社会と住まいを考える(国内)25

ルール紀行──環境のたゆたいに目を留めて

成原隆訓(京都大学大学院教育支援機構奨励研究員)

──かつての鋳造ホールに据え置かれた壮大なスクリーンが映画の始まりを待っている。40年前に動きを止めた製鉄所は、鉄塊としてそこにとどまり、風雨にさらされ、今日もまた絶えず移り変わる陽の光を受け止めている。日が沈みかけた午後8時、ゆっくりと光を鈍らせる錆びた表面に反して、スクリーンはその明るさを増していく。100年以上に渡りそこに存在する鉄骨に覆われた屋外で、刻々と変化する時間を味わいながら劇の始まりを待つことの大いなる豊かさに心は震えた──

──ここには今も炭鉱で働いていた人々の生活が続いている。2階建て、1棟4世帯のレンガ住宅が、間に小さな庭を挟みながら通りにそって規則正しく並んでいく。庭の横道を入って裏側に回ると、レンガで作られた倉庫との間の幅5メートルほどの裏道で、子どもたちがビニールプールを広げ、日差しの中できらめいている。大人たちもゆったりと椅子に座りそれを眺めている。子どもたちがやってきて話しかけてくれた。ひとりは青い目をした金髪の、もうひとりは黒い髪の少年。ふと住宅の妻面に目を移すと、その2倍ほどの高さの木がゆったりと揺れ、木の葉の振動が影となってレンガの凹凸に降り注ぎ、私の目に乱反射するようにして届いた。レンガ壁は100年以上の時のなかで思い思いに身を磨り減らし、それぞれに光を投げ返す──

──どれほど登っただろうか。ふもとから見えた頂上の彫刻はまだ見えてこない。道には砂利が敷いてあり、水が降りてくる斜面の側に深い溝が設けられ石が据えられている。林に囲まれた道の先に突然光が差すのが目に入る。誘われるように近づくと、右手に周辺のパノラマが一気に開いた。これまで登ったボタ山や、かつて訪れた工場の煙突が遠くに見え、今いる場所を含めた配置がはっきりと頭に描き出される。
頂上に着くと、ぽつりぽつりと人影があり、沈む夕日をタバコ片手に見つめている。午後8時、自分の影が隣の山にまで届くほどに長くなり、暗くなる前に降りようと帰路に着くと、地元の人々が椅子と飲み物を携え登っていくのに出くわす。もう暗くなるというのに彼らは何を見ようというのか。しばらくして私は、その日の少し後を境に、彫刻を照らす光が打ち切られたことを知った──

生活のシークエンス──ルール地方の現在的風景

私は今、ドイツ西部のルール地方で、炭鉱・製鉄産業遺産の活用事例調査のため、半年間アーヘン工科大学に機会を頂き滞在している。ルール地方は南北に20キロ、東西に70キロメートルの広がりを持ち、西からデュイスブルク、エッセン、ボーフム、そしてドルトムントと5〜60万人規模の都市が、ルール川沿いに20キロメートル間隔で連続する東西に長い平坦な地勢を持つ。

地域での製鉄は18世紀終わりから開始され、以前から行われていた採炭が加速、二度の大戦を経たあとも拡大を続け、1959年の石炭危機以降急激な産業変化を経験した。その後、採炭はボーフム近郊においてごく最近の2018年まで行われ、製鉄は医療用など高度なステンレス鋼の生産がライン川沿いの工場で今も続けられている。

とはいえ、地域の基幹産業は激変した。1970年代ごろから徐々に生産停止・施設解体が行われるようになり、各地に炭鉱施設や製鉄所跡が残されていく。こうした状況を受け、ルール中央を東西に流れる工業排水河川エムシャー川を軸にして、流域の産業遺産を地元住民の利用できる公園などへと連続性を持って再整備する国際建築展、IBAエムシャーパーク★1が1989年から10年をかけて実施された。冒頭の体験はこのプロジェクトが完了した際に設けられた一筆書きの観光ルート、産業文化の道(Route Industriekultur)のうち、鉱炉跡を利用した屋外映画館のある公園、レンガ造の労働者住宅群、そして石炭採掘の副産物であるボタ山という、数ある通過点を代表する3種の場所でのひと時の記憶の連想である。

IBAが1998年に終えられてから20年が過ぎ、当初目指されていた地域の変革はなされたのか。石炭によって成り立っていたこの地域は文字通り「脱炭素」に向け、自然エネルギーを核に次世代の産業を推進するためのさまざまな取り組みが先んじて行われた。そうした先進的取り組みは今や地域に深く馴染み、生活の一部となっている。

