穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第7回)

吉村靖孝(建築家) × 長谷川豪(建築家)

『新建築住宅特集』2022年10月号 掲載

第7回 吉村靖孝(建築家)×長谷川豪(建築家)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、歴史的住宅の建築写真を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回はJT1802、第2回はJT1803、第3回はJT1808、第4回はJT1902、第5回はJT1908、第6回はJT2003)。1枚の写真から時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、読み取る側の想像も交えながら細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、未来に向けた建築のあり方を探ります。第7回目となる今回は、吉村靖孝氏と長谷川豪氏のおふたりにお話しいただきました。

  • ※文章中の(ex JT1603)は、雑誌名と年号(ex 新建築住宅特集2016年 3月号)を表しています。(SK)は新建築です。

長谷川:

建築メディアとの出会いから話すと、僕は1990年代後半に大学で建築を学び始めたのですが、当時はメールができるようになった程度でウェブメディアはまだほとんどなくて、建築の情報元は雑誌が中心でした。中でも影響力があったのは『El Croquis』で、写真家の鈴木久雄さんが撮影されたOMAやヘルツォーク&ド・ムーロンなどのモノグラフを何度も見返していました。みんな感化されて海外に建築旅行に行って、吉村さんのようにヨーロッパの設計事務所で働き始める人もいた。そんな時代でした。また国内では、僕の師匠である塚本由晴さんや西沢大良さんなどひとつ上の世代の建築家が住宅をつくり始めた頃で、『JA』や『新建築住宅特集』の最新号がとにかく楽しみで、発売日前日の夕方に店頭に並ぶ本屋があるという噂を聞いて、走ったりした(笑)。誰よりも先に知りたくて、みんな競い合って情報を仕入れていました。あと当時の塚本研究室ではお茶の時間というのがありました。15時にコーヒーを入れてみんな集まって、テーブルに置いてある雑誌の最新号をネタに議論するのですが、自分の発言をきっかけに議論が花開いていくと、とてもいい気分でした。そんな環境にも鍛えられたと思います。

吉村:

僕は穴が開くように掘り下げて見るというよりは、広く浅く雑誌を見ていた学生時代でした。1991年に大学に入学したので、『新建築』や『新建築住宅特集』以外にも日本の建築雑誌がたくさんあって、『都市住宅』はもうなかったけど、『SD』や『建築文化』、『GA JAPAN』など、雑誌華やかりし時代に学生時代を送っていて、新しい号を順にチェックしているともう次の号が出てしまうという感じでしたね。それに比べると今は日本語で読める雑誌の選択肢が少なく、学生もネット以外の情報に触れていない。だから吉村研究室では『新建築住宅特集』を読んで議論するゼミを毎月行っています。その延長で雑誌そのものを研究対象にする学生もいて、たとえば「魅せる収納」「白い仕上げ」など、あるひとつの切り口で時代を遡って定量的な変化を追うような論文を書いたりしています。また個人的には、2005年くらいから、趣味で建築写真を撮るようになったので、建築家の視点で写真を見ていくだけではなくて、それを撮った写真家やそれを選んで1冊をつくり上げた編集者が何を考えたのかという点にも注目するようになって、少し見方が変わった気がしています。

「谷川さんの家」 篠原一男

「谷川さんの家」 篠原一男「谷川さんの家」 篠原一男(1958年、東京都杉並区) 撮影:佐伯義勝

長谷川:

