「これからの社会、これからの住まい 2」のはじめに
「バラバラな他者が共存する」ということの意味(前篇)
浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)+中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)
「超部分」への想像力、自生的な空間
中川
私たちにとって、什器がオブジェとして面白いかどうかの判断は、用途を度外視して見ても面白い立体かどうかということによります。たとえばベンチであれば、「座る」という用途を抜きにしても立体として魅力的に感じられるかどうか。それは「住む」という用途抜きで見ても魅力的な住宅をつくれないかという最初の話につながります。なぜその立体は魅力的だと感じられるのか、魅力の源は材料なのか組み立て方なのか、大きなスケールの建築に翻訳できるような法則を見つけることが重要だと考えています。ですからいまの質問の答えとしては、小さなスケールのものを小さなスケールのまま見ない、大きなスケールに汎用できる法則を想像しながら見る、ということになるでしょうか。
浅子
写真にはスケールがないという話がありましたが、模型にもある種、スケールをキャンセルする力がありますよね。たとえば四角いテーブルも、高さが70cmだったらテーブルだけれど、240cmだったら床になる。中川さんが《株式会社ライゾマティクス オフィス 2015-2019》(2015)でやられていたのは、同じ形でもスケールを変えると機能も変わるという縮尺の操作ですよね。そう考えると、小さなオブジェから大きな建築にするときに、模型にすることでいったんスケールをキャンセルすることが大事なのかなと、いまのお話を聞いていて思いました。
乾さんとのギャラリートークで、中川さんは全体に決定的な影響を及ぼすような部分、ほかの部分から突出した部分のことを「超部分」というキーワードで説明されていました。機能が剥奪されたとしても面白いもの、モノそれ自体として魅力的なものというのは、「超部分」という概念と密接に関係している気がします。言い換えれば、それはまだ見ぬ欲望、まだ見ぬ使い方を想像しながら設計することといえるかもしれません。
いまの時代の需要や欲望にフィットしすぎるものを設計しても、建築は何十年も残るものですから十分ではないわけですね。ただ、いまの時代からは見えない使い方や振る舞いを想像するということは、逆に言えば「なんでもあり」になってしまう可能性もある。たしかに機能から切り離されても魅力的に見えるオブジェをつくるということは建築にとってもとても大事で、大良さんが指摘されているように、私的な建築であれ、公共の建築であれ、公のもとに巨大なボリュームを置く以上、建築はそういう問題も引き受けなければいけない。そこまではわかるのですが、機能から切り離された魅力的なオブジェとなると、どんな形でもいいという話になってしまいませんか?
中川
おっしゃるように建築を機能ありきで考えて、それに空間を対応させても、機能が変わった途端、限界を迎えます。それこそ住宅は、テレワークがこれほど普及するとは想定されていなかった時代につくられた間取りなので、もともと限界があると言われてきた「nLDKモデル」が、コロナによって別の角度からも限界を迎えてしまった。オフィスにしても、従来の執務室のような機能にとらわれない、新しい働き方に対応した空間が求められている。けれども、次のどういう働き方を想定すればいいのか、現時点で具体的に完全にわかっているわけではありません。ではどうすればよいのかというときに、建てた瞬間に完結するのではなく、建ててからもずっと自生的に育っていくことができたり、さまざまに解釈できる空間の質をつくっておけるとよいのではないか。解釈や感覚というのは個人に属するものと考えられていますが、振る舞いを引き出すきっかけになるという意味では、機能と同等のものとも言えると思うんです。
自生的といえば、庭には建築にはない時間のスケールを感じることができます。建物はピークの状態に戻そうという考え方になりがちですが、庭はピークがあろうが朽ちようが、それは過程のひとつでしかなくて、建築とは違う永続性がある。庭の永続性は、もとからある機能に対応する空間というわけではなく、機能との付き合い方自体をその都度変えていける、変更可能性に秘訣がある気がするのですが......。
建築はリノベーション、建築は庭
浅子
