インタビュー 4
地方でアートと暮らすこと
大澤苑美(八戸市美術館学芸員)、吉延詳朋(八戸市建設部建築住宅課) 聞き手:浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)
アートプロジェクトからはじまった
浅子佳英
2011年11月3日、2016年のプロポーザル時から数えて5年、西澤徹夫建築事務所、タカバンスタジオ(現プリントアンドビルド)、森純平で基本設計、実施設計、現場監理、さらには展覧会の会場設計と関わってきた八戸市美術館がようやくオープンしました。この建物はじつにたくさんの人たちの多大な労力によって支えられて実現した建物なんですが、そのなかでも特にユニークな関わり方をしていたのが今回お話を伺いする、大澤苑美さんと吉延詳朋さんなんです。お二人は、大澤さんが「まち文」(まちづくり文化推進室・当時)という市役所の組織のなかでアートプロジェクトをやっていて、吉延さんが建築住宅課にいらしたんですね。それが気がつけば、片方は美術館の学芸員になり、もう片方は美術館建設の担当になったわけで、それ自体がそもそも面白いんですが、それだけでなくお二人はじつはご夫婦で、もとは青森の人ではないんですね。このインタビューは「これからの社会、これからの住まい」という大きなテーマのなかのひとつなんですが、お二人を見ていると、現代の社会や住まいかたについても示唆的な暮らしをされていると思っていました。
そこで、どういう経緯で美術館に関わるようになったのか、もしくは、そもそも美術館ができることを知っていたのか、そうでなければ、なぜ八戸に来たのかとかいうのも含めてお聞きしたいなと思っています。本日はよろしくお願いいたします。
大澤苑美
私が来たのが先で、2011年の4月、震災直後に来ました。八戸を知ってもらうためのポータルミュージアム「はっち」ができたのが2011年の2月なんですが、八戸が文化政策に力を入れることになっていたんですね。それを推進するためにスタッフが欲しいという目的が八戸市側にあって、ちょうどその時に文化政策のアドバイザーをやっていたのが私の大学の恩師でもある熊倉純子先生だったんです。それで、誰か人がいないかなって探していたときに私に声がかかりました。
浅子
なるほど、ちょうど「はっち」ができるタイミングだったんですね。熊倉さんから大澤さんのところに直接連絡があったんですか。
大澤
はい。で、「募集があるけど来る?」みたいな話があって、来たという。
浅子
じゃあ普通に市役所の募集で正規のルートで入ったんですね。
大澤
最初は嘱託職員という立場で来ました。念押しするように「行く気があるか」と聞かれたんですが、地方に行くのは抵抗がなかったんです。
浅子
え、初めての地方ですか?
大澤
そうですね。それまでは東京で「地域創造」という財団(公共文化施設や自治体の文化政策を支援する財団)で働いていて、各地の文化施設を訪れていたのであちこち地方の様子は見ていましたが、自分で実際に企画したりする仕事ではなかったので。
浅子
八戸に来たらそれが実現できると。
大澤
そうです。自分で企画して、この人を呼びたいなと思ったアーティストと仕事ができるなら面白そうで。しかも自治体がアートに力を入れるってことは、私が一人だけで孤軍奮闘するわけではないっていうこともわかっていたのも大きかったですね。その時に、私の隣の席にいたのが今の副館長である高森大輔さんだったんですよ。
浅子
ええ! そうなんですか!? 補足しておくと、高森さんというのは、八戸市の職員の方なんですが、それこそ、プロポーザルの時から事務局にいた人で、その後も設計期間中もずっと僕たちと並走してくれていて、たぶん彼がいなければこの美術館は実現していなかったと言ってもいいぐらい、非常に重要な人物なんです。
大澤
はい、で、その高森さんが、私の仕事上のパートナーというか、
浅子
その時は2人だけしかいなかったってことですか。
大澤
いやいやいや、もっといましたよ、グループ全体で6人くらい。高森さんが、行政の側でアート推進するということを政策として整理し、財政面の調整をし、私は「こういう人とやりたいんだけどどうですかね」と提案して一緒にやっていくということをほかの職員を含めてやっていました。
