社会と住まいを考える(国内)24

尾道にて

石原愛美(建築家、プフ設計)

「あみさん、オザキ行きません?」と、友人からメッセージが届く。
『オザキ』とは毎週日曜の夜にJR尾道駅前の芝生広場に現れて尾崎豊を熱唱するお兄さんのことで、友人たちと親しみを込めてそう呼んでいる。
私の住む家は尾道駅の北側、『山手』と呼ばれる斜面地帯の中ほどにあって、熱のこもった彼の歌声(心苦しいがお世辞にも上手とは言えない)が広場から風にのって聴こえてくる。
ああ、もうそんな時間かと思いながら友人に了解の返信をし、家の前の石段を降り陸橋を渡る。陸橋を下ったところは商店街の入り口で、いい加減に約束した友人と落ち合うには都合の良い場所だ。
「オザキの前に、少しさよりません?」という追加提案も快諾する。

こちらに来て、初めて聞く言葉や表現がいくつかある。そのうちのひとつが『さよる』だ。これは『夜に海辺でビールを片手に小話をする』という動詞で、地域の方言ではなく、友人の間でいつのまにか定着した造語らしい(漢字をどのように書くのか定かでないが『小夜る』だったら素敵だなと思っている)。
商店街を横切って海の方へ抜け、尾道水道沿いの道をさよりながら歩いてゆくと、海を背負い、駅に向かって熱唱するオザキの姿が見えてくる。
とりあえず海辺に腰を落ち着かせ、10メートル先の彼を遠目に見つつ(聴きつつ)2本目のビールを飲み始める。

日曜日の駅前、オザキを眺める友人
写真はすべて筆者撮影

私は今年の春にAS(青木淳建築計画事務所より改名)を卒業し、ここ広島県尾道市にて「プフ設計」という設計事務所を立ち上げたばかりの新米建築家だ。
前職で尾道の新たな観光拠点となる千光寺頂上展望台PEAKの設計・現場監理を担当し、昨年秋から尾道に常駐、竣工後は東京に戻らずそのまま移住することにした。移住のきっかけは? とよく聞かれるが、ぼんやりとした直感だった。現場からの帰り道、山頂からややしょんぼり気味に石段を降りていたときに天寧寺の三重塔と眼下にひろがる町並みが目に入り、なぜか「ああ、ここでなら暮らせそうかな。」と思ったのは覚えている。

ある日、友人から道すがら見つけたという「入居者募集」の空き家の写真が届いたので興味本位で現地へ向かった。石段をのぼるとおじいさんが家の前で草むしりをしており、戸も開いている。不動産屋さんの代理で家の世話をしているとのことで、偶然にもその日のうちに内見することができた。
尾道水道、行き交う渡船や商店街など、尾道の生活を一望することができる、まるでコックピットのような部屋を持つ家で、なかば勢いでその日のうちに借りることを決めてしまった。

山手の古い一軒家は貸出しするのが難しいらしい。このエリアは土砂災害特別警戒区域に近接すること、建物が古い、田舎暮らしの宿命であるムカデなどの害虫が発生する、などが理由だ。ほかにも難点をあげればキリがなく、これらを避けてこの地域に暮らすのは限りなく不可能に近いだろう。
自身が山頂展望台の工事関係者で山手の建築事情に理解がある旨を伝えると、5万円だった家賃はするする下がり、最終的に家守として住むことで1年間タダになった。不動産屋さんと大家さんの心の広さ、家賃という概念の希薄さに驚く。そんないくつかの偶然の手助けにより、山手暮らしが始まった。

尾道水道への眺め

山手での生活に慣れるとともに、尾道の豊かな地形が身体的経験として蓄積されていくのを実感するようになった。気づけばそれは、交わす言葉にも表れていた。山手の住人は『商店街に行く』ことを『山を下りる』と言う。
日中の尾道は観光客で賑わう。商店街では人の塊が往来し、お昼時の飲食店には行列ができる。その一方で、岡山や広島といった主要都市から電車で2時間弱と比較的近い町なので、訪れる人々のほとんどは日帰り旅行者だ。日が暮れると日中の賑わいが嘘のように人通りがなくなる。
そんな頃合いを見はからい、われわれは夜行性の生き物のようにそろりと『山を下り』、うす暗い町で「やぁ。」と顔を合わせる。
山を下りる、のほかにも『Aさんちへ行く』は動物が暮らす森との境界まで、急な石段を登ることを、『Bさんのお店へ行く』はAさんちへの道を通り、さらに小高い山を登って竹やぶを横切ることを、『Cさんちへ行く』は2つほど山を越え、暗くなる前に帰らなければ鼻息の荒いイノシシや野犬と遭遇することを意味する。今まで感じたことのない、場所、すなわち地形が人との情景を伴って身体化する感覚が新鮮だった。

