社会と住まいを考える(海外) 2
ベトナム、チャウドック・ロンカイン・ダラット──他律的な、環境としての住まい
西澤俊理(建築家、NISHIZAWAARCHITECTS)
はじめに
事務所では現在3件の郊外住宅のプロジェクトが進行中である。それぞれの周辺環境はまったく異なるが、どの敷地にも「近代主義が思い描いた普遍的な未来」への希求とも違い、またそれに対置されるような「発展を拒否する土着文化」への郷愁とも異なる、リアルで合理的かつ人間的な瑞々しさが溢れている。これらの設計に際し、地域の人々の現在の生活を詳細に観察してきた経験を踏まえ、ベトナム郊外の将来の社会や住まいのあり方について考えてみたい。
アンザン省チャウドックの住まい
チベット高原に源流を持ち6カ国に悠然とまたがるメコン河は、プノンペンでバサック河が分岐し、メコンデルタに到達するとティエンザン(前江)とハウザン(後江)となって合流と分岐を繰り返しながらやがて9本の支流となり、約4,200キロを渡って南シナ海へと注ぐ。現在ベトナム随一の穀倉地帯であるメコンデルタは、もともとはクメール人の土地であったが、19世紀初頭にタイとフランスの支援を受け、清を宗主国とする阮朝が統一した越南国の一部となる。19世紀中頃からはコーチシナ植民地やフランス領インドシナとしてフランスが、20世紀半ばからはベトナム共和国(南ベトナム)としてアメリカが大規模な運河や耕作地の開発を行い、複数の水路が交わる重要な結節点には、現在の州都となっているような都市がそれぞれ6時間の水上移動距離を保って配置された。フランス・アメリカ両国によって構想された居住形式は、盛土を前提とした地床式住居であったが、ベトナム戦争終結にともなってベトナム人の手に戻ると、これら大小さまざまな河川や堤防、運河や用水路といった構造物を呑み込むように、無数に張り巡らされた水陸のあらゆる境界線上に、ありあわせの道具や最小限の建設資材で作られた薄皮一枚分の高床式住居がネットワーク状にスプロールしていく。★1
住宅の敷地であるチャウドックはバサック川のほとりに発達した、カンボジアとの国境に位置する街で、広大なメコンデルタの中でも最上流域にある。より下流域が自然堤防化して微高地を形成するために水が滞留しやすく、メコンデルタの中でも洪水の再頻発地域として知られる。毎年雨季の数カ月間は浮水(10〜20年に一度の災害としての洪水と区別して、浮水と呼ばれる)が国境を越えて辺り一帯に溢れ出すから、水の挙動こそが、街や住居の構造を決定する一番の要因である。つまり、ここでの日常生活のすべては、自然が支配し、季節ごとに様相を変え揺れ動く「地表」と、人々が夢にまで見た不動の大地を代弁する「高床」という2面の「地盤」に収束すると言っても過言ではない。
まず「地表」では、浮水だけでなく、家畜や死者といった、近代的な都市計画から排除されるような他者たちが人々と共存している。この他者たちは物理的な敷地境界を自由に越境する存在なので、自ずと集落規模の共同体が生成され、実際に近隣の人々が集ってお茶を楽しむ光景がよく見られる。一方で「高床」では、記録を基に予測される洪水の限界水位が共有され、街の骨格的基盤である堤防と、そこから無数に伸びる桟橋、さらにそれぞれの桟橋には、コンクリート製の群杭上に仮設的に固定された木造舟のような家屋が複数接続することで構成される。なおこの地域の家屋は、蒸暑気候のわりに壁面の開口が小さい印象を受けるが、それは、家屋の床板材がそれぞれ7mm程度の目透かしを取られていて、床全体が、換気や採光だけでなく、なにより「高床」から「地表」を眺める大きな窓として機能しているからだ。また大地への憧憬が詰まった、多数の植木鉢がつくり出すランドスケープは、2つの「地盤」や、公・共・私の領域を横断するように広く分布して、固有の生活風景をつくり出している。
