お好み焼き住宅論 ──過渡期の今考えるこれからの住宅

家成俊勝(建築家)

『新建築住宅特集』2022年2月号 掲載

2022年1月現在、いまだ世界は新型コロナウイルス感染拡大の只中にあり、この事変以降、以前の日常を完全に取り戻すのではなく、それぞれに自らの生き方を見直し、次のステージを考える時代になりました。また日本では、東京オリンピックが終わり、都市部の大規模再開発による建設ラッシュは住宅、建築、都市に大きな影響を与えつつ、経済と産業が取り巻く暮らしにどんな未来があるかが問われているといえるでしょう。
今という時代を踏まえ、これからの住宅のあり方の具体策を考えるうえで、今回は建築家の家成俊勝さんに「過渡期の今考えるこれからの住宅」をキーワードに論考を執筆いただきました。自らとその回りに常に批評的にあるために、議論の輪を広げるきっかけになることを目指しました。

最初に

ひと口に住宅といってもさまざまな切り口がある。突飛なように思われるかもしれないが、この論考ではその切り口をお好み焼きに重ね合わせて考えていきたい。
世界では現在でも新型コロナウイルスの感染拡大が収まらずにいるが、そのような中でも積み重ねてきたノウハウを使っていかに経済を回すかという方向で動いている。しかし、これまでの経済を持続促進させるシステムとは別の方法で可能性を広げなければ、私たちが抱えるさまざまな問題にアプローチすることはできないのではないか。建築家として取り得る別の方法とは、生産手段を専有して生産物を生み出して貨幣を蓄積し、さらに生産を拡大していく現行システムに応えるのではなく、誰に対しても開かれた生産手段によって、貨幣と交換される労働としてではなく、自ら能動的に手もちの「物」と「技術」を投げ打ち、自らの歓びとそこに関わる人たちとの直接的なネットワークのために行動する、もうひとつの建築家像を呈示することである。この移行は完全には起きないと思われるので、前者一辺倒の中に後者の活動を少しでも広げていくことや、そのハイブリッドを考えたい。いや、そんな経済活動にならないことをと思う読者も多くいると思うが、私はそれも立派な経済活動だと考えている。貨幣だけに価値を見出さず物に価値を見出し、それらが直接的に人や技術を介して動いていくのだから。まずは「物」(住宅をつくる際の材料)について考えたい。
住宅の多くは、工場で生産された多くの商品の組合せでできている。そしてそれらひとつひとつの商品も、別の商品の組合せでできている。貨幣と商品の交換と、商品を動かす物流システムがそれを可能にしている。日本ではコロナ禍でもスーパーマーケットから商品がなくなることはなく、「お金があれば」食べることや住むことに困ることはなかったことから、このシステムは大変便利なものであることが分かる。一方でその商品や物流システムは、専門化、細分化されており、私たちが関われる部分はかなり少ない。さらにその全体を把握している人はほとんどいないだろう。この把握できないことを前提に、住宅を巡る議論の大半は物が組み上がった後のことに終始することとなる。この把握できないほどの複雑さや閉鎖性をほぐす可能性を、日本で知らない人はいないであろう「お好み焼き」を例にとって考えたい。そのためには、私たちが把握している材料が届く直前のラストワンマイルではなく、そもそもその材料の起源と関係するファーストワンマイルを辿ることが必要になる。

お好み焼きと地球。 提供:家成俊勝

お好み焼きの以下5点の創造の潜在的可能性に着目している。

  • ①素材の入手が容易であること
  • ②つくり方が容易であること
  • ③つくるための道具の入手が容易であること
  • ④つくるための道具の扱いが容易であること
  • ⑤つくり手によってさまざまな改変が可能であること

