社会と住まいを考える(国内)16
中央から離れ、中心をつくる。
大室佑介(大室アトリエ/atelier Ichiku)
2014年、秋。
生まれてから三十余年にわたって生活の拠点としてきた東京・練馬の住宅地から離れ、三重県津市の山里に残された平屋建てに居を移した。移住を決断した理由は、彫刻家として活動する配偶者の制作場所を確保すること、そして、義理の祖父が残したいくつかの空き家や、広大な空地の管理などを兼ねた、いわゆる家庭の事情といった内向きのものであり、小さな偶然の積み重ねから導き出された必然的な選択であった。
幸いなことに、遠縁にあたる親族が近くに住んでいたり、生前の義祖父のことを知る人などが残っていたため、わずか15世帯ほどの閉鎖的なコミュニティにも比較的早く受け入れてもらえたように思えるが、けっして受け身になることはなく、地域内で催される年中行事にはすべて参加した。初めのうちは独特な方言に慣れず会話は少なかったものの、一緒になって草を刈り、運動会で綱を引き、正月飾りの縄を編み、行燈に灯をともし、焚火を囲んで餅を焼き、時おり酒を交わしたりしていると、少しずつ「住人」として認められていった。
そうした活動と並行するように、街から越してきた私たちが何者であり、何を生業としているかを近隣に伝えるべく、配偶者は制作の場であるアトリエのシャッターを開け放って制作をし、私は庭に面する縁側で図面を描いたり模型を作ったりしながら日中を過ごし、時おり農作物を片手に様子を伺いに来てくれる先人たちとの会話の機会を増やした。地域の人々は「ここは何もない場所やから」と謙遜していたが、季節によって規則正しく移り変わる田畑の風景や、旬の農作物をそのまま口に入れられる経験は、都会暮らしの長かった人間にとっては新鮮であったし、いざ地域の外に目を向けてみると、質の高いコーヒーを提供してくれる店や、気軽に飲める中華料理屋、特別な日に訪れるレストラン、カフェと書店が併設された理想郷のようなショップなどが点在し、都市部での生活と遜色のない暮らしが出来るようになった。
2015年、夏。
越してから10カ月ほどが経ち、山里での暮らしに少しばかり慣れた頃、自宅から道を挟んで向かいにある鉄骨造の工場跡に手を入れ始めた。かつて犬の首輪を作る町工場として操業していた作業場は、20年以上にわたり時が止まったかのような状態で、道具や材料などがうず高く積まれ、土埃を被ったまま取り残されていたが、屋根、窓、床、そして建物を支える構造部については良い状態が保たれていたため、大規模な改修をすることなく、そのまま私立の美術館として再利用することを決めた。手始めに工場の中を片付け、薄い天井を部分的に剥がして天井高を上げ、白い壁を1枚立てた。その壁を境にしてできた2つの展示室で、当時たまたま来日していたドイツとイタリアの作家の友人による展示を開催すると、わずか数日間の展示ながら50人ほどの来館者があった。なかには建築家、美術作家、公立美術館の学芸員などが含まれていて、新しい土地での新しいつながりを生む美術館として上々の幕開けを迎えた。
2016年、春。
美術館の開館後に家族が増えたこともあり、思うような動きが取れなかったが、4月頃にはようやく落ち着き、再び建物に手を入れることにした。前年に設置した白壁に加え、ホームセンターなどで容易に入手できる角材を使った格子状の壁を4枚追加し、外から柔らかく差し込む自然光や、鑑賞者の視線の抜けを遮ることのない状態での壁面展示が可能となった。さらに入口部分を整備して、館長自ら受付に立ってもぎりをする事務スペースと、作品や関連グッズを販売するミュージアムショップを併設し、美術館の運営費や修繕費を捻出する仕組みをつくった。以降、年に数回の展示を続ける《私立大室美術館/本館》として歩み始めた。
秋には、美術館の隣に建つ地域の公民館で開催される敬老会の日に合わせて、彫刻家である配偶者の個展を企画した。この展示は現在に至るまで毎年続き、私立大室美術館の恒例行事になっている。翌年の2回目の際には、展示の情報を聞きつけた隣町の住人が軽トラックで乗り付け、彫刻作品を購入していくという想定外の出来事もあった。
2017年、秋。
前年に知り合った彫刻家・橋本雅也氏の作品を収めるため、新たに《分館》をつくった。こちらは美術館の敷地内に取り残された農機具倉庫を再利用したもので、本館同様に片づけから始め、外装はそのまま手を付けず、入れ子状に区切った部屋を設けることで、長いアプローチと暗闇が充満する展示室となった。室内に入った時は闇しか見えないが、少しずつ目が慣れてくることで感覚が研ぎ澄まされ、モルタル塗りの内壁に取り付けられた作品がボンヤリと浮かび上がり、周囲の木々に飛来する鳥のさえずりなどを聞きながら集中した鑑賞体験ができる。
2019年、秋。
恒例となった敬老会の企画展示に合わせて、自宅の一画を改修した「ギャラリー」を開館した。自宅と、物置になっている旧宅との間の緩衝帯を利用したもので、白い壁1枚で遮り、ソファなどを置いて作品をじっくりと鑑賞してもらえるスペースになっている。本館での展示の付属として、または関連する作家の同時開催の場として、簡素かつ自由に使える展示室であり、商談などにも使えればと考えている。
2020年〜現在。
社会を覆った大きなうねりは私の住んでいる農村にまで届き、美術館では展示のペースを少し緩めることにした。毎年の開催を目標としていた敬老会特別展は無観客での実施を決断し、その他予定していた展示は1年先に移行した。 それによって少々長めの休館期間になってしまったが、建物の維持費がかからず、企画展示による収入がそのまま次回の展示のための支出に回る、という低空飛行を続けている当館にとっては、何らダメージを負うことなく存続が可能となった。そして、停滞を余儀なくされていた社会的な活動が少しずつ動き始めた今、美術館では新たな展示の企画と、新たな展示室の計画が動き始めている。
《私立大室美術館》と名付けた長期的な建築計画は、依頼人がいて初めて成立する仕事としての建築とは異なる、自身の建築理論と身体感覚を確認するための、いわば行為としての建築であり、私に内在する建築従事者としてのリズムを維持するために必要な実践といえる。同時に、自身の手の届く範囲での、無理のない規模の小さな展示室を増殖させるという仕組みによって、自治体主導での公共施設よりも大きなスケールでの文化的中心となる場をつくっていく。ここでは、「私」でできることを「公」に向けて開放することで、「私的公共領域」とでも呼びうる場を生み出し、その場所を“運営する側”と“使用する側”との双方の立場から、身の丈に合った公共性を誘発し、変化する時代の流れに順応しながら持続していくことが可能な、地域の中心としての建築へと育っていくことを期待している。
今回の疫禍によって、都市から遠く離れた僻地であっても社会は断絶することなくつながり、都市と農村とは地続きに繋がっているという事実が証明されたいま、農村で培われてきた人間的な営みを都市で実践し、都市を彩る文化的な営みを農村で実践するという試みは、当然の流れになっていくのではないだろうか。都市/農村の垣根を個人単位で軽やかに乗り越え、都市の中に畑をつくり、畑の中に美術館をつくる。次代を生き抜くためのヒントはここにあるのかもしれない。
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公開日:2021年11月24日