なぜいまパブリック・トイレを考えるのか
浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)
パブリック・トイレは最小の公共空間である
パブリック・トイレは、よくよく考えてみればとても不思議なスペースである。
分節すると「公共」の「トイレ」。
公共のスペースであり、誰もが使う場所でありながら、ひとりで使う場所。あらゆる部屋のなかで、最もプライバシーが求められる空間でありながら、人種も世代も超えて、見も知らぬ人々が共有して使う場所。そして、排泄は誰もが一日のうちに何度も行なう行為なので、あらゆる場所にパブリック・トイレは存在する。また、上水、下水はもとより、最近では、電気などの公共のインフラにつながっていなければ基本的に使うことができない場所でもある(逆に言えば、住宅のリビングルームや美術館の展示室などのメインの部屋は、インフラなしで使用することも可能である)。その意味で、こう言っても大袈裟ではないように思う。
パブリック・トイレは最小の公共空間──パブリック・スペース──である、と。
ちょうどこの原稿を書いている現在、取材のためにイタリア、フランス、イギリス、オランダなどのヨーロッパのパブリック・トイレを見て回っているが、こちらのパブリック・トイレの利用は、多くの場合有料である。無料のものもないわけではないが、汚れや臭いが強い。有料のものも、日本の感覚だとかなり汚い部類に入る。
ではみなどうしているのかと言えば、カフェやレストランや商業施設に入った時に用は済ます。これらのトイレは、客へのサービスのひとつでもあるために、店側もきれいにしていることが多いからだ。そして、清掃が行き届いている場所では、利用者にもきれいに使用する意識が生まれやすく、よりきれいに保つことができている。その逆に、すでに汚れている場所ではきれいに使おうとする心理が働きにくいので、結果、ますます荒廃してしまう。パブリック・トイレが有料であるにもかかわらず汚いのは、この不毛なサイクルに陥っているからだろう。
商業空間を通して公共空間を捉えなおす
他方、国内の商業施設のトイレはますます進化してきている。大きな鏡やソファが置かれたり、その空間自体が魅力的であるように、さまざまな工夫がなされている。もちろん、これらは公共性のためではなく、単に売り上げを伸ばすことが目的であり、その方法も表層的であって本質を問うようなものではない。ただ、トイレの機能としては余剰であるその存在が、人々に汚しても構わないという感覚を捨てさせているのだとすれば、ヨーロッパのパブリック・トイレができなかったことの一部を実現していると言えるのではないか。
実際、公共の空間もこの流れを部分的には取り入れている。例えば近年、駅舎は急速に商業空間化した。東京都内近郊であれば「エキナカ」と呼ばれる商業施設が台頭し、駅のトイレも商業施設のようなトイレに変容してきている。そして、これらのトイレは国鉄時代(1949-87)に比べてはるかにきれいで快適になった。同じような事例に高速道路のサービスエリアもある。
通常、これらの話はつくる側から話されるが、じつは使用する側の心理の変化も大きいのではないか。例えば、商品をよりよく見せるために表層に工夫を凝らされた商業施設では、人々は普段よりも少しだけお洒落をしてショッピングや外食を楽しんだりする。同じことがトイレでも起きているのではないか。
もうひとつ重要な要素として、どちらも不特定多数のためにつくられたものでありながら、「みんなのもの」という大義を掲げるがゆえに誰のものかわからなくなってしまっている公共空間と、誰かのものであるということが明確に(ブランド価値を上げるためにしばしば過剰なまでに)示されている商業空間との差もあるだろう。道路にゴミを捨てることができても、誰かの家の庭にゴミを捨てるのは躊躇するように。もちろん、すべてを商業化して解決できるものではない。ただ、ここには現在、公共について考える際の大きな問いが横たわっている。
新たな時代の公共空間に向けて
実際、この最小のスペースには、さまざまな問題が集中している。最後に論点をいくつか提示しておこう。
まず、扱うものが排泄物だということもあり、汚れや臭気についてもシビアな対応が必要であり、清掃を含めたメインテナンスの問題がほかのスペース以上に重要になる。汚れていては使ってもらえないだけでなく、最悪の場合、地域の負の場所になってしまうからだ。そして、すでに新たな取り組みははじまりつつある。例えば、中山英之設計による小豆島の公共トイレ《石の島の石》(2016)では、清掃道具が入り口脇の、誰もがすぐに触れられる場所に掛けられ、トイレを使用した人が自らメインテナンスをする仕組みまでをもデザインしている。東京ですら、今後は人口が減少していく。「つくって終わり」という時代はそれこそ終わり、いかにしてサステイナブルな仕組みをつくっていくかということは、今後の公共の建築に求められる重要な点だろう。
ただ、国内だけでみれば、人口は減少していくが、他方、この数年で日本に訪れる外国人旅行者の数は倍増している。さらに2020年には二度めのオリンピックが行なわれる。多様な文化を持った人たちと、それぞれの文化の違いを認め合い、どのように共存していくかということも今後の社会において大きな意味を持つだろう。
また、これまで男性用と女性用に分かれていたトイレは、2003年にハートビル法(正称「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」)が改正され、一定規模以上の特別特定建築物には新たに車いす用のトイレが設置されるようになった。当初、身障者用トイレなどと呼ばれていたこのトイレはさらに進化し、小さな子どものおむつを換えるスペースやオストメイト(人工膀胱・人工肛門利用者)対応などが付加され、まさに多機能な、みんなのトイレとなっていった。この小さなスペースには、バリアフリー、ユニバーサルデザインなどの近年の新たなデザインの考え方が導入されている。
さらに近年は、LGBT、性的マイノリティについての議論がトイレのあり方をめぐって巻き起こっている。現在の男女別のトイレに新たにLGBT専用のトイレを加えて対応するのか、それとも男女の差すらも取り払い、誰もが使えるトイレだけを設けるのか。アメリカでは州によってまっぷたつに割れている状況だ。
ここには多様性と寛容性について、きわめて具体的かつ本質的な問いが横たわっている。
わたしたちの社会はさまざまな意味で過渡期に差しかかっていると言っていいだろう。この数十年の間、コミュニケーションの大半は物理的な空間を離れ、電子的なコミュニケーションに移行していった。この傾向は今後も続いていくだろう。 そして、日本では、戦後ずっと右肩上がりを続けていた人口は減少し、2015年に1億2,709万人だった総人口は、2060年には8,763万人まで減少する(低位仮定)と予測されている★1。
思えば、モダニズムの建築はまさに社会の近代化とともに浸透していった。それは経済成長や人口の増加時にはきわめて相性のよい論理だった。しかし、社会の構造自体が変化しつつあるいま、これまでとは違うあり方を描かなければならない。そして改めて振り返ると、トイレにまつわる「白く、衛生的で、美しい」イメージは、モダニズムの美学そのものである。この空間の変化をつぶさに観察し、更新することができれば、次の時代が見えてくるのではないか。
現在は社会の変化が激しく、いきなりその全体像を掴むことはあまりにも難しい。公共的な空間の意味が大きく変容しつつあるいま、まずはトイレという最小のスペースから、これからの社会や都市、ひいては公共について考えることを始めたい。
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公開日:2017年05月30日