「建築とまちのぐるぐる資本論」取材 2
小さな経済とメンバーシップの建築化
能作淳平(聞き手:連勇太朗)
「建築とまちのぐるぐる資本論」第2回は、新宿から中央線とバスを乗り継いで1時間ほどの東京都国立市で、建築家の能作淳平さんが手掛けている複数の商業施設を取材した。どの施設にも共通しているのは、運営者、目的を共にした様々なメンバー、お客さんがひとつの空間を介してゆるくつながっていることだ。初期投資や固定費を抑えつつ、カジュアルにコミュニティのなかで経済循環をつくること、人々の関係をつなぎ建築化することの可能性を能作さんに聞いた。
設計事務所兼シェアする商店?
連勇太朗(連):
今日はまず「富士見台トンネル」を案内してもらいましたが、非常に不思議な場所ですね。能作さんの設計事務所でもありシェアキッチンでもあるような。どのような場所なのか教えてもらえますか。
能作淳平(能作):
「富士見台トンネル」は国立富士見台団地の商店街の一区画をリノベーションして、2019年11月オープンしました。「シェアする商店」と銘打って、新設した大きなテーブルとキッチンを複数の事業者で共有している店舗です。
事業者は、会員としてお店を始めたい人や小商いをやりたい人を募集しました。現在会員は25名ほどで女性が6~7割、年齢層は20代から30代の専業の方、スタートアップの方、趣味が高じた副業の方、また50代・60代で早期退職してセカンドキャリアの方など様々です。月15~20店舗が日替わりでオープンしています。
いわゆるシェアキッチンとの大きな違いは、奥に運営者である僕の事務所が入居していて、事業者(会員)、エンドユーザー(お客さん)と運営者が間仕切りのない空間に混在していることです。僕らは一利用者のようにも見えますが、予約が多い日は僕たち設計事務所が気を遣って省スペース化して作業をしたりしています(笑)。関係は完全にフラットです。
運営の仕事は僕の事務所だけではなく、会員からリーダー的な人を雇って、予定やシフトの調整、イベントの段取り、掃除やゴミ捨てなどを担ってもらっています。
働き方を変えるための「富士見台トンネル」
連:
そもそもなぜ国立市富士見台に住み始めたのでしょうか。「富士見台トンネル」ができるまでの経緯について教えてください。
能作:
富士見台に住み始めたのは2014年でした。僕は富山県高岡市の出身で、大学で上京してからずっと都心部を転々としてきましたが、子どもが生まれるのを機に定住しないといけないと思い、妻があきる野市出身ということもあって多摩地域で家を探し始めました。UR都市機構で、改修後に原状復帰しなくてもいいという賃貸物件を見つけて、おもしろそうだと思い、周辺地域のこともそれほど調べずに引っ越してきました。合わせてその家の目の前にあった元スーパーで廃墟になっていたような場所をリノベーションして事務所「富士見台ストアー」をつくりました。
子どもがふたりになってから手狭になり、今は「富士見台団地リノベーション」を離れ、近所に引っ越しています。「富士見台トンネル」をつくったタイミングで「富士見台ストアー」も手放して、事務所機能は完全に「富士見台トンネル」に移行しました。
国立市は都心に働きに出る人が多く、僕もご多分に漏れずクライアントに呼ばれては都心に通う生活で、なかなか大変でした。どこでも仕事ができるようで実際はそうではないこと、地理的な上下関係を感じていました。徐々にクライアントワークのスケールは大きくなり、スタッフの数も増えていったのですが、僕は良い作品をつくりたいというモチベーションのみで運営していたので、事務所はうまくいかないことも多々ありました。スタッフのみんなが心身共にすり減って、職場環境が悪くなり、なにかが間違っているのではないかという違和感をずっと溜め込む状態でした。
2017年頃は僕にとってはかなりきつい時期でした。どれだけやってもなかなかうまくいかず、限界を感じてすべてを投げ出して事務所をたたもうとまで考えました。いかにやりたい仕事だけを続けていけるのか、そのための環境を真剣に構想し始めました。それが設計とは異なる収益源をもつこと、設計事務所のブランディングにも役に立つ自分のスペースをつくることでした。
連:
自宅や事務所の改修など、富士見台での一連のプロジェクトは今に続くまで、ある戦略に則った一貫性のある取り組みだと思っていましたが、「富士見台トンネル」以前以後で大きな断絶があるのですね。特に能作さんのメンタル面での変化に興味をもちました。
能作:
独立してからずっと建築設計事務所というモデルのなかだけで奮闘していました。大学卒業後、立派な建築家になるにはアトリエ系設計事務所で修行して独立することは当然のルートだと思い込んでいて、自分が経験したような建築設計事務所以外の経営モデルを想像することはありませんでした。自分の能力の限界ももちろんありますが、建築設計という業界の構造的な問題、仕組み自体にも難しさがあると思います。建築設計はプロジェクトが頓挫することも少なくありませんし、設計期間が長期的な割にまとめて報酬が支払われるという慣習なので、経営的にも精神的にも安定しづらいです。
独立当初は若さというアドバンテージもあって、いくつか賞をいただいたり、建築雑誌で紹介されることもありましたが、どこかでこの業界に向いていないという自覚をもっていました。