うーん、いまの答えは納得できるような、できないような、モヤモヤとしたものが残りますが(笑)。中川さんに代わって、いまの話を僕なりに整理して言うと、庭は季節によってその姿を変えるし、そこにあるものは成長したり朽ち果てたりするので、時間を内包した作品といえると。そのため絶えずメンテナンスをすることが前提となっている。しかし建築だって本当は同じはずで、何十年も生きながらえるのだとすれば、機能や使い勝手も変わるし、新技術が出てきたり、材料が古くなったりすることもあるわけですね。そうなると完成形にこだわってもしょうがないので、未完の状態というか、変わり続けることを前提としたものをつくらないといけない。中川さんはそうした時間を内包したオブジェを考えようとしているのかなと、いまのお話を聞いていて思ったのですが。
中川
そうです、そうです(笑)。
浅子
そう考えると、中川さんが「超部分」という概念にこだわる理由もわかるような気がするんですね。仮にいま「超部分」があったとしても、5年、10年と経つうちに、別の部分のほうが「超部分」になって全体に影響を及ぼすことになるかもしれない。そうなると、ある建築がまったく別の建築になることもある。それすら許容する建築をつくるには、ひとつのシステムに貫かれた全体とはまったく別のかたちの全体像、時間とともに変わっていくことを前提とした全体像を検討する必要があると。
中川
おっしゃるとおりです、ありがとうございます(笑)。先に全体を決めてそこに従属するように部分をつくると、全体をいかに維持するかという話になってしまって、保存という行為が、やらなければいけない業務のようになってしまう。それに対して、部分が全体にフィードバックして影響を与えるような状態をつくれれば、部分をその時々の使い方に合わせて入れ替えることもできるし、どういう「超部分」を入れれば全体が活性化するのかを考えることもできる。そうなれば保存もより創造的な行為になるはずです。
私より上の世代では、リノベーションは建築家の仕事と見られていなかったようですが、私たちの世代では、リノベーションを仕事にする人は多いですし、リノベーションにどうやって創造性を見出すかということに建築家の役割を見出す人もいます。もちろん時代状況的にリノベーションを仕事にするしかないという面もありますが、たとえ新築であっても既存の敷地に建てるわけですから、大きな視点で見れば周りの環境をリノベーションするともいえるわけです。そういう意味では、いつの時代でも建築家の仕事はリノベーションだったという見方もできる。そうしたリノベーションに対するポジティヴな捉え方は、私たちの世代でより共有されている創造性なのかなという気はします。
浅子
ただ、庭のような建築といっても、いわゆる庭の場合、美的感覚がある程度は共有されていますよね。とくに日本庭園のようなものは、根底にある美意識は一貫しているので、成長や変化していく自然物を扱っているのに何百年と残っている。ただ逆にいえば素人が安易に介入していくことは難しい。一方で、中川さんの《桃山ハウス》的な庭建築は、美意識としてまだ共有されていないものを美しいと認めていこうとする運動のようなものなんじゃないか。変な言い方になりますが、それはある意味、庭よりも庭的というか、拡張された庭の概念をつくろうとしている。どんなに全体を設計しても、竣工したら施主が入居して什器を入れたり改装したりすることで、最初の全体像はどんどん更新されていきます。乾さんはそうした中川建築の特徴を指して「ガラクタ感がある」とおっしゃっていましたが、なかなか言い得て妙だと思いました。中川さんの建築は、そういう変化に対してポジティヴというか開こうとしているんだろうなと。
中川
開かれていたいし、それくらいで建築の価値が変わってしまうと考えるのは度量が小さいと思います。私たちの建築は、当初想定したものとは違ったものや知らなかったものが入ってくることによって、むしろ新たな活性を生んでほしいし、その下地をどう建築的につくるのか、ということに興味があるのです。
浅子
度量が小さいか......、いやはやすみません(笑)。冗談はさておき、施主やそこを使う人がより創造的に関われるような状況を最初からつくろうとしているんでしょうね。
中川
建築によっては設計者が後々のメンテナンスまで関われる機会もあるかもしれませんが、多くの住宅の場合、竣工した瞬間に手離れして、お施主さんの財産になります。ですから、お施主さんがご自身でメンテナンスをしたり、こういうふうに使ってみようと積極的に付き合えない限り、その建築の永続性は短くなってしまうと思うのです。私ひとりが完成形をつくろうとしてもやれることは少ないから、むしろ、竣工してからも完成していない状態をいかにキープできるかを考えたほうが、息の長い建築になりうるんじゃないかな、と思うのです。
[2021年4月23日、中川エリカ建築設計事務所にて]
→ 後篇に続く
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公開日:2021年05月26日