まず篠原一男による、詩人・谷川俊太郎の家(SK5812)。この写真の右に見える父親で哲学者の谷川徹三の家の庭先に、谷川さんがふたり目の奥さんとの結婚を期に家を建てることになったんですね。これは谷川さん本人から以前聞いた話なのですが、父親を通して、最初は清家清さんにこの家の設計依頼をしたそうです。でも清家さんが忙しくて教え子の篠原さんを紹介してもらうことになった。篠原さんは「久我山の家」(SK5411)を経てこれが2作目ですから、まだ駆け出しの建築家です。でも結果的に谷川さんは18年後、北軽井沢の別荘である「谷川さんの住宅」(SK7701)を再び篠原さんに設計依頼することになります。建築家が2回同じ建主の家を設計するというのは稀有なことですが、篠原さんはこの谷川俊太郎ともうひとり、写真家の大辻清司の家もふたつ完成させていて、それが「土間の家」(SK6404)と、今回吉村さんが選んだ「上原通りの住宅」ですね。ふたりの建主によるこれら4つの住宅はどれも、篠原建築の中でも特に高く評価されている作品ですから、建築家と建主の関係性の重要さを改めて感じます。
さてこの家は、篠原さんが「コア」と呼ぶ正面の棟がワンルームの居室で、手前と奥を建具で仕切ってそれぞれ南の室・北の室としている。さらに左端に見える水回りの棟を「ユニット」と呼んでいて、それらを小さな橋で渡している構成です。北の室のベッドの横には化粧台が、南の室には書斎があります。書斎のサイドテーブルに1冊だけ厚い本が置いてあって、目を凝らすと広辞苑の文字が見えます。広辞苑の初版は 1955年に刊行されているから、おそらくこれは初版本ですね。すでに谷川さんは詩人として仕事をしていましたが、目覚ましい活躍は1960年代に入ってから。日本を代表する詩人に駆け上がる作品が、この南の室で次々に編まれていったと思うと、また違う見え方がしてきます。女優だったという奥さんが北の室の化粧台で身支度して仕事に出た後に、谷川さんの思索の時間が始まったのかなあと想像します。
さてこの写真からも分かる通り、コアとユニットの基礎は独立しています。後に篠原さんは「民家はキノコである」(『住宅建築』 、1964年、紀伊国屋新書)といい、伝統を主題にした第1の様式では「から傘の家」(SK6210)や「白の家」(SK6707)など正方形平面に方形屋根を載せた、いわば美しいキノコをつくるわけですが、それに対してこの家は、切妻屋根と片流れ屋根のふたつの家から成り立っていて、まるでふたつのキノコが肩を寄せ合っているように見える。『新建築』の誌面にわざわざ基礎伏せ図を載せていることからも、篠原さんがキノコの根をふたつに分けることに拘っていたのは明らかです。
この写真の最大の謎は「なぜ篠原さんは外構工事中の写真を撮らせたのか」です。写真の手前にこれから外構に使われるであろう大谷石が無造作に置かれていて、なんと左側に墨出しまで見える。これを撮影している写真家の背後に庭師を待たせていたのではないかとすら思わせる、緊迫感ある工事中の写真です。数十年後の作品集(『篠原一男』 、1996年、TOTO出版)にこの外観写真が使われているのですが、外構工事後にも撮影できたはずだし、実際に『新建築』の発表誌面に載っている、後日撮ったであろう内観写真には大谷石が敷かれた庭が写っているんです。つまり、意図的に外構工事中のこの外観写真を選んでいるわけですが、あれほど自分の建築写真や発表誌面にこだわった篠原さんがなぜ?と思いませんか。それは、この家の基礎が関係あるのではないかというのが僕の推測です。おそらく篠原さんにとって、民家=キノコは大地に根を張るべきで、大谷石のうえに生えるキノコを撮るなどあり得なかったのではないか。右側の父の家を改めて見ると、基礎部分が大谷石で仕上げられています。もしかしたら、息子の家が完成したので庭を整備しようと父親がお抱えの庭師に頼んでしまい、外構工事が始まると聞いて篠原さんは慌ててこの写真を撮ってもらったのかもしれない。まあ経緯は分かりませんが、実は「から傘の家」も、手前の地面に足場板が無造作に並んだ状態の外観写真が使われているんですよ。少なくとも篠原さんが当時、「表しの大地」に執着していたのは間違いなさそうです。

吉村:

この写真の下方をトリミングしないで掲載したということは、できるだけ地面も写るようにしたわけですね。おそらくこの写真を撮った季節は冬。冬の低い光が南の室を抜け、北の室まで届いて明るい。篠原さんはこの明るい居室部分を住まいの「コア」と表現しました。一般的にコアと呼ばれるものは水回りなど閉じられた場所だけど、ここでは透明感がありますね。そして南の室の丸い足の家具は、吉村順三のところで修行して家具を担当していた松村勝男のデザインです。華奢な丸太の構造と相まって、全体を明るくやさしい雰囲気にしていると思います。