他方で2010年代半ばから、TwitterをはじめとしたSNSで様々な業界の非常識な労働環境が暴かれて炎上していました。日本では人口が減少に転じて新卒売り手市場になると、ちゃんとした就労条件を求める人も増えてきて、建築設計事務所が人手不足になり始めたのです。今は建築家が求人の広告を出すことは当たり前になっていますが、かつては募集せずともポートフォリオが無尽蔵に送られてくる状況で、広告を出すのは人気や実力のなさを自ら晒しているようで恥ずかしいこととされていたように思います。
そうした社会の変化、労働環境の改善自体はとても良いと思っていましたが、自分は既に雇用する側にいて、しっかりとマネジメントをやらないと生き残れない時代になったことも明らかになったのです。
連:
設計事務所の労働環境の問題をはじめ、建築業界の固定化された価値観など、赤裸々に語っていただきましたが、「富士見台トンネル」がそのような悩みを経て生み出されたとは知りませんでした。
設計事務所の家賃を払っていく必要があるなかで、「富士見台トンネル」は会員さんからの賃料を得ていて、会員さんにとっても初期費用や固定費が安いですし、事務所を経営する側も含めて互いのリスク軽減になりますね。
能作:
「富士見台トンネル」は、まちづくりという意味もありますが、どちらかといえば自分のための箱庭療法的な活動です。例えば、今日自分がカウンターに立てばいくらか日銭が入りますし、共有している会員さんから少しずつお金をいただくという、デザインやコンサルティングとは「別の財布」を確保していることが自分の生活や精神にとって大事です。
毎日入れ替わり立ち替わり、異なる料理人や仕入れ先が入って来ることで、カジュアルで水平的な関係性があり、アトリエ系設計事務所の密室感が良い意味で崩れています。事務所としては決して使いやすくはないですが、その分とことんペーパーレス化したり、無駄な模型制作を削減するなど、働き方改革を断行しました。集中する時間が必要であれば、むしろ自宅や喫茶店の方が良いかもしれません。オフィスはみんなが集まってアイデアを発散するための場所として割り切って運用しています。
連:
驚いたのは、空間として能作さんの事務所が完全にお店側に飲み込まれていて、設計事務所に見えなかったことです。普通の設計事務所であれば、大きなディスプレイやオフィス用の椅子を設置して、集中したい時は人に出入りしてもらいたくない、みたいな働き方になると思いますが、書類も物もテーブルの下にすべて収納してあり、生活感というか職場感がないのに驚きました。実際に運営を始めてどのような気付きや展開がありましたか。
能作:
実は「富士見台トンネル」は近所の方々や友人から、失敗するだろうと反対されていました。高齢者が多い団地なので若者向けの空間をつくっても人は来ないと、少額の融資をお願いした銀行の担当者も現地を見てたじろいだほどです。
基本的には閑静な住宅街で、唐突にポツンとできたのが「富士見台トンネル」でした。あくまで設計事務所が主体で、自分たちのことをよくわかってくれているわずかな人が会員さんになってくれればいいと思っていましたが、蓋を開けてみると人気のお店になりました。ここには若くてアクティブな人がいないといわれていましたが、コンテンツがなかったからそう見えていただけで、ベッドタウン団地にも潜在的需要があったことは大きな気付きでした。僕の事務所のおまけのつもりが、結果的に「お前はなんでここを事務所にしているんだ」と思われてしまうくらい(笑)、お店をやりたい利用者の方がメインの場所になっています。
オープンして1年ほど経ってから徐々に、この付近でお店をやりたい人や他の地域で「富士見台トンネル」のような事業をやりたいという相談をいただくようになりました。僕は運営で手一杯だったので積極的に営業していたわけではないのですが、ひとつ成功事例ができるとその可能性を感じて挑戦してみようという人が自然に現れてきたのです。
2022年4月、3軒隣に僕の事務所元スタッフの朱牟田育実さんと菊池悠伽さんが設計したジビエ料理の「urban's camp Tokyo 富士見台店」がオープンし、同じく2022年4月に徒歩5分のところで「スナック水中」がオープンしました。「スナック水中」のママである坂根千里さんは、知り合った頃は一橋大学の学生でしたが、「富士見台トンネル」で何度か限定イベントとしてスナックを開いていました。彼女は当時、先代の「スナックせつこ」でチーママとしてアルバイトをしていましたが、コロナ禍でせつこママがお店をたたもうという時に引き継ぐ決意をしました。それまでの経緯もあって、彼女のお店を開店するにあたり改装の設計を依頼されました。男性・常連さんが多いスナックから女性や若者にも開かれたスナックを目指して、外壁の隠し扉で外観を臨機応変に変えられるようにしています。ドキュメンタリー番組に取り上げられたり、話題のお店になっています。
坂根さんはこれから水中グループの2軒目として、富士見通りにある老舗のミュージックバーを事業承継する予定です。スナック水中の評判から、坂根さんに継いでほしいという相談があり、次の店のあり方を構想中です。
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公開日:2023年06月29日