対談 3

震災復興から学んだこと ── 水まわり、公共、観光

千葉学(建築家)× 塚本由晴(建築家)| 司会:浅子佳英

復興公営住宅のストラグル

浅子

土木という単語が出てきたのでもう少し大きな話題につなげると、最近東北でいくつかの防潮堤を見てきたのですが、建築とのそのスケールの差に打ちのめされたような気分になりました。現在でも、すでにもとの海辺の景色が大きく変容しているにもかかわらず、これからさらに長大な防潮堤が建造されていくとのことで、さすがに別の方法があったのではないかと思わされてしまいました。

トイレの話からは逸れてしまうのですが、お二人はいくつかの復興プロジェクトで東北に行っていましたよね。建築家による復興プロジェクトがあまり進まない一方、意匠の入り込む余地のない防潮堤は淡々と建てられていく。この状況について、お二人はどのようにお考えでしょうか。

千葉

震災以降、建築サイドからもさまざまな働きかけがあったと思いますが、土木の予算を少しでも建築にまわすことはできないかという議論は初期から出ていました。僕も一度、学校のプロポーザルで土木と建築の境目をなくして設計をするという提案をしましたが、関係者にはリアリティがないと、さんざんでした。ハードルは相当高いでしょうが、両者の線引きを少しでもなくしていかないと本当の復興は厳しいと思います。

後の「観光」の議論で詳しく触れますが、僕は2014年から「ポタリング牡鹿」という自転車のイベントを継続的に行なっています。牡鹿半島を毎年同じコースで走っているのですが、今年が最も風景の変化を痛ましく感じた年です。もともとこのイベントを始めた動機は、牡鹿半島の風景を多くの人が堪能するきっかけをつくることだったため、その風景が防潮堤によって一気に失われていくのは堪えます。

浅子佳英

浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年、東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。著書=『TOKYOインテリアツアー』(共著、LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(共著、鹿島出版会、2016)ほか。

「ポタリング牡鹿」地図
「ポタリング牡鹿」

「ポタリング牡鹿」(提供=株式会社千葉学建築計画事務所)

浅子

陸前高田も見て回ったのですが、サルハウスの《高田東中学校》(2016)のようなとてもよくできた建築がある一方で、やはり意識は巨大防潮堤にもっていかれてしまうというか、高速道路をまたぐ計画も進行中とのことで頭を抱えてしまったんです。そのような状況を目の当たりにするなか、一服の清涼剤のように感じられたのが釜石での復興の風景でした。乾久美子さんの薦めで千葉さんのいくつかの復興公営住宅(《釜石市天神町復興住宅》(2016)、《釜石市大町復興住宅1号》(2016)、《釜石市大町復興住宅3号》(2017))も拝見したのですが、予算も素材も相当な制約があるなか、それまでの実践の積み重ねが活かされた建築になっていてとても感銘を受けました。

千葉学《釜石市天神町復興住宅》
千葉学《釜石市大町復興住宅1号》
《釜石市大町復興住宅1号》2階平面図

千葉学《釜石市天神町復興住宅》(上)(提供=株式会社千葉学建築計画事務所)、同《釜石市大町復興住宅1号》(中)(写真=繁田諭)と2階平面図(提供=株式会社千葉学建築計画事務所)[クリックで拡大]

千葉

釜石では一時期、複数のコンペやプロポーザルのキャンセルが続き、建築家の敗北だと感じざるをえないほどの、辛い期間がありました。それを踏まえて市が発注形式を買取方式に変え、設計施工を民間で進めて完成した建物を市が買い取る仕組みを導入しました。要はデザインビルドですが、そのタイミングで大和ハウスから声をかけてもらい、この状況をなんとかしなければという思いもあり、共同で復興公営住宅の計画を進めました。
構造や仕上げには多くの制限があったのですが、案自体はプロポーザルのときから基本的な部分に変更はなく、単純なフレームで組まれた4棟の住棟の配置計画と住棟同士の関係性だけを徹底して考えました。特に重視したのが、外周すべてに縁側をまわし、入居者が日常的に出てこられるようにしたことです。日々の生活を送る様子が街にあふれだすようにすることを心がけました。

とはいえ、ただ外部とつながるようにしただけでもありません。というのも、もともと「東北はコミュニティが濃密だからこそ、皆が一緒になる場所が必要だ」という建築界の一部での議論に強い違和感があったからです。実際に現地に行くと、親密なコミュニティもたしかにある一方で、そうではない関係性も日常のなかに山のようにあり、若者たちからはプライバシーの必要性が求められたりもしました。それは釜石が工業都市であることとも関係しているのですが、建築をやるからには生活や地域に対する眼差しの解像度をもっと高くして、人々が一緒に暮らすことも、一人にもなることも同時に実現できる建築をつくったほうがよいと考えました。そこで、中庭越しに住棟がそこそこの距離感で向かい合う配置にし、住人同士がつながっているようでもあり離れてもいるようでもある、相反する状況を抱え込んだプランとしています。

浅子

バルコニーが中庭に面しているため、ちょっとパリのアパルトマンにも似た雰囲気もありますよね。僕が見学したときは実際に各階の人々がバルコニーに出ておしゃべりをしていたり、子どもたちが遊びまわっていたりしてとてもいいかたちで使われていました。誰もが気軽にアクセスできるようにもなっていて、文字通り街に開かれている状況でした。

