インタビュー 5

コロナ禍以降に再考する、健康な住まい

西沢大良(建築家、西沢大良建築設計事務所) 聞き手:中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)+浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)

これからの社会について

中川

冷気を求めてさまよう体験、名作住宅を求めて歩き回る体験など、目の前の生きた街が西沢さんの建築的思想を育んだことが改めてとても鮮やかに感じられました。 生きた街といえば、「新建築.online」の書評リレーコーナーで、西沢さんは岡壇さんの『生き心地の良い町──この自殺率の低さには理由がある』(講談社、2013)を紹介されていましたが、この書評を通じた数々のご指摘は、これからの社会、これからの人間を考えるための大きなヒントになるのではないかと思いました。本の内容に触れながら、西沢さんの考える「これからの社会」についてお聞かせください。

『生き心地の良い町』

岡壇『生き心地の良い町』

西沢

はい。この本は、看護学・公衆衛生学を専門とする岡檀さん(統計数理研究所特任准教授)が、日本の市町村のなかで最も自殺率の低い町──徳島県の旧・海部町(かいふちょう、2006年の合併により現在は海陽町の一部)──を調査した記録で、刊行当時から話題になった本です。ご存知のように日本の自殺率は世界的にもきわめて高いわけですが、そんな日本のなかにあってこの海部町は、過去30年間、自殺率が突出して低いんですね。年齢別の自殺率も全年齢層で低いし、経済指標を見ても1970年代初頭の経済成長期から2000年代の平成不況期にわたってずうっと低いままです。しかも、海部町の両隣にある2つの町は、国内有数の自殺率の高い地域なのに、海部町だけが自殺率の低さを保っています。この「海部町の謎」を解くために、著者の岡さんは現地調査に乗り出し、町の成り立ちや歴史、住民気質や集団行動などの調査を通じて、海部町の人々のもつ驚くべき特徴を目の当たりにし、この本にまとめています。

例えば、海部町の人々は、基本的に「おしゃべり好き」なんですが、他人の噂話をするような陰湿さがなく、話の途中でいきなり話題を変えるとか、話の興味を突然なくすというように、「空気を読まない」会話を盛んに行うそうです。町民同士の付き合いは、もっぱらそうした「空気を読まない」立ち話程度で、相手の生活にはそれ以上深入りしないという、淡白な付き合い方をするそうです。しかも、相手が隣人であれヨソ者であれ態度を変えず、ヨソ者から見ても人懐こく思えるほど、排他的な傾向がないそうです。海部町に古くからある住民組織、例えば「朋輩組」(ほうばいぐみ)は、多くの地方の町にあるような排他的な入会条件(数世代にわたる男性町民しか入会できない、等)がなく、女性やヨソ者の入会や退会も自由で、不参加者も不利益を一切被らないというほど、開放的な組織だそうです。しかも不慣れな新人が作業に失敗しても、処罰や叱責などのパワハラ行為は行われず、失敗の挽回も当人の自由に委ねられるそうです。つまり参加したい者だけが参加するという自由の理念が住民組織に浸透しているため、どの組織でも強制や支配やイジメがないそうです。さらに、海部町の人々は政治参加に意欲的で、地方選挙も国政選挙も盛り上がるそうですが、日本の多くの組織や団体で横行している組織票のとりまとめが機能しないそうです。そればかりか、他人の投票行為に口を出す者がいれば、青年も老人もそれを「ダサイ」と公言するそうです。そして投票時には、候補者の経歴や肩書きには誰も「忖度せず」、問題解決能力だけを見て投票するといいます。ですから海部町では健全な民主主義がまともに機能しているそうです。つまり、この町の人々は、日本の多くの地域や組織が作りたくても作れなかったような社会を作り上げていて、そのことが、自殺率の低さやイジメのなさ、あるいは民主主義の機能としても現れているわけですね。この本にはほかにも意表をつくような例がたくさん出てきますので、興味のある方はぜひ読んでほしいです。

