社会と住まいを考える(国内)17
ブレ続ける中心を求めて
佐藤研吾(建築家、一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所)
コロナと入れ違いで東京出る
東京に入ってきたコロナウイルスとちょうど入れ違うように、東京を出て、福島県大玉村という農村に引っ越してから1年半ほどが経った。もちろんウイルスの世界的蔓延を予期していたわけではない。その数年前から、大玉村の自治体の非常勤職員として働いたり、村と東京を行き来する生活をやってみたりと、準備運動はしていた。村へは家族で引っ越した。
新たに住み始めた民家は賃貸で使わせてもらっている。10年か20年ほど前から空き家になっていたようで、私が初めてその家を内見として伺ったときには、なんと家の奥の押入れからデップリとしたタヌキの親子が「やあ」と顔を覗かせて迎えてくれたのであった。以前住まわれていた人の家財道具はそのまま残っていて、天井裏には何世代にも渡るタヌキやハクビシンのフンの山が築かれ、床はほぼすべてシロアリによって崩されていた有様だった。なるべく状態の良い部屋から片付けを始め、床壁天井を直し、住み始めた。なので引っ越して来た直後は家全体のうちの半分か3分の1程度しか使っていなかった。最近になってようやく家全体を使うことができているが、日頃の忙しさにかまけていて、まだガチャガチャした状態は続いている。なんとかその時その場の必要に応えるかたちでその家の中で生き延びている。
職住一体の選択肢
今、ひとつの家をおよそ4つに分けて使っている。
A:自分と家族の住居。3人と1匹の猫が暮らしている。
B:建築設計の仕事場。今年の春からスタッフが加入したので総勢3人か4人で仕事をしている。
C:古本屋とコーヒースタンド。「ころがろう書店」という屋号で主に妻が運営している。元は畳敷の広間だったところの床を抜いてコンクリ土間にして使っている。
D:木工所および鉄工所と暗室。場所としては小さいが、ひとまず1人か2人が作業できる場所にはなっている。母屋の壁に差し掛けた下屋を作業場としている。そして家の前には、塀を跨いだところに畑があり、近所の方々にとてもお世話になりながら野菜を育てている。
大玉村に引っ越すことを決めたのは、じつは、制作環境、作業場の確保というのが大きな理由だった。東京に住んでいたときには、文京区のマンションに住み、縁あって足立区で借りていた狭いアトリエを行き来するような、とても効率の悪い暮らし方をしていた。窮屈な環境では窮屈な思考しか生まれない、そんな危機感もあった。そこで、状況を脱し、なるべく住居と仕事場を近づけ、また作業しているうちに溜まる木屑や木っ端の始末にも困らないような、気楽な作業環境を求めて、村に移住をしたのであった。もちろん首都圏でそんな環境を探すこともできただろう。けれども首都圏を出たのは、ちょうどその頃に大玉村によく通っていたから、というくらいの決め手だった。
歓藍社と趣味の共同体
そもそも大玉村に通い出したのは、2011年の東日本大震災より後のことである。震災直後から、友人で生態学の研究者である林剛平さんが放射能の研究を始めていて、彼は大玉村の野内彦太郎さんという農家の方から依頼を受けて村内の田んぼの放射能測定に取り組んでいた。彼が調査を始めてから3年ほど経った頃から、私も同行し、以降月に1回ほどの頻度で通うようになった。通うなかで、当時休耕地となっていた野内さんの田畑で何かできないだろうかという相談をしていた。そこで、食べ物ではない農作物として、植物の藍を育てみようとなり、藍畑づくりの活動が始まった。村内に藍染めの産業があったわけではない。関わった誰もがまったく経験がない、手探りの状態から始められた。地元の人たちと一緒に、畑で藍を育てて、収穫し、染料となるスクモをつくって染めをやる活動を、さまざまに試行錯誤を重ねながら、もう6年ほど続いている。
「歓藍社(かんらんしゃ)」という名前をつけているその活動には、およそ10人か20人くらいが関わっている。地元の人と村外・都市部の人の割合はおおよそ半々くらいだ。組織のなかにリーダーがいるわけではない。ずっと関わり続けている人もいれば、なかにはポッといなくなって来なくなったり、新たにフラッと来たりする人もいる。そこに人が集まってつくることができる場所があり、その時その場所に集まった人が何をやるかを決め、活動をしている。関わる人たちはみんな純粋なモノづくりへの興味や場づくりの実験意欲を持ってこの地を訪れてくる。歓藍社は、じつは今のところほとんど収益を生んでいない。けれども、ある種の事業性がないことで余計な利益分配を考える必要がなくなり、組織としての輪郭が限りなくボケているからこそ、いろいろな人たちが行き来しているのではないかとも思っている。ただし、人たちが集まる場所はある。藍畑、藍染めの仕事は毎年ある。趣味の共同体とでも言うべきか、その場所の力、誘引力によって形成される共同体のなかに居る、という感覚を私は持っている。
そんな歓藍社の活動に、始めはおよそ月に1回、東京から大玉村に通っていて、小さな旅のような新鮮な気持ちで取り組んでいた。村に滞在しているときには、藍染に限らず、木工、鋳造、溶接などさまざまな制作の実験を行っていたのだが、次第に滞在の期間をもっと長くしなければ見つけられない、得られないことがあるのではと思い始め、先ほど述べた東京での作業環境の手狭さへの不満も相まって、よしと思い立ち、移住を決めたのであった。
ブレ続ける中心
近頃の、県外への移動制限が解除されてからは、およそ月に2〜3回の頻度で大玉村と首都圏を往復している。首都圏に行ったときには、数年前はそこに住んでいたのに、今は何となく外の世界を訪れるような感覚になり、自分の中心が大玉村のほうへ移動しつつあるのを感じる。今のところ、建築の仕事は福島県内での仕事と首都圏の仕事が半々くらいだ。福島県内では住宅の改修設計や、規模は小さいが設計施工で請ける仕事、そして家具制作などをやっている。首都圏では小規模な仕事もやっているが、オフィス新築や公共建築などの設計の機会も増えてきた。やはり、自分が居る場所が中心、基点となり、自分の行動距離によってできることが規定されてくる。それぞれの土地、その時に、自分ができることを考えて実践するしかない。最近は率直な気持ちで日々を過ごすようになった。
できれば、しばらくはそんな異なる場所の往還を続けていきたいと考えている。外の世界、外への感覚を併せ持ち続けることで内への感覚が研ぎ澄まされていく。逆も然りだ。そして、建築の仕事も同様である。小さなスケールの仕事が、大きなスケールの仕事に対して批評性を持つ。大きなスケールの思考が、小さな制作現場に理論と普遍性を持ち込む。異なる場所を往還し、異なるスケールを横断することで得られる、不定形でスリリングな感覚が、今の生活のなかで最大の収穫だろうと思っている。
一方で、今後、大玉村に生活の重心を置き続けていたら、おそらくそんな新鮮な感覚が生活から失われてしまうのかもしれない。そのときにはもしかすると、またどうしようか、と自分の中心を設定し直すことになるかもしれない。生涯をかけて旅人になる気はないが、自分の中心はブレ続けていてほしい。旅=移動することと、定住すること、の関係はどう組み立てていくべきだろうか。今後も工夫は続けていくつもりである。
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公開日:2021年12月22日