か考えてきたことがありましたら、お聞かせください。
伊東
自分の死ということについてはあまり考えないですね。まだ生き永らえると思っているのかな(笑)。親戚を含め、身近な人は比較的大勢亡くなっているのですが、あまりリアリティがないというか……。あっという間に消えていく感じで、現代社会というのはそのようなシステムになっているのでしょうね。
ぼくがこれまでに見た死の風景でいちばん強烈だったのは、石山修武さんたちとネパールにいった時のことです。夕方散歩をしていたら癩病の病院があって、囲いの内にお祈りをする場所があるんです。その間には土間があり、そこを癩病の患者たちが這いずりまわっている。動けない人は一段上がったところでゴロゴロ寝ていて、凄い情景だと思ってそこから出たら、壁一枚隔てた裏には川が流れていて、ほとりで亡くなった人を焼いている。薪を積んだ上に死体を置き、そこでは炎が燃え盛っていて……にもかかわらず、すぐ近くでは夕涼みをしているかのように座っている人たちもいて。あの情景も強烈でしたが、臭いも凄かったですね。川といえば、《瞑想の森 市営斎場》も《川口市めぐりの森》の火葬場の待合スペースも、水を眺めるつくりをしていますね。諏訪湖のほとりではないですけれども、死と水はぼくにとっては何か関係があるのかもしれません。
ともあれ、あのネパールでのすさまじい情景を見た時、ふと、「死とはこういうものなんだ」と思ったものでした。中世までは死体なんて、街中至るところに転がっていたのでしょうけれども、現代では隠しますよね。ぼくが子どもの頃は葬儀場と言えば煙突が立っていて、煙とともに臭いが漂っていたものですが、今はその臭いすらしない。西沢さんがおっしゃるように、日常において死と向き合うことがなくなってきているように思います。
浅子
臭いもクレームを受けて消す方向になってきたのでしょうね。全体として死を感じさせない空間や社会になっている。
伊東
それが良いことなのか悪いことなのか……。「建築の死」ということについて言えば、ぼくは基本的に、建築は使っている人から好まれなくなったり愛されなくなればなくなったほうがいい、というスタンスだったのですが、最近はその考え方にも変化が生じてきました。《中野本町の家》に関する話なのですが、姉から、娘2人も成人してこのまま家に縛り付けられたら寄り添って暮らす道しかなく、3人の未来がない、ただ人には貸したくない、と言われて。だったら壊せばどうだろう、と答えたんです。
隣に住んでいたので、解体の過程を間近に見ていました。「美」ということで言えば、ぼくが手がけた建築のなかではいちばん美しかったかもしれない、あの真っ白な建築が、1日で無残な瓦礫に変わってしまって、これは残酷だなあ、と。建築の死を初めて実感したのですね。
最近、『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』(建築の建築、2020)が出版されましたよね。これまで自分の建築は愛されなくなったら壊されても仕方ない、と未練はないつもりでしたが、多木さんが撮られた《中野本町の家》の写真を見ていたら、この建築は残って欲しかったなあ、と。《中野本町の家》の家を設計したのは35歳くらいの時で、まだいくらでもこうした建築はつくれる、と思っていたけれども、当時でしかできないこともあったと最近では思うようになりましたね。
西沢
《中野本町の家》は解体後に、ドイツの展覧会で原寸で再建されていましたね。
伊東
訪れた姪は泣き伏してしまって。
西沢
ええ、会場で泣き崩れたとお聞きしました。姪御さんのその反応は、親しい人が突然亡くなったと聞かされたときに似ている気がします。いずれにしても、あの建物が存在していたこと、今は存在していないこと、という事実の重さを感じます。
伊東
最近は、壊されたくない、という建築をつくりたいと思うようになりました。
西沢
なるほど。多くの人が壊されては困ると思うようになった建物は、建築の死を乗り越えるのかもしれませんね。
質疑応答
中川
今回のインタビューはウェビナーで現在同時配信していて、視聴者の方々からもご質問が寄せられております。いくつか私の方で代読しながら、伊東さんに引き続きお話を伺っていきたいと思います。 まず、「建築が風化していくことは美しいと思いますか」という質問について、伊東さんのお考えはいかがでしょう。
伊東
いまの話で言いますと、《中野本町の家》はいわゆる日本の民家のようなものとはおよそかけ離れた住宅だったのですが、それでも壊される直前に眺めた時、いろいろな記憶が染み込んでいる「生きられた家」であったと感じました。家というものはいずれも同様で、空き家に惹かれるのは、そこに住んでいた人の痕跡や記憶に魅力を感じるからではないでしょうか。建築家がつくった新しい家にはないものを感じたいからこそ、それを継承してみたいと思うのかもしれませんね。
中川
たくさんの質問が寄せられているので、どんどんいきたいと思います。次は、「仮に二拠点生活が可能だとして、ほとんどの自然は都市の外にあると思います。地方の暮らしや自然との関係性、日本の伝統的な文化と都市のつながりはこれからどうなっていくのでしょう」という質問です。
伊東
ぼくが幼い頃東京に憧れたように、多くの人が近代化は素晴らしいことだと思っていました。とはいえ、そこでは満たされない何かを日本人は潜在的に抱えている。それをどのようにかして建築で顕在化させてみたいと思っています。身近に田んぼや畑をつくればよい、という話ではないのですね。 二拠点居住ということについて言えば、都内で二拠点、ということもありだと思います。東京でもまだそこここに古い町並みが残っています。均質化されたマンションとは別に、昔ながらの趣を宿すエリアに住むと、価値観が変わるのではないでしょうか。
中川
ありがとうございます。続きまして、「高層化、均質化、都市に対して、低層化、混沌・複雑化、地方というワードがイメージされます。人口が減少するなかで、まちづくりに対してどのような打開策が考えられるでしょうか」という質問については、いかがでしょう?
