INTERVIEW 027 | SATIS
心で風景を見る。
設計/リノベーション:熊谷工務店・ミヤケマイ(美術家)|建主:ミヤケマイ(自邸)
今回は美術家のミヤケマイさんの自宅とアトリエを取材しました。場所は大津、宮都に隣接するこの街は静かで、そして自然にも恵まれ、昔ながらの街並みも残っています。この建物は工場のリノベーションで、仕事の材料やコレクションのものが多いというミヤケマイさんには工場という大空間はぴったりのようでした。1階は半屋外のフリースペースと倉庫に、2階は表具作業場と大きな創作物をつくるアトリエに、3階は、自宅として使っています。環境に呼応するようにアートに取り組む氏(*1)は、このリノベーションでもこの場所の風景や空間に向き合って建築を作っています。日本の美術が、美術そのものとしてではなく、建築と一体になって成り立っているということを話していました。日本の総合芸術である建築は建具も表具も、そして花も器も全てが呼応しあって生まれる一つのもので、その点が芸術を芸樹としてみる他の国とは違う点だと言います。
外と内との結界、そしてリビングへ
3階には、一階正面の玄関から2階のアトリエを通り過ぎ、階段を登って行きます。玄関はとても大きな空間になっています。ここは昔で言うなら次の間的な空間です。自分が家に入る時でも、お客さんがここに入る時にも、まずは気持ちを切り替えるための大切な空間です。アトリエが一緒にあるこの建物で、3階に入るときに仕事と自宅の暮らしを切り替えることにも必要と言えるでしょう。コロナ対策でもあり自分が安心して暮らせるという大きな役割を持つ大きな手洗いや、ソファ、椅子といった家具も気持ちを切り替え、同時に聖なる空間へと入るような気持ちにもさせてくれます。また寝室や水回りのプライベートな空間とダイニングやリビングといったパブリックな場所との結界にもなっているようです。そして大きな窓は、この家の特徴的な要素ですがこの結界の空間においても窓から外の景色が一望されます。この部屋から奥のリビングに入るとさらに大きく広がる外の景色は気持ちを伸びやかにさせてくれます。
見たものでなく、見るということ
この家の特徴的なことは大きな窓とそこから見える山の自然や古い街並みの風景です。その風景が、恣意的に切り取られることなく、無造作に目に飛び込んできます。そのことに新鮮さを感じました。多くの場合、特に新築の場合、窓というのはどこを見せるのかということを意識してしまいます。つまり絵のフレームのように窓を作るのです。例えば地窓は庭のある部分だけ見せるように、そして永遠にその風景が続いていくかのような錯覚を作りだすのです。つまり、どのように見えたかという結果にこだわります。しかし、この家の窓にはあえてそうした操作が加えられていません。リノベーションということもあり極力窓の位置を変えなかったことも理由の一つなのかもしれませんが、それは見える結果でなく、対象物をどう見ていくかという、その行為に意味がありそうです。
もともと工場ですからそこでは明るさを重視し、空間を演出することはなかったでしょう。しかし機能が優先された空間がこのリノベーションではそれが十分に生かされています。どうも我々は日本的な家というと少し暗く、光がコントロールされた家と思いがちですが、その先入観を外した方が良さそうです。
窓から外を見た時、人間は、そこにあるものを見えたものとして、その映像を理解しようとするのですが、そうではなく、見るという行為を通じて、そのものの存在を感じていくことと理解したらどうでしょうか。見たくないものは消していく、または反対に見えないものを見ていく、さらには見ているものの裏側を想像していく、つまり平面を見ながら立体的に見ていくのです。そう考えると大きな窓からの風景をもっと自由に見られそうです。遠く離れた山の稜線に気持ちを集中することも、もっと細かい部分の木々の葉や、春であれば桜の花に意識を向けていくこともできそうです。見るという行為の中にこそ、さまざまな感情を引き出すことができるのでしょう。そして、そのことで見る人の心の状態もその感情に大きく作用するでしょう。
意識的に計算された答えに導かれるのでなく、行為としてそこにあるものを感じていく、その感覚こそが「日本的なもの」なのかもしれません。
床の間と違棚