まず材料がなければ何もつくることができない。ここでは①について考え、私たちが暮らす現在の状況を把握しておきたい。

自分の身の回りを見渡せば、多くの商品で溢れている。たとえば車は約3万個の部品からできているといい、その3万個はすべて商品でもある。商品の連綿と続く繋がりの内に私たちが使っているものができ上がっているわけである。そして、それらの商品は、どこで材料が調達され、誰がつくり、どういった経路で私たちの手元にやってきたのかほぼ分からない。設計図書の仕上げ表を書いている時にその材料を深くイメージしているともいい難い。今、この瞬間も、海洋を行き交う無数のコンテナ船、巨大コンテナターミナル、巨大物流倉庫、張り巡らされた高速道路や鉄道が、バーコードや識別番号が付されたコンテナからAmazonの小さな段ボール箱まで無数の大小の箱を移動させている。これらは人ではなく、物の寸法に支配されており、非常に抽象的な世界だ。物と物の関係、物と人の関係は当然見えづらい。
お好み焼きとひと口にいっても、そこには陸と海の素材がさまざまに使われ、それぞれの素材がバラバラの経路を辿ってアッセンブルされたひとつのかたちである。私たちが確実に把握できるのは、Uberの配達員や近所の小売店といった手に入れるすぐ直前のラストワンマイルでしかない。食料は素材から私たちの口に入るまでの手数が少なく追いかけやすいので、今からお好み焼きのファーストワンマイルを遡っていきたい。

お好み焼きで辿るファーストワンマイル

プラネタリー・アーバニゼーションという言葉が示すように、地球はますます都市化しており、都市部と、都市部で消費されるものを生産する後背地を結ぶ物流ネットワークが張り巡らされている。お好み焼きの材料である小麦はアメリカから大量に輸入しており、巨大船バルカーで運ばれてくる。小麦をアメリカから輸入する理由のひとつには、安全保障があり、政府間の取り決めでアメリカから小麦を買い取ることになった歴史と繋がっていると聞いた。私が小学生だった1980年代は、給食はほとんどパンだった。日本の昼食というと普通は米のはずだが、日本の子供の食生活にパンを食べるという習慣をもたらし、アメリカは日本に巨大な小麦のマーケットをつくり出したのである。お好み焼きの小麦粉の話が急に国策の話に繋がっていく。
アメリカの小麦の生産地で有名なのはカンザス州だが、そこをGoogleマップで見ると凄まじい風景が広がっている。正円でできた広大な畑は効率よく水や農薬を散布することができる。ひとりで10万haの農地を管理していると聞いたが、10万haは大阪府の約半分の大きさにあたる。もはやひとりで管理するということが想像できない大きさである。雇われている労働者はバックパッカーなど素人もいて、音楽を聴きながら大きな農業マシーンに乗っているだけで、栽培はコンピュータで管理しているという。そしてコスト優先の非持続的農業によって、地下水が枯渇しようとしている。
次に卵。鶏の餌はトウモロコシであり、このトウモロコシもほとんどアメリカから来ている。豚玉の豚も同じ。家畜を育てるためにどれだけのトウモロコシと水が必要か。その大半は糞尿となり、大量の穀物と水を使って「たったこれだけの肉」を生産している。油は大豆からつくられていて、その大豆もほとんどがアメリカから来ている。小麦、トウモロコシ、大豆は全部お好み焼きの材料だが、私たちにとって非常に大切な穀物である。人間の食料としてだけでなく、家畜の餌になり、トウモロコシはエタノールになり、大豆はディーゼルになる。聞いたところでは、中国は、小麦と大豆とトウモロコシは自国で自給するといっていたらしいが、経済が発展し、人口も増え、農村部が都市化したため、すべてを自給できなくなり、まず大豆を諦めた。中国政府直轄の国有企業COFCOは、アルゼンチンやブラジルの企業を買収して森林を開懇して大豆を育てている。アメリカ、カナダ、オーストラリア、フランス、これらは食糧自給率が高いと聞くがもはや開墾され尽くしている。これからアジアやアフリカを中心に地球の人口は増加していく。日本は人口が減少しているが、大型農業投資を新植民地主義と表現されることもある通り、地球規模で食糧争奪戦が行われている状況である。おまけに農業の担い手はどこでも少なくなっている。ますます農業はロボット化され、種はますます品種改良されていく。プランテーションも物流システムも凄い発明だが、それによって私たちが何かを想像する力や何かをつくり出す力が削がれているのも事実である。しかし生きていくためには食べることができないよりマシである。この流れはますます加速するだろう。行き着くところ、水と土の話になる。これは地球という惑星の話。鉄板の上の丸いお好み焼きから、宇宙に浮かぶ丸い惑星へ。今、私たちが食べている1枚のお好み焼きのファーストワンマイルへ辿る話である。