かつて巨大な工場が煙を吐いて躍動し鉄道がその間を目まぐるしく走っていた、鉄と砂で覆われた殺伐とした敷地は、今や多くの緑に覆われ自転車や人々が行き交う公園となり、週末には多くの地元住民が市場を開き、映画を観にくる気楽な場所として認知されている。
私企業が敷設したために下水すら整備されていなかった住居群も、現在は周辺地域の再開発を伴いながら内装・設備の更新がなされ、狭いながらも現代的な生活に調整された。地域によっては雨水を地下水へと導く先進的な庭が整備されるなど、世代を超え愛をもって住み継がれている。
そして石炭の残留物である硬石の発火の危険性から立ち入ることができなかったボタ山は、表土を整備し、頂上には多くの作家がアイコンとして彫刻を設置した。時が経ち緑に覆われた山は、人々がこれまで持ち得なかった地域の全体像を俯瞰する視座を供する場所となり、日常の散歩コースとして利用されている。

ふと目を留めるための態度

かように各々の場所で、建築の物質に蓄積された時間は、今も人々の生活のシーンを通して新たな形で紡がれていく。人類学者のティム・インゴルドは、織物としての建築の壁面について論じるなかで、網目に経験を蓄積するテント生地のような「スクリーン・ウォール」と、映画のスクリーンのような情報のない真っ白な「ホワイト・ウォール」を区別する★2。刻々と移り変わる時間を光の変化に変えて記憶し続ける産業遺産の数々を、その内部に身をおいて体験し、「スクリーン・ウォール」のたゆたう姿を折に触れて目にした。

建築に携わる私たちにとって、ただ空間を成立させようと試みるのでなく、そこにある環境を眼差す態度こそ重要であり結果としてそれが空間に結びつくと私は考えている。環境が蓄積する冗長な時間に身を置くこと。日々何かに急かされるようにして生きているわれわれが時に意識を結ぶ、ふとした瞬間にのみ、その時間の蓄積が意識に上りうる。環境を創造するときに必要な態度は、人々が意識的に動く非日常のみに目を向けるのでなく、むしろ無意識的な日常のたゆたいにどのように向き合うかが鍵となる。

Einstellung──無心に、ありのままのまなざしで

ところで、私が研究対象にしているドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースはこのルール地方の南西にあるデュッセルドルフで生まれた。彼の処女作制作時の回想がある★3。

 だいたい3分ぐらいの長さのリールだった。この時は7階から交差点を撮影した。カメラをじっと動かさず、フィルムが終ってしまうまでずっとそのままにしていた。途中で止めようとは少しも思わなかった。後から考えてみるに、もしそんなことをすればある種の冒涜のように感じられたにちがいない。

ここで示されているのは、カメラを構えたらそのままに、その場所の状態をあるがままに記録し続けるという態度である。氏はその後劇映画の監督となるわけだが、彼の作品はおぼろげな物語と冗長とも言える映像に特徴がある。これは物語を制作の起点としつつも、周辺の環境を映像化することを主題としていることの現れなのだ。
ヴェンダースの映画から学びうることは、そこにある現実の時間の長さとの対峙の仕方である。柳田國男のハレとケの概念で言えば、ケの時間は圧倒的に長い。実際の場所において撮影を行う時、いつそこにカメラを据え、撮り終えるかという判断は極めて困難なものであろう。

私たちはいつも計画を行う時、華やかで理想的な場面を想像する。しかし私たちが本当に考えなくてはならないのは、私たちがごく偶然にそこを通るときに過ごす日常的な時間の流れであり、それを受け止めることこそに目を向ける必要があるのではないか。建築や都市を含め環境の創造を思考するときエゴイスティックなイメージからいかに離脱するかについて、ヴェンダースが盟友ファスビンダー監督から借りた言葉「Einstellung」を、私もまた拝借しよう★4。

 カメラはただ被写体を映すのではなく、写真家なり映画作家なりの視座を文字どおり裸にするのである。1冊の写真集はある場所を映し出すだけでなく、写真家の心の内を「開いた本」のように見せるものだ。同様に、1本の映画はただそのアングル(Einstellungen)を見せるだけでなく、カメラの後ろにいる者の視座(Einstellung)をあからさまにする。

「Einstellung」は「対象を撮影すること」を意味すると同時に、「撮影者の態度」をも含む言葉である。場所に対してただ主観的な像を被せるのではなく、無意識的な態度でその場所に身を置くことによって初めて、その場所の本当の姿を撮影することが叶うという、場所を受容する態度が強く意識されている。

