社会と住まいを考える(国内)31

ハイサイ! ハイザイ!

岡戸大和(kapok Inc.)

沖縄に移り住んで、見よう見まねで大工作業をはじめ、リノベーションに特化した活動している。資材の重さも単価も知らなくても、設計はできた。それでも、次世代の棟梁になりたくて、三代目大宜味大工として、日々身近な素材を使い、あらゆる人の力を借りながら、日々建築をしている。

「沖縄があなたを呼んでいます!」

今から15年前に調子良い電話をかけてきたのが、私の師匠である渡久地克子であった。たまたま沖縄に滞在していたときに知り合った克子さんは小生意気な私の話をよく聞いてくださり、横浜へ戻ってからもときどき電話をくださった。久しぶりのその甲高い声に、東京のど真ん中にいた私は、なぜか心が動き、数カ月後に沖縄へ向かう。

あの電話の半年前に克子さんは旦那さんを亡くしていた。その旦那さんが大事に飼っていた犬を私に預け、1年間放ったらかしだったことは、本当の話である。てーげー(いい加減)にも程があるのだが、その状況を面白がった私がいた。

そもそも、克子さんが沖縄の重鎮と知らず、だった。
沖縄の女性で初めて一級建築士になり、沖縄コンベンションセンターの現場をはじめ、県内の主要な建築現場に携わってきた。歳の話をするのは大変失礼なのだが、おそらく日本で最もご年配の現役女性現場監督である。そして、克子さんの父は今も残っている沖縄で初めての鉄筋コンクリート造の建物、旧大宜味村庁舎をつくった大宜味大工の金城賢勇だった。

克子さんから賢勇さんの話を聞き、『大宜味大工一代記』(1988)を読んで衝撃を受けた。

初めてのRC造をどのようにつくったのか。セメントと鉄以外は地元で調達。海砂を川で洗って塩分を取り、コンクリートを手練して、竹竿を持って一列に並び打設し、女性や子どもは炊き出しをして、村民全員でつくった。

「人材を以って資源と成す」
100年前に、旧庁舎の石碑そのままの先輩たちが大宜味におり、その中心が棟梁の賢勇さんだった。

身近な材料や人とともに、新たな挑戦に挑む姿勢に憧れて、私は勝手に三代目大宜味大工を継承し、大工をはじめた。

大工をやったことはなかったが、図面は描けるので、内装の設計施工の仕事をもらった。初めから精度良くつくることはできなかったことが、三代目として好都合だったかもしれない。

当然初心者にお願いする仕事には十分な予算があるわけでもなく、それこそ、解体現場からもらってきたものを材と見立てた。廃材だからという理由で、ちょっとした隙間や凸凹は「味」として理解してもらった。

設計通りの材を調達するのではなく、すでに目の前にあるモノを材と見なし、空間に当てはめるように、ある意味で運命づけながら、物語を紡ぐように空間をつくるスタイルがいつしかできてきた。そして、強引にでも施主や関係者、ときには近所や通行人にも声かけて、一緒にみんなでつくるスタンスを貫きはじめた。

もういわゆる普通の建築フローではないのだけれど、計画だけは明確にしていて、ただ仕様は決めずに現場をスタートさせる。毎度絶妙なタイミングで、必ず材が目の前に現れる。

「旬の廃材が獲れました! これ使いますね!」

そう言われて断る施主はほとんどいない。
最近は、待っていました! と言われることが最高にうれしい。

あるとき、北中城村で米軍住宅を和菓子屋に改装した★1。最後の最後で、什器で悩んだ。そのときちょうど、沖縄市の商店街で、祖父の商店を片づけており、そこから出た什器を活用したいという若者から連絡があった。10数年ぶりにその商店のシャッターを開けたら、目の前にボロボロの棚があり、すぐに閃いて、和菓子屋の店主を呼んだ。ドンピシャだった。ほんの少しリペアをして、4キロ離れたお店へ継いだ。

写真はすべて筆者提供

あるときに、沖縄市で住居を小さなレストランに改修していた★2。そのときちょうど、名護市や沖縄市でも工事をしていたので、あらゆる現場で解体した材を床、壁、天井に張り、ほとんど廃材でおさめた。一番遠くの材は43キロ先から移ってきた。

