穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第2回)

西沢大良(建築家、芝浦工業大学教授)× 木村吉成(建築家)

『新建築住宅特集』2018年3月号 掲載

生きることの豊かさのかたちを示す家/プーライエ 鯨井勇

「プーライエ」鯨井勇「プーライエ」鯨井勇(1973年、東京都東村山市) 撮影:宮本隆司

西沢:

私が選んだふたつ目は、鯨井勇さんの「プーライエ」の外観写真です。1973年の東京郊外のベッドタウンの自邸で、鯨井さんの卒業設計のセルフビルドです。右手奥に見えている向かいの家が、この辺りの典型的な住宅で、それと比べながら見てください。ひな壇造成地なので、土地購入時にはコンクリートの屋外階段がついていたわけですが、その階段の真上に建物が計画されています。建物の建つべき土地には畑を計画しています。鯨井さんは、食糧の一部を自給自足するような生活をしたかったようです。屋外階段と同じ大きさなので、建物は延べ16坪という小ささです。周りに建っているのは40?50坪の邸宅ばかりだから、住宅というより小屋のように見えます。「プーライエ」というのは「鶏小屋」という意味です。
竣工時の鯨井さんは23歳で、新婚でした。父親が「嫁をもらうなら家を用意するのは男の仕事だぞ」と、土地だけ買ってくれた。でも家をつくるお金がなく、大工さんひとりに指導をしてもらい、友人たちと1?2年かけて工事をしました。建設スキルが低くローコストだったから、建材はほぼ木材です。まるでバラックかバリケード小屋のような外観で、このベッドタウンでは異彩を放っています。左側の幅の広い木製扉は既存のガレージ部分で、右側の木製扉が玄関です。
手前に若い奥さんが立っています。その横の4人の子どもは兄弟姉妹ではないでしょう。衣服の単価が違うし、年も近すぎる。彼らは奥さんの絵画教室の生徒たちです。近所の子供を預かれば、ゲリラ小屋のように見えるこの家も近隣から警戒されなくなりますね。4人の衣服は高価なものもそうではないものもあり、いろいろな家庭の信頼も得ていることが分かります。
路上の角には、大きな鉢植えが見えます。坂道を曲がろうとする車に注意を促し、徐行させるための工夫です。玄関が道路からすぐにあるから、飛び出した子供が車に轢かれないための配慮です。毎朝奥さんがここに水やりに降りてくるので、近所の人たちと挨拶したりすることもできる。異彩を放ったこの住宅が、この地域で受け入れられたのは、この奥さんの実力もありそうです。

木村:

普通だとガレージになるところが、奥さんの絵画教室のスペースだったんですね。扉は20cmくらい隙間が空いているのはさすが学生のセルフビルドですね。しかしよくつくっていますね。

西沢:

そこは画材や食糧置き場として、納戸のように使っていたと聞きました。建物本体をよく見ると、開口部がいくつかあります。ガラスの入った開口と通風扉の開口の2種類です。前者は畑に面したダイニングにだけ大きく設けてあって、後者はひとりでいる場所にある。子供たちの頭上に見える通風扉は、その屋内に鯨井さん専用の小さな製図室があります。ダイニングの一画から梯子で降りる、コックピットのような製図室で、広さは1畳強です。最上階の通風扉の内側には寝室があります。屋内の活動は空気を入れ替えるし、光の調整もするので、それが通風扉の動きとして現れるようになっています。
私がこの写真を「穴の開くほど」見てしまうのは、この家には生業に関するものしかないからです。客室も応接室も廊下もなく、庭園も車庫もない。あるのは畑、食堂、作業場所(製図室、絵画教室)という、生きるために必要な場所だけです。このことは、住宅というものがどういう存在なのか、そしてどういう意味での財産なのかを、問いかけていると思います。
「プーライエ」は、普通とは違う意味での財産たろうとしています。もしこんな住宅を持っていたら、会社をリストラされてもそんなに怖くはないでしょう。お金がなくても畑の作物は成長するし、それを食べる場所もあるし、図面も絵画も描けるし、近所の子供もいる。この住宅さえあれば生きていくことができるという、一種のセーフティネットみたいな財産です。でも右隣に見える邸宅はどうでしょうか。こちらは30年程度の住宅ローンで建てた普通の不動産資産です。でもローンが残っている状況でリストラされたら、絶望のあまりおかしくなってしまうのではないでしょうか。この邸宅があるから生きていけないという話にならないでしょうか。鯨井さん自身は思想を語る人ではないですが、今日、住宅がどのような存在であるべきかという思想は、はっきり示されています。もし周りの住宅もそうした思想で設計されていたとしたら、郊外ベッドタウンの可能性は激変したと思います。

コンクリート造のワンルーム/「私の家」清家清

「私の家」清家清「私の家」清家清(1954年、東京都大田区) 撮影:牧直視

木村:

最後の写真となる僕が選んだ2枚目は、清家清さんの「私の家」です。西沢さんとこのテーマで対談するのに西沢さんが知りすぎてるこの住宅を選ぶのは勇気がいりましたが、あえて選びました(笑)。
この住宅は1954年に、東京の大田区に建てられた清家さんの自邸です。ワンルームで扉がなく、カーテンで寝室とリビングを仕切っています。入口を入るとすぐにリビングが広がっています。これは竣工から少し経った写真でしょう。竣工直後の写真と比べると、本棚の散らかり方が全然違います。きっと清家さんは、設計しながら、またくつろぎながら、本を出してはまた棚に戻すことを繰り返していたと想像できます。上の方の棚に車のおもちゃが置いてあります。子供が届く高さではないので、きっと自分のためのものなのでしょうね。右に見える開口部は腰高が750mmくらいあるのでしょうか。ここに清家さんが庭に向かって座って、図面を引いていたと想像すると、本棚の前に置かれたテーブルと椅子も、家族でくつろぐためのものではなく清家さんが座って、窓辺の机とここの2カ所を移動しながら仕事をしていたのではないかと思います。本棚の手前に見えるのが、有名な畳の移動家具ですね。茶の間としても、寝室としても使える。庭に出せばリビングが広がる。外を積極的に使っていく暮らしが見える。
開口に繋がるところには石が張られていて、間に芝が植えられている。夏は裸足でこの上に出ていたのでしょうか。東南アジアではコンクリートの土間が生活空間になっていますが、それと通じるのもこの写真にはある。

西沢:

この写真の左手には母屋があります。「私の家」はその庭先、戦時中に防空壕だった場所に建っている。清家さんの実父が「もう大きな家は億劫だから、年寄りのための小さな家を設計しておくれ」と頼んだ。お父さんはドイツで暮らしたことのある元技術者で、室内でも土足で暮らした経験があった。あのスタイルは楽だという話になり、でも寒いのは嫌だというので防空壕の跡を地下ボイラー室にして、その真上を室内から外まで靴のまま移動できるようにした。ところができあがった家はお父さんにとって衝撃的だったようで「ここには住めないよ」と言われ、新婚当時の清家さん夫妻が住むことになった。だからこの家は、本当は「私の家」ではなく、設計段階では「私の父の家」です(笑)。

木村:

1954年だとラジオの放送は始まっているし、もう少し経つとテレビも出てきますが、この写真の中にはスピーカーもレコードも映っていません。きっと夏の夜は窓を開け放して、おそろしく静かな中で家族で過ごしていたのではないかと思います。書斎に面する窓を下げるとすべて見えなくなるつくりは本当にかっこいい。

西沢:

この大きな窓は、電車の上げ下げ窓の機構を用いてつくったそうです。十数年後に変えてしまったんですけどね。初期の清家さんは構造計算から施工計画まで自分でやっていたこともあって、いろいろと実験的なことができたと思います。

自邸で示す建築家の実験的な試みと思想

LIXIL京都ショールームで行われた公開対談風景LIXIL京都ショールームで行われた公開対談風景。_撮影:「新建築住宅特集」編集部

西沢:

今回の4枚の写真は、偶然ですが建築家の自邸ばかりでした。どの住宅もやりたい放題やった実験住宅のようでいて、現代にも生かせる暮らしの実験、あるいは人生の実験という側面もあると思います。

木村:

時代もバラバラなので、それぞれの住宅の時代背景が見えてきました。1924年の「本野精吾自邸」の写真からは、社会の中の階級制が見える。現代に生きる私達にはなかなか実感しにくいけれど、1960年代あたりになるとイメージしやすくなる。今回、西沢さんが選んだ「川合健二自邸」は建築ではなくエンジニアのプロ、鯨井さんは建築家だけど「プーライエ」を建てた頃は学生だった。2枚の写真を穴の開くほど見て感じたのは、素人のつくる建築の凄みでした。

西沢:

4人とも結果として前例のない住宅をつくりましたが、共通しているのは、設計を始める前にみんな「困っていた」ということです。どうやって生きていくのか困っていた。農地の真ん中で、工業製品好きがどうやって生きていこうかだとか、父親が土地を買ってくれたけれども後は自分でやれと言われてどうするんだとか(笑)。参照できる先行例や解答例が見当たらず、知らずにクリエーションを始めていったという側面があると思います。だから、今後の暮らしの方向性を探るには、「設計者は困っている人のところに行くべきだ」と言いたいですね。現在、かつての生活様式に収まらない人びとが大勢出てきています。20代で結婚して30代で4人家族になって集合住宅や建売り住宅を購入してそこに生涯住むといった、従来のパターンに当てはまらない人たちのほうがどんどん多くなっているのに、住宅を供給する側は高度成長期の成功体験が大きすぎて、かつての価値観から抜け切っていないところがあると思います。従来の生活様式を押し付けるのでなく、「困っている」人間の問題を空間的に解決する試みが、もっと重視されてよいと思います。

木村:

川合さんの自邸の写真を見た時に、「幸福」の意味について深く考えさせされました。「自分らしい生活を送りたい」と誰しもが思っていてもここまで徹底することは現代でも難しい。写真には建築を構成する空間とか光といった主要な要素だけではなく、生活を営む上でのいろいろな雑なものが入り込んでくる。そこに行間があり、それを読み解くことでさまざまなものが見えてくる。その場に行って体験することとはまた別の深さや情報量が写真にはあります。これからは、社会の多数派が決める「一定水準の幸福」ではなく、何が幸福かを自分で決めて、それが住宅にも反映されるような状況が生まれてくるといいと思いますね。

(2018年1月16日、LIXIL京都ショールームにて 文責:「新建築住宅特集」編集部)

雑誌記事転載
『新建築住宅特集』2018年3月号 掲載
https://japan-architect.co.jp/shop/jutakutokushu/jt-201803/

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公開日:2018年12月27日