ただし近年、コメの三期作化を目的として輪中化が加速した結果、多くの地域で「地表」から浮水が消失するという景観史上の転換点を迎えている。依然として「高床」という構造の重要性は失われていないのだが、それでも人々の生活が周辺環境に対して持っていたさまざまな意味や関係性が分断されつつあり、それらを改めて繋ぎなおすことが求められている。
ドンナイ省ロンカインの住まい
ロンカインは、新第三紀から第四紀にかけて火山活動が盛んだったエリアに位置し、地表には何百年も前に火山から噴き出した多孔質な岩石が露出しており、それらが風化することによってできた肥沃な土壌が、ゴムや胡椒といった作物に最適な街だ。街の歴史は、商業目的のゴムのプランテーションとその労働者の居住のための街をフランスが新設したことに由来するが、その後アメリカが、サイゴンへと通じる国防上の要衝として街の開発を引き継いだ。ベトナム独立後は、地元の人々がプランテーションの経験を活かして胡椒樹林や果樹林を開拓し、それがこの地域の景観的基盤になっているのだが、フランス時代の大規模で整然と並ぶゴム樹林の景観とは、少し様相が異なっている。
人工林を造成する際、当然効率を考えてグリッド状に植林し始めるのだが、地下に不規則に埋没している岩石のせいで、そう簡単には事は進まない。農園の端のほうを観察すると、はじめの数本はグリッド状に並んでいるものの、早々に諦めて農園のほとんどがランダムな自然林のようになっている。とはいえ、ここの景観を構成するルールはシンプルだ。まず高さ8〜9m程度の胡椒の株(胡椒は蔓性植物なので、支木になるのは別種の樹木)が、胡椒の生育に最適な日照が得られる間隔を空けて一帯を埋め尽くす。約5,000m²程度である1世帯分の胡椒樹林のほぼ中央あたりには、胡椒の乾燥作業用に中庭が唐突に穿たれ、乾燥した赤土が露出している。中庭の背後には必ずそれと対をなすように農作業小屋が控え、炎暑下での重労働の途中で休憩をとったり、機械や肥料を保管しておくための場所に供される。地上に転っている岩石は農作業の邪魔になるので、一定の面積ごとに1カ所に集められて高さ2mほどの逆円錐状の岩塔になったり、農園同士や農道との境界面の岩垣に再利用されている。重機ではなく人力で切り開かれた景観なので、岩塔の間隔や高さにしろ、岩垣で出来た農道の道幅や蛇行したその形状にしろ、人間のスケール感覚が反映されたこれらの要素が地域全体に広く分布していることが、ロンカイン独特の景観に深く寄与している。
ただし近年、胡椒の価格が下落した為に、採算性の高いドリアンやジャックフルーツ、ランブータンなどの果樹への投機的な変更が余儀なくされているほか、政府主導の大規模農地開発もすぐ近くまで迫ってきている。私たちの施主の場合は、農園の裏側半分を使って、彼の生来の趣味であり、かつホテル等に販売するための数種類のヘリコニアの生花栽培を計画しており、新設する農作業小屋には、周囲をとりまく既存の文脈に属する胡椒樹林やそこに穿たれた赤い中庭、および新しい文脈である緑豊かなヘリコニアの裏庭の両者を接続する役割が求められている。
ラムドン省ダラットの住まい
ダラットはベトナム中南部Lâm Đồng省の省都で、海抜1,500mのLâm Viên高原に位置し、年間平均気温は19℃ほどである。Lâm Viên高原はもともと少数民族のCơ Ho族が居住する地であったが、18世紀からインドシナへの介入をはじめ、19世紀半ばからは中部高原地域に対する政治的・経済的な関心を抱いていたフランスによって1893年に「発見」されたことが、植民地高原都市としての萌芽である。1916年にはフランス領インドシナ総督であったErnest Nestor Roumeによって観光開発を行うことが公的に決定され、その後も仏領インドシナ連邦の将来の首都にすべく、グランドホテルや人工湖、鉄道や道路、病院や教育機関、教会などの近代的な都市計画が次々に整備されていった。ただし植民地状況下で観光が成立するのは、植民地統治の正当性確保という政治的意図が前提になっているのは言うまでもない。同様に郊外でも、フランスが茶やコーヒーの大規模なプランテーションを開発し、一部ではアーティーチョークなどの西欧野菜の栽培も行われていたようだ。また都市部を超えた、郊外の複数の街や村を横断した広々域で、松林の景観整備も進められ、多様な植生を保有していた原生林から松以外の樹種をすべて駆逐し、さらに冬季には毎年野焼きを行って松林のみを保全する制度がつくられ、現在まで延々と引き継がれている。このような複雑で野心的な文脈のなかでつくり上げられた人工的な景観は、100年あまりの間に環境的にも制度的にもひとつの平衡状態に達しており、現在ではある種の自然性すら感じ取ることができる。