浅子
逆に言うと、大澤さんが入る前はアートプロジェクトをやる人はいなかったのですか。
大澤
そうです。
浅子
高森さんは「はっち」をつくる時に関わった人ですよね。
大澤
うんとね、「はっち」をつくるのにはじつは高森さんは関わってないんですよ。「はっち」ができた後にもともと「まち文」にいた高森さんが異動したという経緯なんです。そもそもその前に、私が来る1年前の2010年度、平成22年度に部の組織改正があって、まちづくり文化観光部というちゃんとした部になったんですね。
浅子
なるほど、その時に「まち文」という部と課ができたんですね。
大澤
そうです。その前は文化課という課ができ、教育委員会から市長部局に移って、その後文化スポーツ振興課だったかな。
浅子
そのタイプは多いですよね。文化とスポーツをくっつけた課。
大澤
それがちゃんとまちづくり文化観光部になって、まちづくり文化推進室の中の文化グループになりました。そこで、「文化を政策としてちゃんとやるぞ」みたいな空気になって、まさにそれをどうやるかというのを熊倉先生をアドバイザーに迎えていろいろ考える、ということが先行してあったんです。
でもその時にその職員の皆さんで、「南郷アートプロジェクト」っていうアートで地域の魅力を再発見するプロジェクトをやりたいなとか、工場は面白そうだからなんかアートにしてほしい、という種だけはすでにあったんですね。ただ、それを具体的にどうやるかということはできていなかったんです。
浅子
実際にどういうアーティストを呼んで、具体的に何をやるのかというのは決まっていなかったわけですね。
大澤
実現するためには、そのための職員が必要だから、ちゃんと雇いなさいという話になって、じゃあいい人を探さないといけないという話になり、私に声がかかってきたんです。
浅子
では大澤さんは具体的なプロジェクトが動く前から、本当に最初からいたんですね。改めて教えてほしいのですが、「南郷アートプロジェクト」では、具体的にはどういうことをやっていたんですか。
大澤
八戸市に合併した旧南郷村が、まだ当時合併して5年くらいだったのかな。そこで八戸市と旧南郷村の心理的距離を縮めたいという話があったんです。
浅子
八戸の中心部からは、ちょっと離れてますからね。
大澤
そう、一体感を作りたいということがあり、さらに南郷には新しくできたホールがあったので、その活用を考えないといけないという行政的な課題もありました。南郷は、地域資源が豊かな場所なのでそれらを生かし、またホールがあるから、ダンスやパフォーミングアーツと組み合わせたアートプロジェクトをやってほしいということがオーダーとしてもあったんです。 それで、ホールで公演するのではなく、南郷のまちに出てパレードをしてみたり、南郷の歴史を拾い上げて、それを舞台に上げて作品にする、というような変わり種企画を南郷のいろいろな人たちとやったんです。ホールの人たちが仕事のパートナーになり、一緒に南郷の地域資源を開拓していました。
浅子
どちらかというと舞台寄りの仕事ですよね。もうひとつやっていたことが「八戸工場大学」ですか。
大澤
工場は私が最初にいた文化グループのなかの、当時のリーダーだった方がすごく工場が好きだったっていうものあって(笑)。それで、工場と一緒にアートプロジェクトをやる、ということをゴールにしました。
震災直後は工場は結構被害が大きかったので、すぐにプロジェクトは始められなかったんですが、落ち着いた頃に「工場ツアー」から始め、次にもう少し市民の人たちが、つねに関われるようなプロジェクトとして整えていく必要があるなと感じ「八戸工場大学」を始めました。大学の形式なら市民も工場に関われるし、工場の人たちも市民に出会うことができますから。そうして仲良くなった先に、「工場でアートプロジェクトやりますか」って話にいつかなればいいなと思っていました。そこで工場や炭鉱とアートプロジェクトをよくやってる菊地拓児さんにアドバイスをもらい、市民のなかの工場が好きな人を事務局に誘って、一緒に運営しましょうっていう体制をつくったんです。
浅子
では、市民の人が事務局なんですか。
大澤
