タイル探訪 その1:人の集まる場所 倶楽部建築

時を超えるタイル

塚本由晴(建築家)

『新建築住宅特集』2023年9月号 掲載

倶楽部建築探訪──きんせ旅館

ジョサイア・コンドルによる「鹿鳴館」や、辰野金吾による「東京駅」が西洋の様式で建てられていった背景には、十分に文明化した日本社会であることを示し、列強諸国との間の不平等条約を改善するという大きな目論見があった。社交クラブもその流れを汲むもので、特にイギリスとの外交交渉上の立場を改善するために*1、彼の地のジェントルマンズ・クラブに倣って男性限定のメンバーシップとなった。それまでの女性がつきものだった男性が集まる場所は、野蛮と見なされたのだ。そんな男性が女性に会う場所であった江戸末期の揚屋が、大正時代に旅館に改修された際、タイルが大々的に使われた事例があると京都の建築家魚谷繁礼さんから聞き、案内してもらった。京都の花街、島原の一画にある「きんせ旅館」である*2。2階の掃き出し窓と出庇が間口いっぱいに水平に伸びた開放感や、出格子、ベンガラ壁、格子戸の順に入り口に近づいていく1階のシークエンスにより、どことなく華やかさを感じさせる町家である。中に入ると土間はベージュのタイル張り、左側の石框で囲まれた範囲はストーンモザイク張り、正面のステンドグラスの前で1段上がる床が、布目タイルを含む乱張りになっている。靴のままタイル床に上がり、ステンドグラス脇の扉を開けると、そこは天井の高い洋間のホール。ヘリンボーン張りの木フローリング、飴色の羽目板、漆喰壁、折り上げ格天井、ステンドグラス、シャンデリアを揃えた、大正モダンのハイカラなインテリアである。靴で上がるということは、ダンスホールとして使われたことが想像できるが、ここにタイルは使われていない。さらに奥に進むと庭との間に元は縁だったとおぼしき中間領域があり、この腰壁に乱張りタイル、床に玄関土間と同じベージュのタイルが張られている。さらに積極的なのは庭に張り出したトイレで、床には大阪倶楽部の壁泉に使われていたのと同じ、赤と青が入り混じる釉のかかった90mm角の鈞窯釉タイル、腰壁に2丁掛けタイルより少し大きい布目タイルが、横目字の水平線を強調する縦目地突きつけで張られている。こうして見ると、元は台所だったという1階の改装は、間口の広い和の外観の中に洋のインテリアを入れ子にしており、その結果玄関土間や縁などの中間領域が和と洋の隙間として位置づけ直され、そこにタイルが集中的に用いられていることになる。ここからは推論だが、台所と中間領域の間にあった引き戸を腰壁に変えるにあたり、内側は洋風の羽目板だが外側の意匠は和か洋か悩むところその非決定性への応答がいろいろなサイズと色と質感のタイルを取り混ぜた乱張りだったのではないだろうか。ざっと見た限り、タイルを割らずに、真物だけで複雑なパズルのように綿密に割り付けられている。同様の乱張りは別棟2階の廊下の腰壁に見られ、その内側は緑を基調にした和製マジョリカタイル張りのトイレである。
西の花街、島原の入り口には今も門が残る。ここで接客する女性たちは門の外に出ることを制限されていたという。門の中の建物には、腰壁周りにタイルが張られているものが多い。「きんせ旅館」も基礎の立ち上がりを細長いタイルで仕上げている。魚谷さんに連れられて東の花街、南京極町にも行ってみた。こちらに門はないが、装飾的なタイル仕上げが犬走りや外壁にまで展開しているものが多い。町家が連なる京都の街路空間の主成分は土壁、焼スギ板張り、障子、瓦。人が集まる寺院などに白漆喰が混じるぐらいで、光沢があるものは非常に限られていた。俗なニュアンスのある花街には白漆喰は使えなかったが、それでも人が集まるところだから華やいだ雰囲気が欲しい。土を細かい粒子になるまで濾して、塗って、光沢が出るまで徹底的に磨き込んだ「角屋」(島原にある揚屋、京都市指定・登録文化財)の大津壁などは、そういうところから生まれてきた。そこに、手をかけずに光沢を身に纏えるタイルが登場した。使わない手はない。こうして花街の街路がタイルで彩られるようになったのだと思う。

「きんせ旅館」タイル位置のダイアグラム。

【写真資料】きんせ旅館(江戸時代末期竣工→大正時代後期改修、京都府京都市)