ベトナム戦争終結後、ダラットがようやくベトナム人の手に戻った後も、やはり観光業と農業が主要産業として地域経済を支えているが、近年オランダ製やイスラエル製のビニルハウスがより一層のグローバリズムに乗って広範に普及することで、既存の景観の上に、新しいレイヤーが付加されつつある。ダラット特有の強い雨風から作物を保護することと、電照時間の調整により販売時期を細かく制御することがその主目的だ。起伏に富んだ小山の連なる丘陵をビニルハウスがへばりつくように覆い尽くし、夜間には電照が灯って、その半透明の薄い皮膜の奥にはうっすらと花畑がにじむ。実際にビニルハウス群の中を歩いてみると、ビニルハウスと近似したスケールの生産農家の住居がぽつぽつと紛れ込んでおり、近接したビニルハウス内には団らん用のテーブルや椅子、洗濯物などの日用品があちらこちらに散らばっている(そもそもベトナム語には、農園と庭という言葉に区別がないらしい)。低層高密度の街並みのようでもあり、広大な産業構造物のようでもあり、はたまたランドスケープのパッチワークのようでもある、魅力的ともやや不気味とも言えるような不思議な光景が、上記の歴史的文脈と共存するのが現在のダラットの姿である。
考察
3つの敷地を俯瞰して眺めると、それぞれ様相は異なるものの共通点も多い。まず第一に、19世紀から20世紀初頭にかけての植民地化に伴い、政治・経済・軍事・宗教などが絡み合った複雑な思惑のなかで、暮らしや景観の改変をすでに経験していること(現代的な状況である地球規模での資本主義も強力ではあるが、ベトナム人が持つ耐性もそこまでナイーブではないのではないか)。第二に、脱植民地化から現在に至る過程で、それまでに構築されてきた事物や構造をいったん解体したうえで、彼らの実用にあった道具として唯物的に繋ぎなおし、それらが織りなす関係性を重層することで、独自の暮らしや景観を再構築してきたこと(その背景には技術力や資金力の欠乏という側面もあろうが、それに加えて、観念的な主体による大規模で一方的な既存環境への介入に対する、彼らの身体感覚的・美意識的な嫌悪感が作用したと思えてならない)。そして第三に、そのようにつくられてきた風土の中に美的感覚を読み取る新しい世代が、着実に再生産されつつあることが挙げられる(どのプロジェクトも、それぞれの地域で生まれ育った30代のベトナム人が、人為が大きく関与してきた既存環境の中になんらかの自然性や庭性を読み取ったうえで設計を依頼してきた)。
こういった状況から導かれるのは、環境それ自体とそこに暮らす人々の、双方の「内側」に刻み込まれた身体感覚や美意識によって、たとえ表層的な様相が大きく変化しようとも、それらの相対化と再構築による「環境の身体化」という現象は、今後も繰り返し再現されていくだろうという推論である。そしてその先にあるのは、俯瞰的な視点から一意的に与えられた理想の「未来」への秩序ではなく、個々の事象が示す具体的な要請と人々の身体の必然に沿ったリアルな「現在」の秩序であり、近代がその外側へと追い出してきた他者や固有の文脈をも併せ呑みつつ、それら一つひとつが紡ぐさまざまな意味や関係性が、制度や領域を超え、他律的に生き生きと共鳴し帰属しあう、「環境としてのすまい像」である。
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公開日:2020年09月30日