市民の人たちと、私たち行政のスタッフが事務局です。その後、結構割と早い段階で、LNG(液化天然ガス)ターミナルの人が協力してくれるという話になってアートプロジェクトが実際に動きはじめました。 最初は炎を愛でるだけのイベントだったんですよ。近くのビルの屋上を借りて、そこにちょっとアート作品を仕込んで、アート作品を通して炎を見るとか。みんなでカフェを運営するとか、グッズを売ってみるとか。とにかく工場を愛でる、みたいなイベントをみんなで最初にやりましたね。
浅子
その時には実際にアーティストを呼んでいたんですか。
大澤
呼んでましたね。
浅子
最初は小さなことから始めて、どんどん大がかりなものに変わっていったわけですね。
東京のインテリア会社から八戸の建築住宅課へ
浅子
吉延さんが八戸に来たのは、いつでしょうか。
吉延詳朋
2014年です。
浅子
大澤さんが来てからけっこう時間がありますね。
大澤・吉延
「はっち」ができてから3年後ですね。
浅子
こういうことを聞いていいのかわかりませんが、2人は当時付き合ってたんですか。
大澤・吉延
付き合ってましたね。
浅子
じゃあ遠距離恋愛だったんですか。
大澤
私たちは2005年くらいから付き合ってるんですよね(笑)。
浅子
ええーーー!!! 長い! まじっすか! 結婚したのはいつなんですか。
吉延
2016。
大澤
2014。
浅子
いきなり食い違ってますが(笑)、ともかく、吉延さんが八戸にこっち来た時は、まだ結婚しておらず、吉延さんが来たタイミングで結婚したんですね。八戸に来る前どこで働いていたんですか?
吉延
僕は東京にいて、インテリアの会社に勤めていました。
浅子
おお、僕と同じですね。ではインテリアの設計をしていたということですか。
吉延
設計する物件もあるんですけど、施工の発注、現場の整理、みたいな。
浅子
なるほど。ともかく普通に大手のインテリアの会社にいたと。そこでどれくらい働いていたんですか?
吉延
6年働きました。
浅子
それは結構働きましたね。僕は2年で辞めてしまいました(笑)。大学を出て初めての就職先ですか。
吉延
初めての会社ですね。
浅子
インテリア会社に勤め、遠距離恋愛をしていたと。ひとつ疑問なのですが、吉延さん自身ももともとアートには興味があったのでしょうか。
吉延
僕らは出会いが2005年の取手アートプロジェクトなので、アートプロジェクトには興味がありました。僕自身は大学で建築を学んでいたのですが、学生当時アトリエ・ワンなどがアートプロジェクトに傾倒していた時期がありましたよね。
浅子
僕ももろにその洗礼を受けた世代です。
吉延
それで、あれはいったいなんなのだろうな、という興味の延長で、取手に行っていました。
浅子
なるほど。つながってきました。建築を勉強していたけれど、アトリエ・ワンなどの影響でアートが面白そうだと感じ、実際にアートプロジェクトに関わっているうちに大澤さんとも知り合って、付き合うことになったという経緯なんですね。 ともかくそうこうしているうちに、八戸に来ることになったわけですが、なぜ来ようと思ったんですか。
吉延
6年間勤めてたけど、いろいろ大変じゃないですか、インテリアの仕事って。
浅子
大変ですよね。先程も言ったように僕は2年で辞めましたから。
吉延
(笑)。なんか工期も短いし、昼も夜もないし。
浅子
ないですねえ。
吉延
だからもうちょっとなんか、文化的な生活を、、、(笑)
浅子
文化的な生活ね(笑)。むっちゃわかります。
吉延
単純に仕事変えたいという純粋な気持ちですね。
浅子
まあ6年勤めてますからね。そうこうしているうちに、大澤さんは八戸に行っちゃうじゃないですか。3年間バラバラですよね。
吉延
でも、イベントというか、アートプロジェクトをやりますとか、舞台がありますよっていう時には呼ばれるわけですよ。見に来てねと。1年に3回か4回くらいはたぶん来ていました。
大澤
もっと来てたよ。
浅子
インテリア事務所だからお金はありますしね(笑)。
吉延
(笑)。だから来ればいろいろと手伝わされるわけですよ。そう、今と変わらないですね(笑)。出会った時から関係性は変わらなくて、その延長でここにいるのかなと。
大澤