あるとき、豊見城市で倉庫を洋菓子店に改装した★3。計画はバッチリだったが、メインの壁が決まらなかった。そのときちょうど、沖縄市の住宅改修をしていた。住宅の施主は牧師さんで、今度築60年の教会を老朽化で壊すことを教えてくださった。調子良く、引越手伝います! と宣言して、下見で教会に行くと、間仕切建具が、洋菓子店の壁にしか見えなかった。飴色の艶がかった高さ2.8メートルの見事な扉は、25キロ離れた洋菓子店の幅12メートルの壁になった。

さらに、豊見城市の洋菓子店と並行して、沖縄市で喫茶店を改修していた★4。メインのカウンターは同じ教会の間仕切建具を加工して製作した。教会から喫茶店までは1キロもなかった。教会の建具を一切余すことなく、洋菓子店と喫茶店でピッタリに用いられたことを、教会の皆さんに伝えたら、ハレルヤ! と大喜びしてくださった。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(「伝道の書」3章11節)

そして、その沖縄市の喫茶店とほぼ同時期に、沖縄市で珈琲屋の改修をしていた★5。焙煎室にFIXガラスを計画していたが、喫茶店にまさにちょうどのガラスがあり、900メートル先の焙煎室の窓になった。

あるとき、読谷の「やちむんの里」(やむちん=焼き物)でギャラリー兼カフェ兼住宅の新築を設計施工した★6。基礎工事であまりにも綺麗な赤土が出てきたので、施主である陶芸家の親方に提案して、赤土をタイルにしてもらった。材はすぐ近くの登り窯で焼かれたが、採取された場所に戻りギャラリーの土間に張られた。

あるとき、沖縄市で住居を県外企業の沖縄オフィスに改装した★7。畳下地の五分板を解体して壁に貼り、既存床は綺麗に剥がして、900ミリ幅にカットして、小上がりの上にヘリンボーンで張った。生活の汚れや沖縄の日差しで焼けて、均質でなかった既存の材が、再構成で懐かしくも新しい表情をつくった。そのときちょうど、国頭村の古民家改修★8もしており、外壁の見事ないぶし銀色に輝いていた杉板を沖縄市にもってきては、ウェルカムカウンターに張った。それは65キロを旅する材だった。

あるとき、北谷の住宅を店舗へと改修していた★9。そのときちょうど、大宜味村の築90年の古民家の改修工事もしていた。床根太はとても丈夫で美しかったので、北谷の天井に堀天井をつくり、根太を化粧梁として表に出した。こんな日が来るとは材も思わなかっただろう。大宜味村で解体手伝ってもらった地元の工務店も、嫌な顔をしながらも50キロの道のりを、根太を担いで来てくださった。梁を見て納得し、古民家改修の現場もより良い工事ができた。

地元にあるもの、身近なものを、材として積極的に用いること。一代目の精神を学び、実践してみたときに、建築の醍醐味がそこにはあるように感じる。

なんとなく、私たちがつくる建築は、沖縄らしさがあると言ってもらえるが、すでにずっと沖縄にあるモノでつくっているのだから、そりゃそうだと思うし、そんなどこから持ってきたかわからないような材を面白がって受け入れてくれる寛容さが、この島そのままだと言いたい。

どのお店も来店したお客さんたちに、よく内装のこと、とくに材について聞かれることが多いらしい。もれなく、旬の廃材でつくってもらったと話す。建築同士が材をあげた、もらったとか兄弟みたいな関係だったりして、それを期待し私たちに依頼がくる。その建築に見合った材が必ず出てくるというか、すでに準備されていると確信しているので、今日もマテリアルハントに挑みたい。材があったぞ! と笑顔で声をあげることが、棟梁の役目だと考える。

すでに準備されているのだから、「沖縄があなたを呼んでいます!」という誘い文句も、てーげーではなかったかもしれない。



本稿で紹介したプロジェクト一覧

★1──羊羊 YOYO AN FACTORY
★2──Areko
★3──うんてん洋菓子店
★4──珈琲ロマン
★5──AMBER HOLIC.
★6──CLAY Coffee & Gallery
★7──X-BORDER KOZA
★8──やんばるホテル南溟森室
★9──ゑんぴつ堂



岡戸大和(おかど・やまと)

1980年横浜市生まれ。明治大学理工学部建築学科卒業後、2008年より沖縄移住沖縄在住。 大宜味大工三代目。株式会社kapok代表取締役。株式会社コザ総動舎代表。まちづくりから建築の企画、設計、施工、大工、教育までマルチな活動を展開。「星屑工務店」や「窓際商店」などさまざまなプロジェクトを沖縄で実践している。

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公開日:2023年03月23日