ドイツの人々は今、老いも若きも過去に自身の社会が行ってきたことに対する複雑なねじれを伴いながら前を向いていると私には映る。街角には市壁や市場の基礎など折々の考古学的遺構が看板とともに公開され、都市形成に関する展示を専門に行う都市博物館が設けられるなど、蓄積された時間に誰しもが想いを馳せることができる場所がある。そこでは記録の作成者が自身の溢れる主体を意識しつつ、俯瞰的な提示を試みようとする共通の価値観が偲ばれた。

先に語ったルールの遺産はどれも長期的な時間を目論んで作られたものたちではなかったが、その場所が短期的な使命を終えて開かれる際、そこに流れていく時間の一片として自身の意志を批判的に据え置こうとした参与者の態度が、現在のルールの有様につながったのではないか、と今は感じている。
短期的かつ個人的感情で世界を捉えることの危うさに自身も苛まれることが多いこの社会で、これからも人々の中でもとりわけ批判的視座を伴う芸術家たちの場所との応答を辿り直し考えることにこそ、今後への新たな希望がある。

根無し草のように時代に流されるだけでなく、たゆたう態度を取るための型を獲得すること。芸術家たちが残してくれた作品にはこうした態度のための示唆がある。私にとってはそれがヴェンダースの映画だった。それぞれにそうした思いを受け取ることで、建築や都市、ひいては今左右しつつある環境について思考する前提ができると信じている。

(──終わりに、昨今のロシアとのエネルギー問題が地域に影を落としていたことも記憶しておきたい。8月24日、ドイツ連邦議会でエネルギー使用削減のため公共モニュメントの夜間のライトアップを停止する法案が可決された。私も公共モニュメントの照明を見る機会を失うという形で煽りを受けた。ドイツがエネルギー先進国であるという極めて肯定的な幻想は、こちらに来てより現実に即した理知的なものだと悟った。一方そうした理知的判断がおおらかな時間の蓄積をもたらしている。環境に対する文化的差異を感じた旅でもあった──)




★1──ドイツでは20世紀初めから、古くはダルムシュタット芸術家村(1901〜04)を起源として、地域の発展のために国際的な建築競技と実際の建設・展示を行うIBA:Internationale Bauausstellung(国際建築展)が行われてきた。近代建築の歴史において、コルビュジェやミースの参加が頻繁に言及されるワイゼンホーフのジードルンク(1927)も初期IBAのひとつである。IBAエムシャーパークはこの枠組みのもと、1989年から1999年の10年間行われた都市開発プロジェクトであり、過去のIBAが大きくとも街区単位の計画であったのに比べて、80kmに及ぶエムシャー川流域のおよそ800km²もの広域を対象として、大小123の個別プロジェクトを統合する規模で行われた点で画期的な展開をみせたと評価されている。
『IBAエムシャーパークの地域再生 「成長しない時代」のサスティナブルなデザイン』(永松栄編著、澤田誠二監修、水曜社、2006、pp.26-31)
★2──ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ』(筧菜々子・島村幸忠・宇佐美達郎訳、フィルムアート社、2018、p.67)
★3──ヴィム・ヴェンダース『映像(イメージ)の論理』(三宅晶子・瀬川裕司訳、河出書房新社、1992、p.10)
★4──ヴィム・ヴェンダース「ベルリン──冬のメルヘン」(小田謙爾訳、括弧部分原著より引用)、マリオ・アンブロスィウス写真集『ベルリン・壁のあとで A winter's tale after the Wall Berlin : Wintermarchen ohne Maue』(リブロポート、1991、p.10)所収

*写真はすべて筆者撮影

成原隆訓(なりはら・たかのり)

1993年京都市生まれ。芸術家、とくに映像作家による風景の制作を研究し、場所への態度の会得と実践を試みる。京都大学工学部建築学科を卒業し、一級建築士事務所河井事務所に勤務後、同大学院修士課程に進学。現在、京都大学工学研究科博士後期課程在籍、京都大学大学院教育支援機構奨励研究員、宝塚市立看護専門学校非常勤講師。
近年の論考に「映像制作の過程における風景の位置付けに関する研究──M-GTAを用いた映画監督ヴィム・ヴェンダースの言説分析を通して」(日本建築学会計画系論文集2021年86巻780号 p. 525-534)など。 https://t-narihara.tumblr.com/

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公開日:2022年10月20日