タイルで辿るファーストワンマイル

お好み焼きの材料を辿ると私たちの手元からどんどん離れていくが、住宅においては私たちの手元にたぐり寄せることが可能ではないかと考える。建築の建設には多くの建材が使われており、特に都市部の再開発ではその巨大化によって私たちがその建材の原料にまで手を伸ばすのは難しい。しかし住宅は地域における自然環境や社会環境との関係をもちながら私たちが把握し、手の届く材料で自らつくる未来が開けるはずだ。かつて住宅は木と紙と土でできていた。ここでは住宅と土の関係について考えたい。土は、古くは土間や壁や土葺き、近代以降はタイルの材料としても使用されている。タイルが土からできているのは当然だが、美しい製品になっていて、タイル以前の土、あるいはその土を生み出す地勢に思い至ることはなかなかない。タイルは、陶器、磁器、せっ器に分類されそれぞれに原料や製造方法が違い、当然性質が異なっている。共通しているのはすべて粘土を使用しているということだが、粘土は地球の長い営みが生み出したものである。焼き物に適した粘土を生み出したのは、今から数百万年前にできた東海湖と古琵琶湖(現在の三重県伊賀市のあたり)だといわれており、東海湖周辺には現在の瀬戸、美濃、三州、常滑、萬古といった窯がある。花崗岩の風化物が川によって東海湖に運ばれ、よりきめの細かい物は沖まで流され沈澱して粘土になった。古琵琶湖も同じである。こういった良質な粘土が取れる背景があり、これらの古い湖の近くで焼き物が生まれることとなる。私たちはこういった材料を使い続けているわけである。聞いたところによると、現在までかなりの量を採掘してきており、また、農業同様に後継者不足や土地の用途変更などから閉山したところも多く、今後は土の確保も大切になってくるという。そしてタイルは、粘土を焼成したものであるが、熱を加えることによって化学変化が起き、粘土とは別のものになる。これは縄文土器が現在でも当時のままのかたちで掘り出されることから、土には帰りにくいことが分かる。また、タイルは圧着される建材であるため、解体時に生捕りがし辛い。廃棄されたタイルは再生クラッシャーランとしてアスファルトの下に埋められ使われるか、シャモットにされて再度材料となり再びタイルに使用される。しかし、これらの技術は専門的なものであり、われわれには扱うことができない。土も有限である。商品にも愛着をもち大切に使っていくことはできないだろうか。私自身も大切にしているタイルがある。そのタイルはつくり手の顔が見えてくるような、同じ物がほかに存在しない個性が醸し出す存在感がある。タイルとは本来その可能性があり、それはこれからの住宅をかたちづくる大切な要素である。
もうひとつ大切なポイントがある。それは、タイルだけでなく建材の多くは商品として生産地から遠くまで運ばれて使用されるために「規格」が必要であることだ。この規格によって遠く離れた使い手が安心して商品を使用できるわけである。さらにJISでは細かく品質の評価方法が決められており、この基準から外れると商品にはならない。またつくり手独自の基準も存在する。「日本品質」という言葉もあるように、商品の安定感と精緻さの保証は、均質性が高い同じような風景がどこにでも立ち上がることも意味する。その背景には設計者や使用者が単にものを選択して使うだけにとどまる姿勢と、均質で精緻であることを前提にしている寛容度の低さがある。そして同時に、その原料やつくり手について思考が停止することに繋がる。それは、つくり手と使い手の顔と顔が見えず、その自然環境や社会関係が断ち切られる市場経済の上に乗っているために起きることともいえるのではないか。これからの社会には、長い時間をかけて自然がつくり出した資源に思いを巡らせ、つくり手が培ってきた財産といえる技術や知識を改めて共有していく必要があり、建築ではそれを設計者が担う必要がある。限りある資源の特性を活かし、つくり手が腕を存分に振るうことのできるフィールドを広げ、焼き物であるタイル1枚の個性からさまざまな表情(焼きむら)を理解することができれば世界がもっと広がるはずだ。

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公開日:2022年06月22日