パブリック・スペースを提案する 3
多様な時間の重層を認識する
岩瀬諒子(建築家、岩瀬諒子設計事務所)
お金にならないパブリック・スペースの価値を発掘する
以前、河川に関する行政主催のとあるシンポジウムを拝聴した時に、パネリストのひとりが水辺活用に関して「冬は人を集めることがなかなか難しいからなんとかしたい」というような発言をしたことがあった。冬場のビーチにわざわざ行く人が少ないのと同様に、冬の寒い川辺にどれくらいの人が行きたいと思うのだろうかと、少し不自然に感じたことを覚えている。
公共施設整備の財源や管理費が縮小する現代、一定の公共投資によってどれだけの人が来たか、どのくらい地価が上がったのか等々、特に大都市においては資本主義的なわかりやすい効果が求められている事実もごく自然の流れであろう。
ただ同時に、ひとりぼっちで思いに耽る場が都市のなかに存在することの意味や、多様な属性の人が居合わせる状況、人々が都市の構造を認知する機会、空調されていない空間とのかかわり方をはぐくむ場所など、公共空間が担ってきた多角的な役割や指標化されにくいが潜在的な可能性やその多角的な役割を公共性として捉えたいと考えている。
本稿では、そのうち(指標化しにくいが)「時間の重層性と場の成り立ちを表象する風景」空間、「創造的なメンテナンス」というテーマについて前編、後編に分けて実例を交えながら記述し、提案をしていきたい。
時間が重層するパブリック・スペース
日本の都市における多様な主体による都市をつくりかえていくダイナミックな変化の現象については、例えば北山恒+塚本由晴+西沢立衛『TOKYO METABOLIZING』(TOTO出版、2010)等でも深い考察が積み重ねられている。一方、アイレベルで局所的に観測されるこうした日常的な風景の変化が、鳥瞰的、定点観測的な視点のおもしろさとして現れる機会はそう多くはないように思う。自分が経験しなかった時間への想像力や認知、都市の記憶や変遷、人間以外のさまざまな存在に対峙する時間を共有財産や資源と捉え、風景として共有しどのように定着させさせていくことができるか、無意識化が加速する現代社会にいて取り組んでみたいテーマのひとつである。
環境を認識するデザイン
筆者が設計に携わり2017年に竣工した《トコトコダンダン》は、木津川沿いの遊歩道と広場空間からなる河川区域の護岸整備事業で、「防災施設としての堤防」と「人の居場所としての水辺」が両立するランドスケープデザインである。プロジェクトは、都市部によくある垂直型のカミソリ堤防に「川沿いの広場」と「遊歩道」というプログラムを付加する空間デザイン案を募るコンペに応募するところからはじまった。
じつは設計プロセスの段階で、ターニングポイントになる発見があった。この悪者にされがちな「カミソリ堤防」にも歴史があり、戦後に堀川が埋め立てられてから半世紀にわたってていねいに改修が繰り返されたうえで現在の姿となっていることがわかったのである。
水害が起きてより高い堤防を築き、震災があれば転倒防止のために堤防を太らせ、人間の生活を守ってきた。こうした先人たちの段階的な改修の歴史を知ると、堤防のカタチ(断面形状)は社会と水との関係をそのまま具現化したものであって、当該プロジェクトも「川沿いの広場」と「遊歩道」のデザインというよりは、こうした来歴に立脚して都市の輪郭を上書きする「堤防のリノベーション」であるという意識に変わった。カミソリ堤防の断面が、こうした長い治水技術の試行錯誤のうえに成り立っているという事実を眼前にし、未来に向けてどのような断面を描くのかを問われているのだと考えさせられた。
実際の設計では、この堤防の断面に階段状の構造物やスロープ状の盛土のデザインを描き加えることで、水とまちを面的につなぐやわらかな境界をつくったのだが、あわせて過去の堤防の変遷に小さな年号のサインプレートをちりばめ、歴史への仲間入りをさせてもらうことをさりげなく宣言することにした。
風景と連動する──水位のものさし
《トコトコダンダン》の階段状のスラブの一部(親水護岸と名付けられたエリア)の高さは例外的に計画水位よりも低いレベルに設定することで、川の水位を可視化するものさしの役割も担っている。大雨の後や高潮位の時に潮位があるレベルを越えると、柵を越えて1段、2段と敷地内に水が浸入してくる。それにより、垂直型の堤防ではわからなかった水位の変化が可視化され、日常の生活リズムのなかに、月の引力などの異なるスケールの時間や自然のルールが出現する。
ちなみに、大雨の後は護岸付近に上流の地域から流れてきた生活ごみが溜まってしまうので、その度に地域の任意団体「トコトコダンダン会」のみんなで「ああ、また寝屋川からゴミが流れてきたよ〜」などとぼやきながらする掃除が風物詩となっている。このように、木津川の水は澄んでいるわけでもなく、ときどき臭いがあったりすることも事実であり、訪れた人のなかには否定的な意見を口にする人がいることもまた事実なのだが、汚いことを知る、そのこと自体が風景への関心の大きな一歩ともいえるかもしれない。同様の理由で、《トコトコダンダン》の対岸に、大阪府を巡回しているごみの収集船が滞留していることもたいへん貴重だと思っている。川は自動的にきれいになるのではないということも含めた認識が、風景として目の前に存在していることは物事を裏支えするシステムがわかりにくい現代において大きな意味を持ってくるように感じている。
土木や都市インフラの存在は、その存在する時間の長さによってともすると「変わらない存在」として認知されがちである。けれど、もう少し長い時間や引いたスケールでとらえてみると、そこには多様な主体とその時間、変化する社会背景などが存在し、これらの動的平衡の風景であることがわかってくる。こうした視点で考えてみると、昨今の設計の現場で直面する「公共空間のメンテナンス・管理」の問題は、「公共空間の計画」とじつは地続きの概念として捉えられるようにも思えてくる。後編ではこうした視点から「創造的なメンテナンス」というテーマで公共空間について書き綴ってみたいと思う。
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公開日:2019年11月27日