僕が最も興味を持つのは、この海部町の住民気質はどのように培われたのか、ということと、彼らが作り上げた社会はありうべきもうひとつの日本の姿なのではないか、ということです。
ここからは僕の推論になりますが、もともと海部町は戦国時代の終結後、江戸時代の初期に成立したらしく、徳川幕府が1620年から13年間かけて大阪城再建を行った際に、大量の材木や石材が大量に必要になったことから始まるそうです。この本にも海部町は当時の材木の集積地として始まったと記されています。林業は今でも農業と違って、さまざまな異なる職能を必要としますよね。当時で言えば、まず森に入って木を伐採するスキルをもった人々、また、森には入れないけれども材木を刻むスキルをもった人々、そして両者の間を結ぶ馬喰や博徒の人々、さらに徳川の手形決済のできる商業スキルをもった人々、それから材木を大阪まで運ぶための海運のスキルをもった人々、などです。このどれかが欠けても成立しないのが、林業の特徴です。そうしたさまざまな職業集団が、大阪城再建に始まる需要の継続に期待して、異なる郷里から移住して、海部町に一挙に住み着いたわけです。
この本にも海部町には仏教神道のあらゆる宗派の宗教施設が揃っているという記述がありますが、それは異なる職業集団がさまざまな地域から移住してきたことの物証です。当時の移住者は、材木需要の継続に期待して、この地で骨を埋める覚悟でやって来たのでしょう。さもないと、宗教つきで各集団が移住してくることはないです。
ところが、大阪城再建後には天守閣を新たに作ることが禁じられてしまい、移住前に期待されていた需要の継続がなくなってしまったんですね。おそらく移住したどの職業集団も、1630年代には兼業や失業や廃業の危機に見舞われたと思います。そのとき、おそらくある方法で、職業集団同士が互いの要望や知識を伝えあうことに成功し、窮地を脱したのではないかと思います。

僕の推理では、各集団の連れてきた宗教の僧侶たちが、互いの意思疎通を可能にしたと思います。17世紀の当時、「探題」という論争方法が、天台宗や鎌倉仏教諸派の間で広がります。「探題」とは司会者付きのディベートのことで、司会役が教義問答の題目を探して、ディベートの進行係も兼任します。例えば「極楽ありやなしや」といった議題を提示して、論者の一方が「あり」を論証し、他方が「なし」を論証し、どちらが強い証明なのかを公開で判定するという論争方法です。これは裁判の形式と似ているので、日本におけるデモクラシーの起源と言われることもあります。
当時の職業集団は、互いに外国語を話しているようなもので、多少言葉が通じたところで常識やロジックも違うから、いきなり当事者同士で利害調整などできないです。今でもサラリーマンと自営業者では常識や考え方が異なり、いつでも誰とでも共同作業や利害調整に成功するわけではないですが、当時の職業集団どおしの壁はもっと高いです。だから、彼らはそれぞれの僧侶に頼んで、互いの意思疎通や利害調整を図ったと思います。当時の僧侶は多かれ少なかれ比叡山で修行していますから、互いの意思疎通を「探題」の形式を借りて、境内で公開で行ったと思います。そして、その議論を境内で目撃したそれぞれの集団は、ディベートを通じて共通の用語やロジックを習得していったと思います。この本にも、町内のある寺の境内が、「空気を読まない立ち話」を盛んに行うサロンとして機能しているという記述がありますが、それは当時の「探題」の影響でしょう。また、海部町の独特の言葉遣い、「病」「市」「みせ」「一度目は堪えたれ」といった戦国武士のような言い回しも出てきますが、これも当時の「探題」の影響だと思います。いずれにしても、17世紀になされた公開討論が今でも形をかえて反復されているために、海部町には健全な民主主義があり、イジメも自殺もなく、誰も空気を読まず、誰も忖度しない、という社会を維持しているのでしょう。

ひとつだけ付け加えると、海部町は農村から発展した町ではなく、当初から都市として始まっています。異なる職能を持ったヨソ者たちが集団ごとに移住してきたことで生じた、近世都市のひとつです。ですから海部町の今日の姿は、これから多くの街や組織にとって、応用可能な可能性をもっていると思います。非常に面白い事例です。

21世紀型の建築

中川

管理し統合していくのではなく、それぞれ意思を持った生身の人間が違いを認め合ったまま共存していられる状態をどのように形成できるか、という問題は、まさに現代の建築家も考えるべき課題ではないでしょうか。例えば、最初に機能主義の限界についてお話がありましたが、従来の機能主義とは、個別の感覚を排除し、大部分にとっての機能性や合理性に迎合するシステムだと言えるかもしれません。それに対して、西沢さんの言葉でいう〈医療的・治療的〉がどのような空間かという評価は、本来、一人ひとりの人間によって当然違うものであり、つまり個別の感覚を拾い上げるような立場だと言えます。それぞれにとっての心地よさや、ひとつに括りきれない多彩な機能性が居合わせる空間とはどんなものなのか。そこに建築の新しい可能性があるような気がします。