人と動物、居住区の境界

Bさんのお店越しに見る持光寺の竹やぶ

そんな地形がもたらす感覚の豊かさは、同時に、建築物を建てることの難易度に直結する。山手は急斜面で車道も整備されておらず、多くの場合、資器材の搬入出は人力になる。そのため、設計時点で搬入可能な部材寸法や、いかに廃材等を敷地内で再利用し搬出量を減らすか、といったことに頭をひねる必要がある。
また、斜面地に建つ建築物はひとたび崩壊すれば再建築が非常に困難である。なぜなら、接道義務に適合しない既存不適格の建物と敷地がそのほとんどを占めるため、法的に新たな開発をすることが難しい。このような理由で手に負えなくなった空き家が、ひとつ、またひとつと年々増え続けている。他方で地元住民の間では、空き家をまるで洋服の「おふる」のような感覚で譲り受けるケースも散見される。
私の友人も半ば譲り受けるようにして買い取った古民家を持て余していた。彼は日本茶の生産者で、私のお気に入りの茶屋のオーナーでもある。
お店でお茶をいただいていると満席になることが何回かあったので、やや恐縮しながら彼が持て余す山手の空き家を含めた店舗拡大を持ち掛けたところ、前向きな返事をもらった。言ってみるものである。初めての山手でのプロジェクトが現実味を帯びてきた。
しかしながら、古民家改修において予算の大部分は、雨漏りによる腐食やシロアリ被害により劣化が進んだ架構の組み換え、設備の更新等の機能回復が優先され、初期段階での意匠的操作は必然的に後回しになる。そうした理由から、今回の改修では最初から完成されたデザインを目指すのではなく、施主である友人の商いの調子や、営業するなかで生まれるであろう課題や要望に寄り添いながら、各段階でメンテナンスをするようにつくり変えていく提案をした。
この場所に身を置き、日々の出来事をつぶさに観察し同じ歩幅でプロジェクトを進める。建築家としては先導者でありつつ、店のお客であり、友人であり、ご近所さんでもある。さまざまな立場を翻りながら、なるべく同じ目線を持って状況を判断していきたいと思っている。

改修予定の山手の茶屋

ある日電話が鳴った。「尾道市の平谷ですけど!」と快活な電話口。尾道市長だ。
商店街の中ほどに位置するがらんどうを、子どもの遊び場を併設した広場に再整備するのこと。その基本的な方針決定のための相談役の依頼であった。二つ返事で引き受けた。そのような経緯で、小さいながら独立後初めて「公共」の仕事をいただいた。
以前事務所に勤めていたとき、大きな会社を相手にした仕事をした。推し案を選んでもらうための捨て案をつくる日々。喜んでくれる相手の顔が見えない、報われないことがわかりながら繰返す作業の毎日に、心が追いつかなくなってしまった。
その少し後になって、千光寺頂上展望台の基本設計から主担当として充てていただいた。アルバイト時代から青木事務所に入所し公共建築の設計をしたい、と強く思っていた自分にとっては念願のプロジェクトだ。しかしながら「公共」という、またも相手の顔が見えにくい仕事に、当時の私は少しの不安を感じながら設計業務を始めたのだった。
それから数年後、この場所に身を置き、人や環境が自分の身体に馴染むようになってきた今では、漠然とした「公共」という言葉が真っ向からやってきても、尾道の大切な人々の顔を重い浮かべることができる。「公共」という対象が、この町では明確な、手の届く存在に変わっていった。


10メートル先のオザキ。それを見守る観客たち。芝生広場のベンチや、横断歩道をはさんだ対岸からぼんやり眺めている。もしかすると過日の私のように、どこかの自室から耳を傾けている人もいるのかもしれない。注意深くあたりを観察すると広場にはオザキを中心に、一定の間隔を持って観客が星座のように位置している。
その日は彼の目の前に男女が座り込み歓声をあげていた。すると近隣住民からの通報があったのだろうか、おまわりさんがやって来て深刻そうに注意している。負けないオザキ。あたりに静寂と不穏な空気が流れる。すると、今まで離れたベンチで聴いていた観客のひとりのお姉さんが動いた。ほかの観客の視線を一身に受けるお姉さんはオザキに寄り添い熱心に仲裁をはじめるが、おまわりさんとの議論は収束することなくその日は終演となってしまった。
このオザキを取り巻く状況が、私はとても尾道らしい愛すべき情景だと思っている。付かず離れず、でも人と人が手を取り合える距離感を保ち、各々が日々を楽しみながら暮らしている。何かあれば手を差し伸べ、そしてそれを見守る人々がいる。
これは移住者である私の一方的な見方なのかもしれないが、そんな身勝手ないくつもの視座がひとまとまりになって町をつくっている気がしている。
私は私の町へのまなざしと、それを取り巻く人々を大切に、建築家あるいはちょっとした相談ができる近所の人として、日々翻る立場を楽しみながら暮らしていきたい、そんなふうに思っている。

日曜の駅前、芝生広場のオザキ

石原愛美(いしはら・あみ)

1988年神奈川県生まれ。2011年日本大学理工学部卒業、2016年東京藝術大学大学院修了。青木淳建築計画事務所、ASを経て独立後、2022年広島県尾道市にてプフ設計を設立。

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公開日:2022年09月22日