対談 3

震災復興から学んだこと ── 水まわり、公共、観光

千葉学(建築家)× 塚本由晴(建築家)| 司会:浅子佳英

観光の可能性

浅子

さて、冒頭で今日のテーマのひとつに「観光」を挙げたわけですが、これは先ほどの巨大防潮堤や復興住宅の話にも接続する議論だと思います。被災地の人口が減少し、必然的に新たな産業を模索しなければならない状況のなかで、観光を軸にした街や建築には、新たな可能性があるように思えるからです。

塚本

アーキエイドは牡鹿半島が持つ観光のポテンシャルについても議論していました。実際に千葉さんは「ポタリング牡鹿」を始められたし、私たちも最近《ももうらビレッジ》(2017)をつくりました。

その話の前に高台移転による宅地造成の問題について触れておきます。高台移転地であっても、自然の地形に合わせてなだらかに造成すれば、漁村集落らしい姿をもう一度つくりだせるのではないかと主張していたのですが、残念ながらそれも思うようには進まなかった。現在の高台移転地は、斜面を切り崩して造成したところに、外壁が窯業系サイディングのメーカーの住宅が並んでいて、東京の郊外住宅地や住宅展示場とほとんど変わらない風景になっている。

その一方で、過去の高台移転でつくられた家屋には気付かされることが多々あります。大船渡市三陸町の綾里には、1933(昭和8)年の昭和三陸津波の高台移転でつくられた漁師住宅がまだ残っているのですが、それらは綾里に南下してきた気仙大工が手がけているため、雨戸の戸袋などがとても格好良かったりする。

塚本由晴氏

塚本由晴氏

千葉

そうなんですよね。僕が復興公営住宅で関わった釜石市唐丹町の本郷も昭和三陸津波のときの高台移転がうまくいった場所でした。斜面地を最小限に造成して家を建てているので、各住戸間の隣接関係も、ちょうど1階分のレベル差となり、ほどよくプライバシーが保たれています。擁壁はそれほど高くなく、斜面地の切り開き方も穏やかで、庭が南に面していてひな壇状のテラスとなっている。プランニングも造成計画もしっかりしています。これは当時、まだ技術的な制約があったからこそできたことなのでしょうね。

釜石市唐丹町本郷のひな壇状集落

釜石市唐丹町本郷のひな壇状集落(提供=株式会社千葉学建築計画事務所)

塚本

制約があった分、その土地のふるまいをていねいに読み解いていたのだと思います。はたして今回の高台移転地を50年後に見たときに同じようなことを感じられるのかどうか……、やはり難しいかもしれない。古きサイディングを愛でる「窯業系サイディング萌え」があったりするかもしれないけれど(笑)。

アーキエイドの活動で、筑波大学の貝島桃代研究室が中心となって「パタンブック」なるものをつくったことがあります。漁村集落の擁壁、瓦、プラン、庭などに着目し、漁師住宅のつくられ方のパタンランゲージを書き出したもので、これに基づいて住宅再建していけば観光に耐えられる集落になるのではないかと考えたのですが、土木が進めた高台移転地の宅地造成は、メーカーにとって製品を供給しやすい敷地を提供することになりました。土木だけが悪いわけではなく、建設産業全体の課題だということです。

浅子

なるほど。宅地造成や産業など、隣接してはいるけれど建築家が設計の対象にはなかなかできない分野にアプローチする方法も、今後は考えなければならないのかもしれません。

「観光」のほかの側面の話として、塚本さんが書かれた論文「観光に包囲された家」の議論にそろそろ移りたいと思います。あの論考の下地のひとつには、東浩紀さんの『観光客の哲学』(2017、ゲンロン)があるかと思います。じっさい僕は、東さんと塚本さんの主旨は根底の部分でリンクしているように読めました。『観光客の哲学』を一言で要約するのは不可能なのでざっくりとだけ説明すると、この本のなかで捉えられている「観光客」とは20世紀に確立された「民衆」や「市民」とは異なる、もっとふわふわとした人間の概念です。それは興味本位で海外旅行に行く人々のように、ある意味で適当な存在です。しかし、だからこそ観光客にはむしろ連帯の可能性があるのだと東さんは述べている。それを引き受けるかたちで塚本さんもまた観光がもたらす住宅の変化について議論を展開しており、Airbnbのように一部の部屋を観光客に貸すことを織り込み済みで設計すれば、住宅をより開いたものにしていけるだろうという主旨のことを書かれています。

僕は、仮にそうなったときには、トイレなどの水まわりのあり方が特に重要になってくるだろうと考えています。なぜなら個室については、例えば成人した子どもが使わなくなったベッドルームを貸しだすなどして観光客用の部屋を用意すればよいのですが、トイレは第三者と共有することを考えてつくらなければならないからです。そのような観光がもたらす建築の変化について、お二人はどのようにお考えでしょうか。