浅子

建築の分野も、コロナウイルスという感染症に対して取り組むべきだとは思いますが、だからといって、これまでのように、建築家が純粋な空間の魅力を追求できなくなったわけではありません。21世紀もその5分の1が経過し、例えば、インターネットやスマートフォン、SNSの出現と普及によって、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。本来なら、それと連動して、住まい方や働き方も空間的に変わっていくはずです。けれども、建築はいまだに近代以降の新しい空間を発明できていないように思います。そこで、21世紀型というか、この時代だからこそできる新しい建築とは何かということを考えたいのです。西沢さんは、何かお考えはありますか。

西沢

「空間」の捉え方が、20世紀とは変わってきたことを感じています。われわれ専門家のなかでの変化というより、一般の人々のなかでの変化です。例えば、今回のコロナ禍で医療従事者以上に感染を抑えたのは、ある意味では「空間」だったと言えますね。政府から「空間的」な指示が出されたし、皆さんも「空間的」な配慮をもって集団行動しました。「三密を避けよ」「ステイホーム」「ソーシャルディスタンス」「ロックダウン」「濃厚接触」「こまめな換気」「隣席との仕切り」といった言い方は、すべからく「空間的」な事柄でした。こうした意味での「空間」の捉え方が、いずれは新しい建築空間につながっていくと思っています。おそらく気積や気流、身体密度や集団行動、接触や非接触といった「空間的」な事柄が、新しい建築空間の基準となるような気がします。

最近はその意味での「空間」を念頭に置いているせいか、僕は昔の建築作品についても違ったことに気づくようになりました。例えば、ル・コルビュジエのインドの住宅は、換気や通風に配慮したスリット開口や回転扉を盛んに設けていますよね。同時期の《ラ・トゥーレット修道院》にも、通風専用の縦長のスリット開口が至る所に設けられています。あれらのアイデアが、当時のインドで膨大な致死率に達していたコレラに対する回答なのか、あるいは近世の修道院を悩ませた感染症に対する回答なのかは、まだ未確認です。いずれにしても、20世紀に書かれたル・コルビュジエ論のうち、通風や感染といった観点からル・コルビュジエの仕事を分析した論考は、おそらく存在しないと思います。こういう「空間的」な視点からモダニストの仕事を見直していくことも、新しい創造の契機になるかもしれないです。感染が落ち着いて海外に行けるようになったら、もう一度彼の作品を見てみたいと思っています。

浅子

言われてみると、たしかに、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなど、ル・コルビュジエと同世代に活躍していたモダニスト建築家の作品と比べると、ル・コルビュジエは窓の開け方に対して執拗にデザインをしているように見えますね。ル・コルビュジエの環境的なデザインが、そうした現地の感染症を見て生まれたものだったとしたら、それはたしかに新しい捉え方ができそうです。

西沢

もともとスイスにいた20歳前後のル・コルビュジエは、スラムを見ていないわけです。当時の英仏独のスラムにおける感染状況や衛生状態、環境汚染を見ていない。だからスイス時代は、近世の山小屋みたいな住宅を設計していられたのでしょう。でもその後、ベルリンやパリに出て、ベーレンス事務所やペレ事務所に勤めたとき、初めてスラムを目の当たりにした。その時ル・コルビュジエは、たぶん何らかの空間的な課題を掴んだはずだと思います。スラムの感染状況や衛生状態を見て、彼が手ぶらで帰るわけがないでしょう。スイス時代とパリ時代の作風の変化の大きさを考えれば、スラムに震撼した可能性もあると思います。

浅子

パッチワーク的に対応したり、コロナのことばかりを考えた結果、空間的な魅力が失われていくようならもったいない。その点、今の西沢さんのお話は感染症対策という意味でも、建築を創作するうえでもすごく前向きな提案だし、とても勇気づけられます。まさに今は、新しい視点でものを考えるチャンスなのかもしれません。