京都最大で最古の花街である島原に、江戸時代末期に建てられた揚屋を、大正時代後期に旅館に改修した建物。揚屋は、遊女である太夫のもとに公卿や武家、豪商などが出入りする社交場にもなっていた。現在の西洋風の設えは改修時のもの。外国人から社交ダンスを習うダンスホールでもあった。現在はカフェバーとして使われる。

外観は揚屋だった当時の姿を残す。2階の掃き出し窓や1階の出格子などに、花街の風情が漂う。

客を迎える玄関や廊下の床・壁などに、さまざまな色、かたちやテクスチャーのタイルを組み合わせた乱張りのタイル面を見ることができる。この施工の手法は、1928年に竣工した旧甲子園ホテルの旧酒場床に泰山タイルを敷き詰めた事例に始まる。人が集まるホテルの酒場床にみるタイル職人たちの手跡や多彩なタイルの集合体は、もてなしの心を代弁する意味も含めて、喫茶店や旅館で展開されたのかもしれない。

洗面所床の鈞窯釉タイル。大阪倶楽部壁泉に比べて、青色の部分が多い。これは釉薬調合の違いと共に、窯変と呼ばれる人がコントロールできない炎がつくり出す。

2階客室階にあるトイレ。緑を基調にした和製マジョリカタイル張り。

倶楽部建築探訪──船岡温泉

「きんせ旅館」の2階トイレに用いられた和製マジョリカタイルは、大正初めから戦前(1920〜30年代)に日本で生産された多彩色レリーフタイルで、近代イギリス製のマジョリカタイルシリーズを模倣してつくられたものだろう。昭和初期の輸出最盛期には、東南アジア、インド、中南米、オーストラリア、アフリカなどにまで輸出されていた。この和製マジョリカタイルが大々的に壁に用いられているのが鞍馬口通にある「船岡温泉」である。料理旅館「舟岡楼」として1923年に建てられた漆塗り格天井の間が脱衣場になっており、1933年に「船岡温泉」となった際に建てられた鉄筋コンクリート造部分が浴室である。脱衣場の天井中央には、浮世絵に好んで描かれた牛若丸(源義経)に鞍馬天狗が武術を教える構図の彫刻、欄間には京都三大祭りのひとつ葵祭の行列や、上賀茂神社の賀茂競馬、今宮神社の祭りの様子や、1933年当時英雄伝となっていた肉弾三勇士*3などが彫られており、娯楽的サービス精神に溢れている。和製マジョリカタイルが張られているのは、脱衣場の浴場側の天井際の壁と、渡り廊下の壁である。浴場のタイルは白でマジョリカではない。この渡り廊下の窓外は庭池であり、際には千本鞍馬口にあった菊水橋の欄干が移築されている。つまり渡り廊下の見立ては庭の池に架けられた橋であり、庭の一部なのである。それに応えるように和製マジョリカタイルは緑の地に赤やピンクの花模様で、薔薇、牡丹、菊などを咲き誇らせている。ひと風呂浴びて脱衣場に戻ってみると渡り廊下への引き戸の脇の壁には、帆船が浮かぶ湖水図の部分や、七福神を乗せた宝船が絵付けされたタイルが断片的に張られていることに気がついた。庭から浴場までが湖水として見立てられているのだろう。週末の夕方ということもあって、多くの親子連れや老人がお湯を楽しんでいた。人が裸で集まる場所としての温泉(銭湯)を、和製マジョリカタイル壁は温かく見守っていた。

【写真資料】船岡温泉(1923年、京都府京都市)

船岡温泉は1923年に木造2階建ての料理旅館「船岡楼」の付属浴場として営業を開始。その後1933年に日本で初めて電気風呂を導入し「特殊船岡温泉」として許可を受けた。戦後1947年に銭湯として営業を始めるが、脱衣場は漆塗り格天井、技巧を凝らした欄間など、風呂屋としては破格の豪奢な姿を今に伝える。

外観は現在も料理旅館当時の姿を保ちながら、町の銭湯として、多くの人びとで賑わう。

花モチーフを中心に 15種類以上の和製マジョリカタイルが壁面や流し場を飾る。数ミリほどを盛り上げたレリーフなど、大正期から昭和初期に全盛を迎えた手法が用いられている。脱衣場と浴場を結ぶこの渡り廊下は、旧建物の一部を移築したものが使われている。(写真撮影:梶原敏英)

受付脇の壁面に張られている和製マジョリカタイル。こちらも花のモチーフ。

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公開日:2024年02月27日