長谷川:

そうですね。右側の堅牢な哲学者の家と対比的に、この家はとても大らかでやさしい、まさに詩人の家です。緊張感ある篠原さんの一連の作品の中でもちょっと異質ともいえるこの大らかさとやさしさは、僕は「土間の家」にもあると思っていて、最初の話に戻りますが、谷川さんと大辻さんというふたりの建主が建築家に与えた影響の大きさを感じます。

「上原通りの住宅」 篠原一男

「上原通りの住宅」 篠原一男「上原通りの住宅」 篠原一男(1976年、東京都渋谷区) 撮影:新建築社写真部

吉村:

僕が選んだ写真は、1972年と1976年の住宅です。僕は1972年生まれ、長谷川さんは1977年生まれ。長谷川さんとは1年ずれてしまったけど概ね僕たちが生まれた年の作品を探してみました。まず、篠原一男の代表作である「上原通りの住宅」(SK7701)の引きの外観写真です。これは『日本の家』(本誌別冊1708)に載っているノートリミングの横位置写真ですが、初出の『新建築』ではこの写真の左をコカコーラの看板まで、右を駐車場のフェンスまで大胆にトリミングしたものを縦位置写真として使っています。当時篠原さんは、発表誌面の写真のアングル、トリミング、レイアウトまで細かく指示をしていたと聞いていますから、この写真はその篠原さんが切った部分が分かるという意味でも興味深いです。しかもこの写真は、同じアングルで通行人が違うパターンを35mmのフィルムで100枚近く撮っていて、それが新建築社に残っていると聞きました。どうしてふたりの着物の女性が、この角度で歩いている写真を選んだのか。穴が開くほど見て想像しました。
まず、写真の手前を左右に横切っている通りが、上原中通り商店街。女性の影の様子から考えて13?14時くらいに撮った写真でしょう。まず篠原さんがカットしたのは、右の2台の車ですよね。車を調べてみたら、奥がトヨタの「ダルマセリカ」と呼ばれた車種で1976年発売モデル。フォード・マスタングのフルチョイスシステムに影響を受け発売されたといわれています。そして手前は1973年の日産のダットサン・ブルーバードU、通称「サメブル」で、こちらはポンティアックに似ている。いずれもアメ車に深く影響を受けつくられた日本車で、当時はピカピカの新車です。そして左半分を切られることになるコカコーラの看板も当時としては新しいし、その下のCHESTAと書かれた看板は1970?79年に市場に出回った飲料の看板でこれもカット。着物の女性ふたりをあえて選んだ篠原さんは、昔ながらの日本の商店街に、「上原通りの住宅」の抽象的で未来的なデザインを対比させたかったがゆえに、作品以外の新しい情報、もしくは西洋を連想させる情報を消し去りたかったのではないかと想像しました。

長谷川:

先ほどの初期の住宅はいわば敷地の中で建築をつくっていたのに対して、篠原さんの関心が都市の建築に移行していることがよく分かります。この直後に「上原曲がり道の住宅」(SK7810)をつくりますが、いずれも作品名に「通り」や「道」が入っている。膨大な写真の中から女性が2方向から歩いてくるこの写真を選んだのも、ふたつの通りへの意識の表れです。しかもひとりは主役の建築の足元を隠しているにも関わらず、です。この住宅は当時も今も向かいが空き地で、夕方前の時間帯になると南西面のガチャピンの顔のようなファサードにこのように光が当たる。雑多で周りの情報量が多い写真なのに、この建築が主役だと分かるよい写真ですね。あるいは逆に、幾何学形態によるこれだけユニークな住宅でありながら都市に埋もれているという二重性、そのギリギリのバランスが篠原さんにとって重要で、だからあえて情報量の多い写真を撮ってからトリミングで微調整するという高度な技で誌面をつくったともいえます。

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公開日:2022年11月28日