パブリック・スペースを提案する 2

誰のものかわからない状態から得る自由

板坂留五(建築家、RUI Architects主宰)

パブリックを「味わう」

昨年(2018)の「パブリック・トイレ×パブリック・キッチン」をテーマとした私の2つの提案(「想像力のあるトイレ」「『食べる場所』から考える」)を少し振り返るところから始めよう。
『食べる場所』から考える」は、低減税率による場の区分が、食をはじめ場所のもつ日常性をおびやかすのではないかという切実な問題に、パブリックの力を借りて向き合う提案であり、個人とパブリックは順序のある関係ではなく、同じ地平にあり補い合う関係であることを述べた。
また、「想像力のあるトイレ」では、「つくり手(設計者)/使い手(使用者)が、知らない誰かについて考えること」を「想像力」と捉え、そのプラットフォームとしてのトイレを提案した。このトイレを使うことでさまざまな知らない誰かを想定し、さらにそこで生まれた想像力が使い手によって外にもち出されることを期待した。

私にとって「パブリック」とは、日常の行為のなかで働く誰かに対する想像力であり、そのプラットフォームのような空間が「パブリック・スペース」である。そのプラットフォームで誰かに出会うのではなく、まずはプラットフォームにそれぞれ自身が立つことが重要なのだ。
トイレ、キッチンと続いたフィクショナルな提案によって、そこに立ってなにが見えるのか、なにを想像するのか、「パブリックを味わう」練習をしてみてほしい。

個人がもつ街の時計

今回は、「時計」をモチーフにした提案をしたい。
まず、3つの写真を見てほしい。

川沿いから撮った写真

以下、すべて筆者撮影、筆者作成

1:比較的人通りのある川沿いから撮った写真。アパート1階のベランダにて。時計の隣に一緒に日めくりカレンダーも掛かっているところや、それらが歩道に向かっているところから推測すると、住人自身のためではなく、通行人に向けているような気配がする。

路線バスから撮った写真

2:駅前のバス停近く、路線バスから撮った写真。個人経営の不動産屋の2階建てのビルの外壁、ちょうどバスの座席に座った目線の高さにて。時計の真下にオーニングが付けられていることから、持ち主自身が見るためにあるのではないだろう。

十字路で信号を待っているときに撮った写真
最上階の窓に「↓P」マークを付けたビル

3:十字路で信号を待っているときに撮った写真。向かいのビルから3軒奥のハンコ屋のビルの外壁にて。
同じ通り沿いには、最上階の窓に「↓P」マークを付けたビルもあり、同じように交通量の多さと見通しのよさを利用して通行人に時計の存在をアピールしているように思える。

時計を掛ける行為とその態度

ほぼひとりに1台スマートフォンをもつ時代に、ひとつの機能しかもたない掛け時計の必要性は薄まり、公園の時計はメンテナンスのためだろうか、故障中の貼紙がついたままになっている光景をよく目にするようになった。そんななか上の写真のような、明らかに自分のためではない時計を個人がなぜ所有しているのだろう。しかもいずれも正確な時間を刻んでいるのだ。

時計の持ち主が敷地を超えて、街からの自身もしくは建物の「見え方」を知っていることに驚く。商売目的あるいは善意であれ、それは等しく街に対する「構え方」への態度であり、非常にパブリックな性格をもっている。

現在は、スマートフォンなどのデバイスのなかに、当たり前のように現実空間と別の社会があり、そのなかでは人や情報、空間などが画面上ですべてフラットに表現されている。デバイスを覗くとき、自身の外側にある人も動物もモノも建物もすべては等しく自分自身以外、つまり他者としてひとまとめに意識しているかもしれない。
デバイスから離れ現実空間にかえった時も、自分自身以外は同じように他者としてひとまとまりに認識され、それは「街」と名付けられるだろう。

「見え方」を考えるとき、視点は他者、つまり街にある。
時計のデザイン性や配置に差はあるものの、3人の持ち主は自身と街との関係性を素直に構築していると言えよう。街はどのような輪郭をしているか、どんな活動があるか、そこにある人や建物などさまざまな立場への想像力を働かせている。時計がもつことのできる街との関係を想像するその行為は、まさに「想像力のあるトイレ」で述べた「つくり手(設計者)/使い手(使用者)が、知らない誰かについて考えること」そのものだ。
時計は「パブリック・スペース」を生み出す可能性をもっているかもしれない。

