世界に咲いたマジョリカタイルの花
日本のタイル工業の曙
『コンフォルト』2018 December No.165掲載
ワグネルの遺志を継ぐ俊才たち
旭焼の陶板は高いコストがかかったため、輸出が成功したとは言い難く、ワグネル没後も旭焼製造場と東京工業学校(明治23年に東京職工学校から改称)での生産は続けられたが、29年に経営不振で閉鎖された。
けれども、ワグネルの薫陶を得た人々は、技術者・指導者としてその後の日本の窯業を担っていく。
東京職工学校の出身者には、29年に設立された京都市陶磁器試験場初代場長に就任した藤江永孝、結晶釉や石炭窯の研究など日本初の窯業に関する論文で博士号を取得した北村彌一郎、卒業後にワグネルの助手となって、のちに窯業科長になる平野耕輔などがいる。東京大学で旭焼の創出に大きく貢献した植田豊橘は、大正4年から京都市陶磁器試験場2代目場長、8年に国に移管されて国立陶磁器試験所に変わると初代所長になった。
明治35年頃の日本の窯業技術者の間では、ドイツマジョリカが注目されていた。彼らワグネルの直弟子たちは、農商務省の援助によって欧米の視察にも行っている。帰国後、政府は藤江をはじめとする京都市陶磁器試験場と、平野がいる東京高等工業学校、東京工業試験所の東西で、競って研究を進めさせた。
東西の拠点ではさまざまな人物が学んだ。陶芸家板谷波 山 は平野のもと、ドイツマジョリカの試作で中心的な役割を果たしていた。石川県工業学校時代には、同校の陶磁器科長だった北村彌一郎からも大きな影響を得ている。京都市陶磁器試験場には大正初期、のちの陶芸界を牽引する濱田庄司と河井寛次郎が入場し、釉薬の研究を行っている。やがて美術タイルという新しい分野を切り拓くことになる小森忍、池田泰 山 も明治晩期から大正初期にかけて京都市陶磁器試験場に在籍した。皆、ワグネルの孫弟子といえるだろう。
村瀬二郎麿と能勢敬三
そうしたなか、ついに、和製マジョリカタイル、あるいは現在に続く日本のタイル産業の曙をつくり出した2人が登場する。ともに窯業に従事する家に生まれ、明治30年代に東京高等工業学校で学んだ、村瀬二 郎 麿 と能 勢 敬三である。
村瀬は、茶陶から始まった名古屋の不 二 見 焼(後の不二見タイル)2代目である亮吉の長男だ。工業化を考える父の意を汲み、卒業後は農商務省中央試験所で、ワグネルの直弟子だった北村の助手として、硬質陶器の研究に取り組み、40年に家業に戻った。
一方、能勢の家は代々淡 陶 株式会社(現Danto Tile)に勤務し、すでに淡路島で陶板や敷瓦をつくっていた。淡陶の歴史はユニークだ。ルーツは江戸時代の文政年間、賀 集 珉 平 という人物に始まる。中国や朝鮮、ベトナムなどの海外陶器を参考に研究を重ね、鮮やかに彩色した独自の製陶法を編み出した「珉平焼」は徳島藩の国 焼 (京都・瀬戸以外の諸地方で産した陶器)ともなったのだが、やがて明治に入って途絶える。惜しんだ地元有力者らが淡陶社を立ち上げたのが明治18年のこと。珉平焼の特色である型物と釉薬の技術を生かして、30年代には湿式でのマジョリカタイル生産も始めていた。
しかし湿式では、輸入タイルの品質レベルに届かない。故郷に戻った村瀬も能勢も、イギリス製タイルを手本とし、学校での学びをもとに検討を重ねた。二人が、それぞれ国内で初の乾式成形法を開発したのは41年頃。村瀬、能勢に続き東京高等工業学校ではその後、大正7年に帝国ホテル煉瓦製作所技術顧問を務め、同10年伊奈製陶(後のINAX、現LIXIL)を創業した伊奈長三郎をはじめ、タイル生産の工業化を推し進めた人材を輩出していく。
淡 陶 社のタイル
和製マジョリカタイル、世界へ
建築の欧風化が進むなか、国産装飾タイルの需要は大きかった。技術も進み、不二見や淡陶は乾式成形法による和製マジョリカタイルの生産を始める。最初はイギリスのデザインの模倣だ。輸入品に比べて安いうえ、薄く軽いため接着用材料も少なくてすむ。とはいえ華やかな色柄は国内でそれほど多く用いられるものでもない。そこで開けたのが、ワグネルが考えた輸出産業としての道だ。
