海外のパブリック・スペースから 11
ドイツ、ベルリン──緑のあるパブリック・スペースを享受するベルリナーの過ごし方
平松建人(東北大学大学院)
4月のベルリン・トレプトウ公園。人々はビールやアイスクリーム片手に、家族や友達との会話を楽しんでいた。快晴が続き、草木と人々の騒めきが聞こえる。シュプレー川を行き交う観光船の姿はなく、あったのはパドルボートを漕ぐ人の姿であった。
ベルリンの光景
筆者は2019年9月、1年間の留学の予定で、ベルリンへ渡った。
着いたばっかりの頃は夏がいよいよ終わりに近づき、秋は目前だったが、冷房のないベルリンは建物の中に籠るには厳しい環境だった。涼を求めて外に出てみると、カフェやレストランのテラス席でおしゃべりする人々や、公園でくつろぐ若者の姿が印象的だった。
半年以上ベルリンで暮らしてみて感じたが、1年を通じて比較的乾燥した気候であるため、湿度の高い日本と比べて、非常に過ごしやすい。また、雨が降っても小雨や霧雨が多いので、折り畳み傘を持ち歩いたり傘を差す人は多くない。日本みたいに、外は暑いとか、雨が降ったら汚れるといった、外に出ることに対するネガティブなイメージがないので、晴れている日には、室内席よりもわざわざテラス席を選びたくなる。
筆者にとって意外だったのが、日照時間が季節間で極端に変化することだった。夏は夜遅くまで明るくなることなどは知っていたが、やはり日本と比べると緯度はずっと高いため、夏至と冬至で日照時間が全然違う。冬の長い夜は、北欧ほど極端ではないが、筆者を憂鬱な気分にさせるには十分すぎた。加えて曇りの日が多く、太陽の日差しがとても恋しく感じられる。青空が広がった日には、コートを着込んででも学食のテラス席で食事をとった。だからこそ、春が近づき快晴の日が続くようになると、ため込んだ鬱憤を晴らす様ように、外に出かけたくなる。
パンデミック下のベルリン
新型コロナウイルスのパンデミックがドイツにも影響を及ぼし始めたのは、ちょうど春が本番に近づいてきた頃だった。お出かけできるようなお店や博物館がベルリン州の政令で営業停止になり、暇を持て余して公園に繰り出してみると、仕事が当面なくなり暇を持て余した人々も考えていることは一緒だった。
こうして、ベルリナー(Berliner、ベルリン市民)がこぞって公園で日光を浴びながらくつろいでいる光景を目の当たりにすると、「ヨーロッパ人は外で過ごすのが好き」という印象は強烈なものになった。
筆者の滞在先の寮はベルリンの東側にあるリヒテンベルクにあり、近くを流れるシュプレー川の沿岸には古くからある大きな公園や、近年再開発されている新しい住宅地があり、お散歩するのに絶好の場所が揃っていた。そこで、天気がいい日にはシュプレー川沿いの公園に足を運んでは、人々の様子を観察していた。
公園にいる人々は、スピーカーを持ち歩いてベルリンらしくテクノを大音量で流して、リズムに身を任せて踊っていたり、読書をしたり、ボールで遊んだり、ハンモックをかけて昼寝をしたり、岸壁に腰掛けて駄弁ったり。もちろんビールやゼクト(ドイツのスパークリングワイン)をお供にして。人々は家にずっと籠もってストレスを溜め込むことはせず、ルールで許された範囲で春と自由を謳歌し、公園で思い思いに春を楽しんでいたのだ。そうした行為を受け入れられるパブリック・スペースがベルリンには十二分にある。
ベルリンと日本の差異
滞在中、なぜベルリンと日本で人々の行動様式に違いが生まれるのか、ずっと考えていた。
まず考えたのは、建物のスタイルの違いである。例えばドイツでは、日本でいう片側廊下タイプの集合住宅をほとんど見ない。集合住宅はおおむね階段室型か、中廊下型というタイポロジーである。住棟のファサードは無駄なく住居の窓やベランダとして用いられ、それが日々の暮らしのなかで、つねに外との接点を生み出してくれる。ベルリン中心部の、昔ながらの街区に建つ集合住宅は、中庭や街路と接しているし、比較的新しい集合住宅群は、住棟間が住民の共有公園や緑地などのパブリック・スペースで満たされている。
そして、外の様子が部屋の窓から見える。ふと、窓を開けたときの「新緑が綺麗な季節になったな」「晴れの日が最近多いな」という小さな気づきの積み重ねが、「庭で日光浴するにはいい日だな」、「じゃあ今日は公園行って歩こうかな」、「今日はビール持って芝生の上で寝転びに行こう」といった行動のきっかけになっていく。家の目の前、あるいは徒歩圏内には街区規模の緑地や公園があり、トラムや地下鉄に乗ればその選択肢はぐんと多くなる。
過密化する日本で
ただ、同じことを日本で実現するのは難しい。まず気候的な問題として、日本は湿度が高く、多少暖かいぐらいでも、気持ちよく窓を開けて過ごせる時期は一瞬にして過ぎ去ってしまう。屋外でベルリンと同じように自然を楽しむには、前提とする気候が全然違うのだ。
日本では「花見」が屋外で楽しむイベントとして根付いているが、それは桜の季節が、たまたま1日を通して涼しく気持ちいい季節であり、花見自体が目的であるからこそ人が集まるわけだが、それ以外の季節に公園を訪れる人は、主に散歩している老人か子供を遊ばせている主夫や主婦たちであり、目的もなく立ち寄ってくる若者は多くない。また、立ち寄りたくなるような管理の行き届いたパブリック・スペースは、駅や都心など人が集まる場所には増えてきたものの、郊外の住宅地などにはまだ多くない。
日々の暮らしを考えても、日本はパブリック・スペースまでの距離が遠い。現在筆者は帰国して、実家(築10年超の分譲住宅)の部屋で執筆しているが、部屋の窓はもちろん小さく、窓からはすぐお隣さんの部屋の中が見えてしまう。隣の家の気配が気になり、そっとカーテンも閉めてしまうから、結局窓は採光と換気の役割しか持たなくなってしまう。集合住宅に至っては、北側には廊下が占有し、南側のベランダはもっぱら洗濯物と室外機のための場所になっており、外の景色をあまり期待できないところが多い。そもそも「ベッドタウン」という言葉が表すように、日本の住居は寝食のための場所にすぎず、日々の余暇を満喫し、気軽に散歩してどこか緑地に出かける、なんて環境に恵まれないのだ。
いつも窓から外や緑を眺めることができ、ふと思いついて散歩に出かけたくなるぐらいに、軽く歩いた先に緑地がある。そんな環境があってこそ、人々が公園や緑地などのパブリック・スペースを楽しむという文化的下地ができるのではないだろうか。
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公開日:2020年05月29日