時計のもつ街の大きさ

さてこれを踏まえ、具体的に時計がつくり出すであろう「パブリック・スペース」の大きさを考えてみた。
敷地は、先ほど3枚目にあげた時計のある十字路だ(8秒ごとに画像切り替え。56秒ループ)。

時計がつくり出すであろう「パブリック・スペース」の大きさ

時計がつくり出すであろう「パブリック・スペース」の大きさ

偶然の関わりをつくる

一見なんの関係性もなかった、近くで働く人や住んでいる人が、偶然見えた時計を利用すると自身の領域内にどのような空間をつくれるかということを描いた。
時計の持ち主が敷地を超えて、街を「見」て自身の時計を「構え」たように、彼らもまた、窓から時計を「見」て、自身の領域内に設えを「構え」ている。時計の持ち主が考える「街と自身の関係性」が、「時計」を介して誰かにとっての日常のなかに滑り込み、別の「街と自身の関係性」を生む。

これは例えば、横浜のみなとみらいにある観覧車の時計がもつ街との関係性とは少し異なる。時計の見える範囲が大きいからといって、同じように誰かにとっての「街と自身の関係性」を生んでいるかというとそうではない。時計の見える範囲の大きさは責任の重さに比例しているからだ。「個人」で抱えられる責任の大きさはせいぜい先に描いた「時計のもつ街の大きさ」のような、時計の持ち主と見る人が互いに認識できる範囲程度だろう。
「個人」の営みに対してであれば、もし時計が止まっていたとしても仕方ないと受け入れられたり、不便に感じて持ち主まで替えの電池を持っていくような行動ができる。街なかでふと出会った「時計」から、その背後にいる持ち主とその街に対する態度を想像する。いや、まず自分の日常のなかで時計を利用することから始まる。

現実かSNSかを問わず、職業や趣味といった自発的、意識的に関わるコミュニティではない、固有の街だからこそ起きる「偶然の他者との関わり方」が重要なのではないだろうか。

誰のものかわからない存在

ところで、「未必」という言葉がある。

必ずしもそうなるものではない、といった意味合いの表現。もっぱら「未必の故意」という刑法用語で用いられ、意図的に実現を図るものではないが、実現されたらされたで構わないとする心情や態度を指す表現。

出典=「実用日本語表現辞典」(http://www.practical-japanese.com/)より

刑法で使われる言葉なので馴染みは薄いが、この態度は、人がよく通るであろうと想定される「道」に向かって時計を掛ける行為にも通じているのではないだろうか。
直接誰かに働きかけるのではなく、意図して行なわれているかどうか不明瞭な行為や物事を介して誰かとの関係の実現を図ろうとしている。それは冒頭に挙げた「そのプラットフォームで誰かに出会うのではなく、まずはプラットフォームにそれぞれ自身が立つことが重要」だとした私にとってのパブリック、そしてパブリック・スペースの解釈に近いのではないだろうか。プラットフォームに挙げられた行為や物事は、はたから見ると誰によるものかわからなくなる。その「わからない」という主観的な理解によって、街の人は行為や物事の存在を都合よく日常に取り込んでしまう。

時刻を知るための機能が一人ひとりのもつスマートフォンに一本化され、公園や駅にある時計の必要性が希薄化するいま、みんなのものでも個人のものでもない「誰のものかわからない」時計の存在を考えたいと思った。

時計は目的ではなく、あくまできっかけである。その時計と関係をもつ範囲がプラットフォームのようなパブリック・スペースである。
時計の持ち主と利用する人は直接会うことは前提になく、両者は等しく街に立つ当事者である。誰のものがわからないということが、それぞれ自由に想像力を働かせて「パブリックを味わう」ことを可能にするのではないだろうか。

板坂留五(いたさか・るい)

1993年生まれ。建築家。RUI Architects主宰。https://ruitoile.wixsite.com/home
主な作品=《pick up “Kakera”, put on the house, pass to “Kamatarian”》(2016)、《omoshi》(2018)、《半麦ハット》(西澤徹夫との共同設計、2019)など。

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公開日:2019年10月30日