世界に咲いたマジョリカタイルの花
日本のタイル工業の曙
『コンフォルト』2018 December No.165掲載
大正から昭和10年代を中心に、世界に広く輸出された鮮やかな和製マジョリカタイル。そこに係わった才能と技術こそが、日本におけるタイル工業発展の礎となっていった。
和製マジョリカタイルとは
「和製マジョリカタイル」をご存知だろうか。明治時代末、乾式成形法の開発によって本格的につくられるようになった多彩タイルだ。金 型 を使ってチューブライニングやレリーフを施し、鮮やかな色釉をのせたタイルは、大正時代初期から昭和10年代にかけてさかんに生産された。製造企業は10数社を数え、最盛期にはその生産量の7〜8割が輸出に向けられていたという。
マジョリカタイルは、イタリアの錫 釉 色絵陶器マヨリカ焼の技術がヨーロッパ全域に伝わった19世紀半ば、イギリスにおいて、ヴィクトリアンタイルのなかの色鮮やかなシリーズとして誕生した。ミントン社、ウェッジウッド社などが世界各国に輸出したタイルは、明治から大正期の日本でも多くの洋館を彩った。和製マジョリカタイルは、高価な輸入タイルに代わって需要増に応えるため、日本の窯業技術者たちが技術の粋を凝らして生みだしたものだ。
多彩色の和製マジョリカタイル
今も現役の和製マジョリカタイル
日本窯業界の父、ワグネル
その歴史の端緒には、慶応4年にドイツから来日し、明治25年に日本で亡くなるまで日本窯業界の発展を導いた技術者、ゴットフリート・ワグネル博士の尽力がある。
ワグネルは明治16年頃、教鞭を執っていた東京大学理学部で、植田豊 橘 を助手に新製陶器の研究・試作を開始した。やがて白い素 地 に絵付けしてから釉薬をかける「釉 下 彩 」という手法を開発し、日本画独特の筆致やぼかし、盛上げ技法などを陶器に表現することに成功。これは当時、マイセン、セーヴルなど限られた製陶所のみが用いた最新の窯業技法だった。
ワグネルらはこれを「吾 妻 焼」と命名、20年には窯業科の講義を受け持つ東京職工学校(現在の東京工業大学)内に試験場を移して「旭 焼」と改称した。さらに23年、渋沢栄一の出資を受け東京深川区(当時)に旭焼製造場を設立。政府の後押しもあり、欧米向けに、マントルピースにはめ込む陶板を製造した。日本画の絵付けを施した、日本で最初の半乾式圧搾成形白色陶器タイルである。「ワグネルが明治政府とともに日本の美術工芸の輸出を考えたのは、その利益を新たな研究費に充て、欧米同様の陶磁器試験場を創設するという目的があったからでした」と愛知県陶磁美術館の佐藤一 信 さんは話す。
東西で競った研究の場
池田泰山、小森忍の美術タイル
ワグネルの薫陶に連なる人々
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公開日:2019年08月28日