千葉

復興住宅は天神、大町、只越など複数の場所に点在していて、いずれも基本は箱の組み合わせだけで考えているのですが、場所ごとの微妙な地域性の違いを踏まえてもいます。たとえば大町は雑居ビルが建ち並ぶ中心地であるのに対し、天神では山を背にして海に向かって開けた東西に長い計画です。通常ならばバルコニーを南側にだけつくるところを南北の両側にまわし、ちょうど縁側とバルコニーを三つ編みするように上下階で互い違いに巡らせています。そうすることで、下階の縁側と上階のバルコニーを立体的に絡み合わせたり、高齢者が家の中に閉じこもらず日向に出やすくしたりする組み合わせを考えました。

そのようなプランニングの工夫とは対照的に、外壁の仕上げはALCに吹き付けという選択肢しかなく、でもかえって清々しい気持ちにもなりました。

浅子

そうはおっしゃるものの、外壁の色の選択などはとてもよく考えられているなと思いました。同系色の復興住宅が数カ所に点在しているため、実際に街中を歩いていると低層の建物に紛れて鮮やかな色をした建物群が見え隠れしながら視界に入ってくるんですね。その建築を徐々に発見していく体験は、街がだんだん色づいていくことを象徴しているようにも見えました。ついでに言えば、千葉さんはよく自作に黒を用いるというイメージがあったので、少し意外だったということもあります。

千葉

それはあくまでもイメージですよ(笑)。色の選択についてのきっかけは、計画の最中に東北大学の小野田泰明さんの研究室の学生たちが釜石の復興に相応しい色を提案してきたことです。街をすべて白くするという内容だったのですが、僕はすでに街がさまざまな色で自力再建が始まっている状況下で白くすることにリアリティを感じられず、それで釜石の花でもあるハマユリの、ピンクやオレンジなどの色をもとにしたカラーチャートをつくることを提案しました。このチャートのなかの色であればどれでも使えるという緩やかなルールを決めたわけです。三陸の浜に力強く咲くハマユリの姿が印象深かったからですが、釜石の方々にも好評で、市がオーソライズしてくれて別の事業主体による復興住宅でもカラーチャートから自由に選んで使えるようになりました。

「釜石市東部地区復興マップ」(東北大学小野田研究室)と「はまゆりカラーチャート」

「釜石市東部地区復興マップ」(東北大学小野田研究室)と「はまゆりカラーチャート」(株式会社千葉学建築計画事務所)

浅子

塚本さんもアーキエイドでの活動やその後も被災地での活動を継続されていますが、復興についてどのようなことを考えながら実践されていたのでしょうか。

塚本

牡鹿半島で復興支援をしていた建築家たちと、岩手の地元の建築家たちとチームを組んで釜石の復興住宅のコンペに応募し、設計者に選ばれました。釜石半島部にもリアス式海岸があり、小さな湾奥にある漁村集落の数々が津波の被害を受けていました。集落ごとに建築家が割り振られ、住居移転地や復興公営住宅のプランを地元の方々とワークショップで議論しました。第1期の計画を設計組織ADH(渡辺真理+木下庸子)とアトリエ・ワンが担当しました。漁村集落では古い家ほど水辺から離れた高いところにあり、津波の被害を免れていました。この漁村集落の風景に馴染ませることや、住民相互の見守りへの配慮が求められました。また、釜石の復興アドバイザーだった小野田泰明さんや市の担当者とは、20年後に住み手がいなくなったときの出口戦略を議論しました。高齢化や人口減少を見据えると、将来的には都会の人向けの別荘として分譲することになるかもしれません。そこで特例予算という国からの補助を用いて塩害対策や高齢者対策を施し、20年後の用途に適した仕様をめざしました。瓦工業会の協力を得て屋根も瓦葺としました。こうした努力によって、一般的な復興公営住宅よりも多くの予算を確保したのですが、その数字だけが一人歩きしてしまい、議会で「華美だ」と批判されました。自分の建築が「華美だ」と言われたのはこのときが初めてでした。

浅子

それは何重にもショックというか捻れていますね。活動の初期から都市の小さな場所に着目し、そこに一般的な施設よりも生き生きとした空間があるのだと言い続けてきたアトリエ・ワンが、それまでのスタンスを活かして被災地の出口戦略を考えていたのにもかかわらず、解像度の粗い目線からまるで正反対の評価を下されてしまうのはとても残念です。それにしても「華美」ですか……。

塚本

「被災」は社会的には「疫病」のように扱われます。この世から短期的に消さないといけないものだとみなされていて、だから仮設住宅も伝染病が流行ったときにワクチンを打つのとほとんど変わらない発想で建てられる。それゆえ長期的に住めるものにすることや、払い下げる発想がないわけです。そのような観念が長期的な視野に基づく復興住宅を提案するうえで障壁になっているのだと思う。

浅子

異論のある方もいるとは思いますが、「復興住宅が華美であってはいけない」という意見の奥底には「質素で最低限の暮らしさえできればいいだろう」という考え方があるように思います。一定期間そこで生きなければいけない住人の人生の一部を、第三者が一方的に決めつけてしまうことには違和感を覚えますね。

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公開日:2017年10月30日