ダイニング・リビングの部屋の壁の一部に、床の間と違棚を見立てた金属フレームの立体があります。これはミヤケマイさんが、さまざまな現代の家の寸法に合うように制作したそうです。そこには、床柱に見立てた木製の細い柱や、柳釘をあらかじめ組み込む等、細やかなデザインがほどこされています。これも現代の家に合わせるために、様式を作るというより、床間として見立てるということなのでしょう。見立てるとは、そのものを他のものとして捉えるというようにも言えますが、見るという行為の中にあえて意味を見出していくという感性とも言えそうです。そこに氏の美術家としての感性を感じるのです。そのため、できるだけ記号性をなくして自由な感性を邪魔しないようにすることも大事なのでしょう。様式を完全に外し、見る人と対象物との対話だけに集中していくのです。この家の現代床の間には、掛け軸と花が立てられていました。花を立てるとは、生けるという意味ですが、あえて立てると書くには、それが立体であり、重力を持ち、磁場を持つからなのでしょう。床の間は演出された装置であるというより、見るという行為から生まれる人間の感性を引き上げる装置だと言えます。
用の美
この言葉は民芸運動の中で生まれ定義された言葉です。氏も何度かこの言葉を使っていました。日常の中で使われ続けることでさらに美しさをましていくものと定義されています。しかしここでも先ほどの見るということと同じように、使い続けたことが美を生み出しているかのように聞こえますが、実は使うという行為の中に意味があるのです。使うという行為の中で生まれるその対象物との関係性や意味が変化し深まっていくと考えるのです。機能も重要ですが、それだけではないでしょう。中には少し不便であってもそのものと自分との間に生まれる関係性が、毎日使われることによって増していくといいう感覚が伴う必要があるのです。それは使った結果で美が増すのではなくて、使うことでそのものとの関係性が深まっていくというように考えることなのです。取材中に織部の茶室について触れられていました。織部の茶室というと、他の流派に比べると自由で、かつ伸びやかな、そして明るい印象を持ちます。この家にもそのことを感じます。「こうみなさい、こう考えなさい」という抑圧的な記号を配していく美の捉え方に対して、行為を通して感じるという心の内面に浮かび上がってくるものを大事にしているのです。
気持ちのいい家
取材の中で、この家を考えるにあたって気持ちのよい、そして居心地のよい家をつくりたかったと何度か言っていました。ではその気持ちよいとはどこから生まれるのでしょうか。それは、自分の内面から浮かび上がる感情に耳を傾けることができるということでしょう。そのためにこの家ではできるだけ制約を外して、自分が自然体でいられることを大事にしているのです。山を見ながら山の風景と対話をし、花を立てながら、花と対話し、器を見ながら器と会話をする、その対話の内容は常に変化し、自分を映していくものです。見たくないものは、見なくていいのです。見えるものから、見るという行為を通して感じること、そこに居心地の良いというこの家の魅力があるようです。
おもてなしについて
ミヤケマイさんは多くの人と一度にコミュニケーションするのは好きではないと言います。限られた人と深く関わって行きたいといいます。そのこともこの家で展開される人と物、空間との関係に似ています。対話の中から相手に気持ちよく過ごしてもらう、物や空間を感じてもらうということなのでしょう。家全体が茶室の様にも思えます。美味しいお茶を点てて、お菓子をいただくということも、掛け軸や花も、置かれている道具類もみな心で感じるための装置なのです。季節ごとに変わりゆくそのしつらえも季節を五感で感じる意味で大事なことなのです。帰り際に入り口で半紙に何か一言書き残してもらっています。これもその日を、その時間を記憶にとどめ、そこで過ごした時間との関係性を感じさせるためのおもてなしなのでしょう。
部屋にいるように過ごす水回り空間
トイレそして洗面・風呂場は一つの部屋になっています。この空間には長くいることが多いといいます。ここでも居心地の良いことを大事にしていると言っていましたが、やはり、ものとの関係性が深まっていくということなのでしょう。大きな出窓には盆栽が並べてありました。そうした盆栽にも愛着を感じまし、そのことによって快適に長く過ごしていくことにもつながるでしょう。過ごすということに価値を生み出していくこと、そのためにも窓や広さやしつらえは大事です。日常長く過ごす時間の場所としてトイレの部屋は作られています。ヒーターもつけられ、暖かく過ごせる様にもしています。トイレ本体のカラーは「ノーブルグレー」を採用。サティスGタイプだけに展開されている特別なカラーで上質な空間を演出します。ミヤケマイさんはグレーは好きな色だと言います。迷わず決めたそうです。今回採用のサティスGタイプは便座の座面積も大きく、座りやすいというのも魅力の一つのようです。
最後に愛猫のことに触れました。便器の蓋はフラットなら、猫も気持ちよく座れるようにできないのかとの話でした。猫にとっても居心地の良いという話が印象的でした。
このコラムの関連キーワード
公開日:2023年03月27日