東浩紀『ゲンロン0──観光客の哲学』

東浩紀『ゲンロン0──観光客の哲学』

塚本

昨今の建築プロジェクトをみると、観光のために計画されている建築がかなり多いことがわかります。加えて近年の暮らしと観光の関係も、日常/非日常という従来の境界が変容し、毎日が観光に浸っているような暮らしに変わりつつある。それを私は「包囲」という言葉で説明したわけです。たとえばレストランでサーブされる料理と店の内装の関係を見ると、あれも一種のプチ・ツーリズムだと言えるし、地方自治体のプロジェクトでは「地域らしさ」や土地の文化的資源を発掘することが求められます。この種の建築の動向はかつてクリティカル・リージョナリズム(批判的地域主義)という言葉で語られていたはずですが、今ではローカルとグローバルを並列的に見なすという点で「クリティカル・ツーリズム」と呼ぶほうがより適切かもしれません。

現在設計中の《里山賃貸住宅》もまた観光に包囲されたプロジェクトのひとつで、Iターン移住候補者が数年間住むための場所です。画期的なのはその仕組みで、自治体は建設費を出さず、無償で土地を貸し、そこに地域の有志による特定目的会社が建物を建てる。それができあがったら自治体は家賃補助をする。そうすると住み手の負担はぐっと減ります。自治体の年度ごとの負担は、10戸だとしても建設費の1/10ぐらい。特定目的会社はその地域の銀行からお金を借りて、家賃と家賃補助で返済していけばよい。建設予算を議会で通すのは手間がかかりますが、家賃補助は福祉やまちづくりにかかわる費用として計上できます。建設のためではなく人口を増やすためにお金を使うのであれば話が通りやすい。

実際に、古い農家を改造し、Iターン移住候補者が複数人で住む事例はあります。それはひとつの家族に占有されないという意味で「半開きのメンバーシップ」をもっています。Airbnbのほか、《ハウス&アトリエ・ワン》(2005)のような仕事場つきの住宅もそうです。観光に包囲された住宅はメンバーシップがどんどん変わっていくはずです。地域の家であり続けながら、その土地にたまたまやってきた人々を受け入れる空間の在り方。それが「家」を拡張するはずだと考えたわけです。

千葉

なるほど、よくわかります。「ポタリング牡鹿」を続けている身として、僕も塚本さんのおっしゃるような観点からプロジェクトを評価していかなければいけないなと感じています。このイベントの目的のひとつは、現地の人々が漁業中心の生業に戻るまでに時間がかかるなか、従来とは違うかたちで観光と産業の接点をつくり、その新たなバランスを見つけるきっかけをつくることにあります。しかしその反面、牡鹿半島がすべて観光地化してしまったときに誰が牡蠣をつくるのかという、第一次産業維持の問題がつねに付いてまわるため、それも同時に考えていかなければいけないなと思います。

塚本

「包囲」という言い方をしているのは、それが産業から観光への単純な置き換わりではく、既存のものが観光というコンテクストに晒されている状態にあるからです。たとえばハワイが50番めのアメリカの州になったとき、農業を生業としていた人々がホテルなどのサービス産業にシフトさせられてしまいましたが、現代の日本ではそのような20世紀的な観光地化ではなく、観光に包囲されたときに農業や漁業がどのように変わるかを考えることが大事になるはずです。

千葉学氏

千葉学氏

牡鹿半島で貝島研究室が中心となって設計した《ももうらビレッジ》も「観光に包囲された家」の延長上のプロジェクトといえます。アトリエ・ワン設計の管理棟「メインハウス」と、dot architectsとsatokura architectsが設計した2棟の「タイニーハウス」から成り、いずれも地元の山から切り出した木材を使っています。そもそもの経緯として、ここでは地元の漁師を講師にした「牡鹿漁師学校」を続けていたのですが、その漁師さんがじつは山をもっていて、昔は直接木を切り出して家やさまざまな道具をつくっていたのだそうです。漁師学校でその杉林を間伐しているうちに研修施設をつくる話に発展し、リボーンアートフェスティバルの一環でAPバンクがスポンサーとなって最近完成しました。建設の過程も学びの場になると考え、サマースクールを開催していろいろな人に建設に関わってもらいました。もちろん漁師学校のプログラムと連動して、さまざまな活動が展開する予定です。ちなみにここの管理人をしている土橋剛伸さんは、もともと脱サラして漁師学校に来られ、そのまま漁師になった方です。そのように地域の人口が実際に増えていく可能性もあります。

タイニーハウス
タイニーハウス
タイニーハウス
タイニーハウス
メインハウス
牡鹿漁師学校

上から、satokura architects、dot architects設計の「タイニーハウス」、アトリエ・ワン設計の管理棟「メインハウス」(以上《ももうらビレッジ》)、「牡鹿漁師学校」(提供=アトリエ・ワン)

建築と観光の関係を考えるとき、形や意匠の問題も重要になってきます。たとえば伝統的建造物群保存地区の周辺に建つ建築は、条例などで厳密に規定されているわけではないものの、観光客の期待を裏切らない意匠が選択される場合が少なくありません。去年は愛媛県の内子町でリサーチしたのですが、伝建地区では町屋と蔵を複合した素晴らしい街並みが広がり、さらにそこから少し外れた場所でも、高架駅の入口部分や図書館、集合住宅、学校などの比較的新しい建物に町屋と蔵の意匠を再解釈したデザインが用いられていました。公衆トイレは窓が少ない蔵の再解釈でした。

