住宅をエレメントから考える
窓をめぐる現代住宅の考察
吉村靖孝(建築家、進行)× 藤野高志(建築家)× 海法圭(建築家)
『新建築住宅特集』2016年12月号 掲載
役割を分担する
吉村:
先日ハワイ大学との合同ワークショップでホノルルに行ったのですが、泊まったホテルのロビーにはそもそも建具がなく24時間常に外部環境でした。条件が揃えば建築って別に閉じる必要がないと痛感しました。内装の仕上げや家具などで防水や防犯の性能を分担すればよいのです。床をタイルで仕上げれば、多少雨が入ってきても正常に機能する。鍵のかけられる家具もしかりです。窓に期待する性能を少し減らすと豊かな使い方に繋がる気がします。
藤野:
スペックが高い窓でも、建築のつくり方によって開けておく時間を長くすることはできますよね。窓を自ら開けやすい建築としてつくるのは重要だと思います。タイルの床の「Casa O」のように、開けておいてもまあよいだろうというつくりであれば、より長い時間、空気が外と繋がっていられる。結果的に、閉めた時と開けた時の差も楽しむことができる。
吉村:
自分で開け閉めできるのはよいですね。MVRDVの「グラス・ファーム」(『a+u』1304)では、ガラスでできた建物に古い納屋のような建物の柄をプリントしていて、その納屋の窓だったところと後でプリントを意図的に少し薄くしたところが窓で、それ以外のところが壁。もはや、壁と窓の違いはガラスのプリントの差でしかない。「グラス・ファーム」は閉じた建物ですが、一方で、結露に指で絵を描くような感覚で壁から窓をつくり出せるような未来も遠くはないと想像力を掻き立てられました。
海法:
調光ガラスも今は窓が段階的に黒くなるものですが、もし調光の制御単位が小さくなり部分的に調整することが容易になると、今日はあの辺りをトップライトにしようとか、今日はこの辺りの空を見たいとか、または洗濯物や植栽を置きたい場所をとびきり明るくしてしまうとか、気分や生活に応じて住宅内の環境をがらりと変えられる、天井なのか屋根なのか窓なのか分からないものができる可能性があるかもしれません。
藤野:
ただ、ガラスのスペックを上げることで、消えてしまうものもある。たとえば結露や透過音があることで、人は温度差や外の状況を感じとることができます。透明ガラスは、ふたつの空間の差異を見せる媒体でもあるのです。ガラスに当たった雨粒が流れ落ちる速度や水滴の大きさなどから、空気の流れ方や湿気の具合を感じとることは楽しみでもあります。シースルーで繋がって見えるけど、全く断絶したふたつの世界をつくり出す使い方をしてしまうと、ガラスはある意味残酷な材料になることもあると思います。
海法:
それは藤野さんの選んだ3作品の特徴にも繋がりますね。開けた瞬間に内外の関係が一変し、中だと思っていたところが完全に外に感じられてしまうようなことが起こりそうなのが面白いと思います。それを実現するのは単に窓を大きくするという大きさの問題だけでもないし、掃き出し窓か否かという窓と地面の接し方の話だけでもない。窓は実は物理的に開く閉じるというだけでないさまざまな次元をもっていて、住宅のインテリアのようにふるまったり、街の風景に住宅内の天井を参加させたりする。そのように窓が急に2次元的にふるまったり、と思いきや途方もない奥行きを感じさせたりなど、窓のもつ多層性に惹かれます。
吉村:
今私たちは、物理的な内外の繋がりとは全く別の次元で、インターネットによって常に外と繋がっている状況にあります。家の中にも窓(Windows)があるし、最近はスマホとSNSの組み合わせで、さらに途切れることなくだらだらと外部に繋がっている感じがします。それを繋がり方のメタファーとして取り込むならば、建築もだらだら連続する方が現代社会に適合しているとなるのですが、逆に情報技術経由で常時外と繋がっているのであれば、建築は閉じてもよいのだという考え方も成り立つはずです。
建築と情報技術による役割分担です。そうすると自律的で自閉的な建築が、むしろ先端的な事例のようにも思えてくる。すごく開いているものとすごく閉じているもの、両方が再考されるべきだと思います。
藤野:
マイクロソフトのWindowsはまさに情報の窓でしたね。同じくテレビもポストも窓かもしれない。ただどんな情報も素通りではなく、何らかのフィルタリングは行われています。物理的な窓も、開けるか閉じるかの2択ではなく、光や視線や音や通気などさまざまなパラメータの開き方を段階的に制御できるようになるかもしれません。その時重要なのは、いかに簡易に操作できるかではないでしょうか。操作が容易であれば、開く機会も増えます。街に、開いた窓と閉じた窓の分布がいつも揺れ動いている自由な風景があればよい。しかも視覚的な開閉だけでなく音や香りも、窓を介して気軽にやり取りされていて欲しい。そして、窓を開けるためには人びとがまず都市や自然を信頼できることが前提になります。自分を取りまく世界に繋がりたいと思えるかどうか。結局窓を考えることは、環境を考えることなのかもしれません。
吉村:
建築の歴史は、おおまかに見れば壁と窓による境界面の陣取り合戦です。しかし、今日の議論で出てきた窓のような壁や、壁のような窓を夢想すると、そういった争いから少しだけ自由になれる気がします。人間の意のままに変化する窓を備えた建築もあれば、逆に透過性の違いだけがあって、人間にその違いを選択させることで窓の代理をするような建築もあるでしょう。さきほどのハワイ大学の中庭では木陰で授業するクラスがあり、たいへん気持ちがよさそうでした。しかしよく見るとある者は影に、ある者は日の当たる場所に居て、環境がまちまちなのです。はたと気付いたのは、気持ちよさを醸し出す根源は、具体的な数値や性能だけではなく、時には空調の効いた部屋を離れ自分で自分の環境を獲得したという事実そのものなのだということです。いつかそんな窓をつくりたいものです。
(2016年10月26日新建築社にて。文責:『新建築住宅特集』編集部)
特記なき写真撮影/新建築社写真部
雑誌記事転載
『新建築住宅特集』2016年12月号 掲載
https://japan-architect.co.jp/shop/jutakutokushu/jt-201612/
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公開日:2017年11月30日