だから、八戸に通っていた時から高森さんも知ってるし、私が一緒にいた代々の上司や、役所の人にも相当会ってました。それで、仕事を変えたいとか言ってたなと思っていたら、役所の職員募集の張り紙に「建築」と書いてあるのを見つけたんです。「建築」という仕事は役所で募集してるんだ、と思ってよく見たら受けられる年齢ギリギリだったので、冗談半分で「受けてみたら?」と言ったんですね。私もあんまりもう東京に戻るつもりないし。
浅子
吉延さんの今の仕事は大澤さんが持って来たんですね。でも、どうして大澤さんは東京に戻るつもりがなかったんですか。やっぱこっちの活動が面白かったってことでしょうか。
大澤
やっぱり3年でプロジェクト終えられないし、3年目くらいでようやく「八戸工場大学」も立ち上がったところだったんです。最初はそれこそ、3年か5年くらい働いてくれって言われて八戸に来たので、3年くらいは遠距離恋愛するつもりでした。その時は冗談で別れたら別れたでそういう運命だね、とか言ってたんですけど。
浅子
芽が出てきたからおもろくなってきたんですね。
大澤
そうです。面白くなってきちゃって、私も帰るとも言いづらくなって。
浅子
それで受けてみるかと(笑)。
吉延
そうですね、それで受けてみたら受かってしまった。
浅子
(笑)。すでに会社は辞めてたんですか?
吉延
いや、辞めてなかったです。ちょうど夏から秋くらいが試験で、年度が変わる時までに辞めればいいっていう話だったから半年くらいは時間があったんです。その間に「辞めます」って言って辞めました。
浅子
給料はだいぶ下がりませんでした?
吉延
下がりました。でもまあ、八戸で暮らす分には。
浅子
東京よりは家賃などは全然安いですしね。じゃあ逆に言うと、大澤さんは嘱託職員なので、正規で雇われているのは、逆に吉延さんだけに変わったってことですね。美術館ができるという話は、その時すでにあったんですか。
大澤・吉延
ない。
浅子
ということは、本当に最初は何もなかったところに、単に大澤さんがアートプロジェクトをやっていておもしろそうな場所だったので来てみたら、吉延さんもやってきて、結婚して、あれよあれよといっている間に美術館ができることになったということですか。
吉延
そうですね。
浅子
それは面白いですね。当初、吉延さんは八戸に来て、建築住宅課でどのような業務をされていたのでしょうか?
吉延
市が所有する建物の新築や改修を自分たちで設計したり、設計事務所に委託業務をお願いする業務をやっていました。
浅子
どうですか。面白かったですか。
吉延
民間とのギャップを感じていました(笑)。そのうち、ブックセンターのプロジェクトに関わることになりました。自前の建物であれば工事区分などないのですが、ブックセンターはテナント入居なので「A工事、B工事、C工事」といった工事区分があり、前職の経験が生きました。
浅子
なるほど、吉延さんはインテリアの事務所にいたからわかるわけですね。読者のために補足しておくと、A工事というのは施設側が費用も実際の工事も行う工事のことで、B工事はテナント側の費用で施設側にやってもらう工事。C工事は費用も実際の工事もテナント側で行う工事のことです。インテリアの仕事の場合、施設はすでに自分たちの設備などを持っているので、区分をはっきりさせるんです。そうしないと後々揉めることになるので、最初にその辺りを決めるんですね。
吉延
そうですね。だからそういう部分をブックセンターの担当としてやっていました。
浅子
そうだったんですか! それは知りませんでした。ブックセンターのオープンはいつでしたっけ?
大澤
2016年の12月です。
浅子
じゃあ来て2年後ですね。
吉延
そうっすね。最初の1年間くらいは、民間と行政の狭間でなんかよくわかんない世界でしんどかったのですが、ブックセンターをやって、なんとなく僕の性格とか、キャラクターとかをわかってくれるような人たちが出てきて、そのあと「八戸まちなか広場 マチニワ」も最後のほうは担当になりました。そのタイミングで美術館の話がちらほら聞こえてきたので、やりたいって言ったんです。
浅子
直談判したわけですね。
吉延
そう、その裁量を図ってくれた上司もありがたいですね。
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公開日:2021年11月24日