本日、西沢さんは最初に、いまは建築物が人が死んでしまう場所になっているから、健康になる場所〈医療的・治療的〉になったほうがよい、というお話をされました。とても共感できる一方、今回のコロナ禍で露呈したのは、医療のある種の限界だったとも思うんです。医療自体は絶対的なものではなく、未知のウイルスに対して万全な対処ができるわけではない、ということが明らかになった。だからこそ、異なるアプローチが必要であり、医療や健康というアナロジーは、部分的に適切ではないように感じるんですね。

モダニズム以降の建築家たちがその存在を消してしまったものとして、「死」があると思います。モダニズム建築とは、ある意味で「生の建築」です。ミシェル・フーコーの言う〈生 - 権力〉がわかりやすい例ですが、近代の権力は人々の「生」に積極的に介入し、それを管理することで支配する。モダニズム建築がそれに加担していることは否めない。結果として、危険を過度に避け、人々が死を意識する機会を積極的に奪いました。

つまり、ウイルス以前に、細かい段差や想像しうるあらゆる危険から隔離された人間は、そもそも弱くなっている。危険や死といった、本来普通に身の回りに起こりうる現象や事態もある程度受け入れたうえで、人間はどうやってたくましく生きられるのかということも、大切な視点ではないかと最近は思っているんです。今のところ、誰もが死からは逃れられないので。

西沢

たしかに近代生活が死に対して目を背けていることは、ある意味では異常事態だと思います。昔のように祖父母と暮らせていれば、身近なところで死を体験することもできたのですが、今日ではそれも難しい。生活のなかで死を経験しなくなった結果、もはや死がドラマの中の話のようになっています。かく言うわれわれも、住宅を設計するときに施主のご家族の死やご葬儀を想定するかというと、ほとんどそういうことはしていないと思います。

僕が自分の仕事で唯一死を考えたのは、教会の設計をしたときです。教会の設計は、葬儀や故人礼拝のことを検討せざるをえないからです。ご遺体を置いた場面をパースで描いたのは、この仕事だけです。本当は住宅を設計するときも、そういうことをすべきなのかもしれないです。

生きられた建築、あるいは建築の死ついて

インタビュー

中川

今、死というテーマが出ましたが、建築家にとっての死や建築の死とは何なのか、ということは、近年あまり話題に上がらないですが、重要な問題のひとつだと感じます。私たち建築家は、建築を作るとき、「死んだ建築をつくるゾ!」ということは皆無なわけで、生きられた建築をつくろうとしますよね。しかし、建築家よりも建築のほうが寿命が長いことも多いので、建築家が亡くなっても、建築だけが残存し続けることがある。ではそのとき、建築家の死とは何なのでしょうか。建築家の死後もその建築が変わらずメッセージを発信し続けているとしたら、それは建築家にとって死ではないのかもしれないし、逆に、建築家が生きていたとしても、建築が何もメッセージを語らなくなったとすれば、もしかすると、それこそ建築家としては死と等しいことなのかもしれません。「生きられた建築」というときの「生きられた」には、いろんな定義があると思いますが、仮に、永遠に死なない、永続性があることだと定義したならば、建築を長く生きさせ、語らせ続けるために、どんなことができるのでしょうか。建築の死を逆説的に踏まえたうえでこそ見えてくる建築の可能性とは何なのか。そう問いかけられて、西沢さんや浅子さんはどんなことを思い浮かべますか。

西沢

ある種の昔の建築は、死を遠ざけるというか、永遠性を本気で目指したわけですよね。《パンテオン》や《法隆寺》なんて、2,000年、1,000年くらい平気で立っていますしね。だから建築は、ほかの芸術分野に比べれば、永遠性に肉薄できるジャンルとされてきた。ただし、リアリスティックに言うと、今日の建築が永遠性を獲得することは、ほぼありえないわけです。予算や施主の要望、あるいは技術の変化もあるから、30年程度で壊される。にもかかわらず、建築史の冒頭に《パンテオン》や《法隆寺》が出てくるせいで、「お前の木造の教会よりも《法隆寺》のほうが良い」と批判されてしまうので(笑)、永遠性なんて知りませんとは言えないという、頭の痛い条件を課せられています(笑)。逆に言うと、今や建築も死を条件づけられているのだから、建築の死をめぐる理論が必要になったのかもしれないです。