おそらく皮切りは近隣の東南アジア諸国向けだったかもしれない。店舗、住宅、公共施設、墓所……、さまざまな場で日本製がイギリス製に取って代わった。マジョリカタイルをつくる日本のメーカーも10数社に増えていった。イギリスがアールヌーボー風デザインにこだわるのに対して、日本の姿勢が柔軟だったのも人気の要因だろう。中華圏へは吉祥果、インドには神像など、現地で吉とされるモチーフなども縦横に提案した。今も台湾やシンガポールなど各地に、和製マジョリカタイルを張り巡らした建造物が残り、往時の日本の技術力と提案力をしのばせる。
では、なぜ和製マジョリカタイルはつくられなくなったか? まず、輸出先の各地で自前でつくられるようになった。同時に、国内では建造物がモダン化すると同時に、衛生思想から白色無地のタイルが推奨され、草花などのレリーフタイルの需要が減った。また昭和に入るとヨーロッパが日本製タイルの輸入をストップし、昭和17年以降の戦時下ではあらゆるタイルが生産も輸出も止められる。戦後の占領下で輸出用に生産が再開されたのはアメリカ式タイルだ。
昭和12年の佐治タイルの絵葉書には、南北アメリカやヨーロッパ、アフリカまで世界を網羅するタイルの販売網が描かれている。あの頃、和製マジョリカタイルはどこの国まで行っていたのだろう。
遠い異国でいまも息づくマジョリカタイル
アフリカ東海岸・ザンジバル
インド、スリランカ
はるか遠い国に咲き続けるタイル
今年、東アフリカ沖のザンジバルで、王族やインド人コミュニティーの墓所に和製マジョリカタイルが張られていることが確認された。裏には、佐藤化粧煉瓦工場のほか淡陶や山田タイルの刻印もあった。
「江戸時代から続く窯業家の子弟たちが懸命に最新技術に取り組み、世界に出そうとした。職人たちもそれがどこの国に行くかは知らず、黙々とタイルをつくった。それが今、はるか遠い国に残り、たいせつにされていることに感銘を受けます」
日本のタイルを世界各地に訪ね、増田研准教授(長崎大学多文化社会学部)とともにザンジバルで調査にも当たった深井明 比 古 さん(兵庫県立考古博物館)は言う。ワグネルの系譜が紡いだタイルへの夢のかたちは、今もなおその美しさで私たちの心を揺り動かす。
構成・文/植本絵美、秋川ゆか 撮影/梶原敏英(特記をのぞく)
協力/佐藤一信(愛知県陶磁美術館)、深井明比古(兵庫県立考古博物館)、豊山亜希(近畿大学)
2018年11月3日(土)~2019年4月9日(火) ※展覧会終了
「和製マジョリカタイル―憧れの連鎖」展開催
明治維新後に欧米人の住居に使われたヴィクトリアンタイルを見て、日本の設計者たちは意匠の美しさや耐火性・耐水性などの機能に注目し、 日本での生産を望んだ。内装タイルのパイオニアメーカーたちは製法を研究し、明治41年頃には乾式成形法を確立して和製マジョリカタイルをつくり始める。昭和6~7年の輸出最盛期には、東南アジア、インド、中南米、アフリカなどにまで輸出していた。近年、海外での発見事例報告も少なくない。この展覧会ではイギリスのタイルへの憧れから生まれた和製マジョリカタイルの魅力、そして世界へと広がった憧れの連鎖に迫る。
関連書籍のご案内
INAXミュージアムブック
「和製マジョリカタイル ── 憧れの連鎖」
LIXIL出版 (2018/12/25)
https://livingculture.lixil.com/publish/post-204/
会場/INAXライブミュージアム「土・どろんこ館」企画展示室
開館時間/10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日/ 毎週水曜日(祝日の場合は開館)、および2018年12月26日(水)~2019年1月4日(金)
共通入館料/ 一般:600円、高・大学生:400円、小・中学生:200円(税込、各種割引あり)
企画/INAXライブミュージアム企画委員会
展示デザイン/GENETO
12月初めには書籍『和製マジョリカタイル ─ 憧れの連鎖』(LIXIL出版)も発売予定。
愛知県常滑市奥栄町1-130
tel 0569-34-8282 fax 0569-34-8283
https://livingculture.lixil.com/ilm/
INAXライブミュージアムはLIXILが運営する文化施設です。
雑誌記事転載
『コンフォルト』2018 December No.165 掲載
https://www.kskpub.com/book/b479888.html
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公開日:2019年08月28日