伊東
これはぼく個人が解を示すのではなく、ご質問くださった方含め、みんなが考えるべき問題ですね。
西沢
マンションの均質化は東京だけでなく、地方都市でも一様に広がっています。けれどもまだ、みんなが遊びにいく河原やお城や公園など、そのまちにしかないものが残っています。そうしたものを排除しない建物や庭をつくれるようになれば、近代建築とは違ったかたちで人が集まるようになったり、まちも少しづつよくなるかもしれないです。
伊東
コロナ禍で人が集まることを避けるようになりましたが、やはり人が集まらないとつまらないですよね。西沢さんがおっしゃったように、人が集まる場所をつくりたいという想いは強くもっています。逆にいくらデザインのよい建築をつくっても、人が集まらなければ意味がないですから。
中川
最後に、「これからの建築とまちづくりにおいて、どのようなことが可能でしょうか」という質問にお答えいただけますでしょうか。
伊東
まちづくりは、地元の若い人たちが最近がんばっているところが多く、そうした力をきっかけに、さまざまな活動が始まりつつありますよね。それ自体は素晴らしいことと思っているのですが、ぼくは建築について言えば『新建築』の平田さんとの対談でも語ったように、みんなで考えてみんなでつくる建築よりは、どれだけ自分の意思をはっきりと表現した強い建築がつくれるか、ということに興味があります。なかば開き直り気味なのですが(笑)。
西沢
集団によると思うんですね。まちづくりでうまくいっているところには、必ず集団のなかにキーマンがいますよね。「自分が責任をとる」と言って、周囲を説得してまわるような人。20〜30年前には発注者側にも住民側にもそういうキーマンがいて、ずいぶん助けられたのですが、10年くらい前からほとんどいなくなりました。キ―マンがいるのといないのとでは、全く違うんですよね。キ―マンがいない集団は、誰も責任を取らないということだから、前例主義に行き着くことになる。逆にキ―マンがいる集団は、やり方によっては前例のない仕事を成し遂げてしまう。住民重視とか発注者重視というような区別をするよりは、キ―マンの有無で区別した方がいいような気がします。
浅子
残念ながら時間になってしまいました。僕自身は、新国立競技場はコンペで選ばれたのだからザハ・ハディト案をつくるべきだという主張をし、槇文彦氏や内藤廣氏とのシンポジウムにも登壇した経緯があるので、正直これまで伊東豊雄さんの案をきちんと見ていませんでした。ただ、今回改めて作品集を丹念に読んでいくと、なるほどこれはスタジアムの提案としてとても誠実でユニークなものであると気付かされました。
本日のインタビューの冒頭でお聞きした諏訪湖も、ご自身で設計した中で最も美しいかもしれないとおっしゃった中野本町の家も中心がなく、その中心の欠如こそがシンボルとなっている。そしてそれは、じつは「新国立競技場整備事業公募型プロポーザル応募案」(2015)も同じなんですね。白磁の器をイメージされたというスタンドは、「素晴らしい茶碗は口にあてた時、無限の拡がりを感じると言う」と説明されているように、存在しない中心こそがシンボルとなっている。経緯は別としてこれが今あの場所に建っていたら、随分と東京の風景は変わっていたでしょう。 本日は建築と建築家の死について、という話から始まりました。ただ、本日お話をお聞きして、失礼かもしれませんが、伊東豊雄さんには死は似合わないというか、とても生を感じる人でコロナ渦でなければ、聞けない話題が聞け、大切な示唆をいただいたように思います。本日はありがとうございました。
[2021年12月24日、伊東豊雄建築設計事務所にて]
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公開日:2022年02月22日