浅子

今や建築のほうがほかの芸術よりも寿命が短いですよね。住宅も20〜30年で建て替えられてしまうし、現在は高層ビルの建て替えもガンガン進んでいる。建築の永遠性はもはや誰も本当には信じてはいない。建築の死についても考えなければならないでしょうね。

中川

建築設計事務所の永続性となると、さらに難しい話かもしれません。建築家の死後も、発するメッセージを変えることなく残っているアトリエ事務所は、本当に珍しいように思います。変わらないことが必ずしもいいことだとも思いませんが、背骨のような核となるアイデンティティまで変わってしまって、生み出される建築がまったくの別物になってしまうことさえある。一方、ファッションの世界ではシャネルやイヴ・サンローランなど、創始者のデザイナーの死後に、生み出される衣服はまったくの別物だとしても、そのアイデンティティは脈々と引き継がれているように感じられるケースもあります。衣服は、モノとしての寿命が建築と比べて遥かに短いので、その軽やかさを扱うメゾンの永続性は、建築設計事務所の永続性とはまた別の種類だと言ってしまえばそれまでなのですが、何か、思考のとっかかりにならないでしょうか。

浅子

SOMなど、組織設計まで含めればなくはないと思いますが、いわゆる個人のアトリエでそれが実現できているところは、ほとんどないように感じますよね。

中川さんがおっしゃった、建築アトリエとメゾンの永続性の実現の違いについては、これは僕の意見ですが、ビジネスの側面が大きく影響しているためだと思います。シーズンごとに大衆に衣服を販売するブランドは、やはりビジネスの側面が強いでしょう。一方、アトリエと呼ばれる建築設計事務所は日本でも海外でも、儲けることを第一義とはしていないように見える。どんなに巨大なお金を動かしていても、やはり建築作品をつくっているという自負が強いし、それが大きく関係しているように思いました。もちろんファッションデザイナーだって、自らをアーティストだと思っていると思いますが、経営者・出資者とデザイナーが分業されているメゾンも多い。そのような構造も、やはりビジネス的な側面を強めているように思います。あと、最後に加えるならば、ブランドは刻印=ロゴを作ったという点が決定的に大きい。建築物はつねに一品生産の世界なので、ブランドの永続性とはやはり構造が違うのでしょうね。

繰り返しになりますが、コロナウイルスは、やはりそれ自体が大きな社会の問題であるというより、それによって山積していた今までの社会の問題が噴出した現象だったと捉えるべきでしょう。まだまだ答えは見えていませんが、問いがあればそこには解決へのヒントがあるはずです。きっと、単に感染を防ぐ・広げないという以上に何かできることがある。今日の西沢さんのル・コルビュジエのお話は、まさにそんな例だと思います。ル・コルビュジエがヨーロッパ、アジアへと知見を広めていくなかで、単にモダニズムという狭い範疇では捉えることができない建築にたどり着いた。僕たちのこの危機においても、それと同様に新しい世紀への建築を考えるヒントがあるように思います。ぼくたちももっとアフリカなどに目を向けるべきなのかもしれません。本日はありがとうございました。




[2021年10月22日、中川エリカ建築設計事務所にて]



西沢大良(にしざわ・たいら)

1964年生まれ。建築家。西沢大良建築設計事務所代表。2013年より芝浦工業大学教授。作品=《砥用町林業総合センター》(2004)、《沖縄KOKUEIKAN》(2006)、《駿府教会》(2008)、《宇都宮のハウス》(2008)、《今治港駐輪施設》(2016)ほか。著書=『西沢大良 1994-2004』(TOTO出版、2004)、『西沢大良|木造作品集 2004-2010』(LIXIL出版、2011)ほか。

中川エリカ(なかがわ・えりか)

1983年生まれ。建築家。中川エリカ建築設計事務所代表。2007?14年オンデザイン勤務。2014年中川エリカ建築設計事務所設立。主な作品=《ヨコハマアパートメント》(2009)、《コーポラティブガーデン》(2015、以上オンデザインと共同設)、《株式会社ライゾマティクス オフィス 2015-2019》(2015)、《桃山ハウス》(2016)ほか。著書=『中川エリカ 建築スタディ集 2007-2020』(TOTO出版、2021)ほか。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、ライター。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。2021年出版社機能を持った設計事務所PRINT&BUILD設立。作品=《gray》(2015)、《八戸市美術館》(2021)(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)ほか。

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公開日:2021年12月22日