そういうものは、パスティーシュ(まがい物)と言われるものかもしれません。しかしじつは長らく建築史を動かしてきたのもパスティーシュでした。たとえば大学という施設がつくられるようになると、そこに神殿の意匠が用いられたように、新しいアクティビティが発生したときにそれをサポートするための空間が要請され、それに相応しい意匠として昔の建築のコピーが現われる。つまりパスティーシュこそが建築のスタイルを更新していくひとつのきっかけになっているわけです。

現在アトリエ・ワンで進めている《尾道駅駅舎改築》の設計も観光に包囲されています。尾道の建築の多くは背後の山にへばりつくような建ち方をしており、それらとの連続性を保つことが当初から強く希望されていたため、屋根に金属瓦を用いることで背後の山沿いに建つ瓦屋根の建築群との視覚的な連なりが生まれるようにしました。観光の面白いところは、観光という体験を特徴付けることになる、地域資源、歴史資源の取り扱いについて、特有の「期待」というものがあるということです。それは建築のデザインコードのように明文化されることは稀で、もっと雰囲気に近いものであり、人々のふるまいもその一部に含まれる。その資源を享受するものは、その資源のサステナビリティに責任を持つであろうことが期待されている。ただ乗りはダメなのです。これは建物の性能を個別に担保する法の整備によって、産業としての信頼性や、都市の防災性を高めるのとは違う、他者に対する責任です。問題は、そういう日本の建築行政が求める責任を全うしようとすると、地域の文化資源を壊すことになりがちだということです。むしろ壊して、新しくするインセンティブを与えることにより、建設産業の成長を後押ししてきた。それは人口増を背景に生産量を上げることが目的なら、効率良いやり方と言えるでしょう。でも、そのことで建築や風景の文化的側面を損ねてきたことは、京都ですら町屋の街並みが失われつつあるのを見れば明らかです。

アトリエ・ワン《尾道駅駅舎改築》パース

アトリエ・ワン《尾道駅駅舎改築》パース(提供=アトリエ・ワン)

過去を振り返れば、観光に包囲された建築は国の政策でつくられた国際観光ホテルや、名勝地に建てられた公衆トイレや土産物にも見出せます。早くからこのコンテクストで仕事をしていた建築家が村野藤吾です。《橿原神宮駅》(1940)は奈良地方に特有な民家の形式である大和造りのブローアップになっている。民家の意匠を駅舎に応用するわけですから、これもパスティーシュです。大和造りの構成を駅のそれに読み替えていく。こういう歴史的意匠の再解釈は答えがひとつにならず複数のバリエーションを許容します。そこが《香川県庁舎》(1958)で西洋モダニズムと日本の伝統を綜合させた丹下健三の歴史的弁証法と違うところです。50、60年代の建築においては、丹下の影響が強すぎて陰に隠れてしまいましたが、歴史的意匠の再解釈にはいろいろな試みがじつはあるんです。堀口捨己、大江宏、村野藤吾などが取り組んでいます。もう少し後になっても、福島県三春町で大高正人が不思議な形の大屋根をもつホールをつくっているように、その手法はその後も各地で断続的に取り組まれてきました。建築が観光に包囲されつつある今、そのようなデザインに光をあてて、今一度考えてみたいと思っています。

浅子

今のお話に一番近いスタンスを持つ建築家として藤森照信さんを思い浮かべました。現在の建築家が向かうべきは藤森さんのような存在なのでしょうか。

塚本

「べき」かはわからないけど、それを言語化・相対化できるかというテーマとして面白いと思う。

浅子

今日の対談の個人的な感想になりますが、塚本さんが建築界に登場したとき、作品解説ではスチャダラパーや大友克洋を引用していて、自分たちと同じような言葉を使う人がようやく出てきたととても興奮したんですね。しかしその後、「町屋」や「ふるまい」と言い始めたときには、もちろん理解はできるものの、あまりにも正しすぎて正直に言うと保守化したなと思っていました。けれど、僕はもしかしたら完全に勘違いをしていたのかもしれません。というのも『メイド・イン・トーキョー』(2001、鹿島出版会)で塚本さんたちは、単にかっこいい建築をつくろうとするだけでは、ヨーロッパに勝てないだろう、それなら東京に点在する名もないがとても魅力的な建物に目を向けて建築をつくってみようという、今までにない新たなスタンスを打ち出したわけですよね。翻って論文「観光に包囲された家」に目を向けると、やはり、街に根付いた市井の人たちが取り組んでいる工夫をていねいに見ていけばそこに豊かなものが転がっているのではないかと書かれています。リサーチ対象は東京/地方で異なるものの、じつは両者のアプローチは通低している。通常は分断されがちな東京と地方をつなぐ見方が発見できたという点で、今日のお話は個人的にも収穫がありたいへん面白かったです。

貝島百代+黒田潤三+塚本由晴『メイド・イン・トーキョー』

貝島桃代+黒田潤三+塚本由晴『メイド・イン・トーキョー』

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公開日:2017年10月30日