パブリック・フロントランナーズ 9
温泉とパブリックな気持ち
岡昇平(建築家、設計事務所岡昇平)
本当の「裸の付き合い」
ぼくは建築の設計を本業のかたわら、自ら設計した《仏生山温泉》(2005)という公衆浴場も運営しています。公衆浴場はまさに代表的なパブリック・スペースだと言えます。実際に公衆浴場を運営していると、パブリックな状況を垣間見ることができます。
「裸の付き合い」という言葉をよく耳にします。仏生山温泉でも、毎日湯船で顔を合わせるお客さん同士が仲良くなり、みんなで一緒に旅行に出かけたりしています。裸になるとコミュニケーションの質が変わってきます。三度の飲み会より、一度の入浴。そう言ってもよいくらい、人と人の関係に変化が生じる。だから、「裸の付き合い」という親密な関係は、まさに文字通り本当のことなのです。これは「裸だから」という理由だけではありません。裸であること、かつ同じ体験を共有していることも重要な要素です。「同じ釜の飯を食う」というおなじみの言葉と同様に、同じ風呂に入っているという共通の体験が親密な関係につながっているのです。
温泉を運営するなかで、もうひとつ気がついたことがあります。
パブリック・スペースとは、一般的に空間やデザインなどハードな要素によって規定されることが多いように思います。しかし、ぼくが温泉の運営を通じて感じるのは、パブリックとは「人の気持ちの中にある」ということです。どういうことでしょうか。その事例のひとつに、コミュニケーションのあり方としての「おしゃべり」に着目してみたいと思います。
2つのおしゃべりな気持ち
おしゃべりには「おしゃべりな気持ち」のようなものが存在します。公衆浴場では2つの種類の「気持ち」が見られます。
ひとつめ。おしゃべりには、うしろめたさのないような、何か「言い訳」があると嬉しい、ということです。けっして遊んでいるわけではないんだよ、たまたまそうなったんだよ、という気持ちがおしゃべりを促進させます。たとえば、今日も一生懸命仕事して、疲れを取りにお風呂に来てみたら、たまたま知人に出会っちゃったので、話しこんでしまった。というようなことです。
よく似た状況として井戸端会議が挙げられます。(仕事として)洗濯または野菜を洗いに共同井戸に来てみたら、たまたま知人に出会っちゃったので、(おしゃべりが主目的ではないけれど)話しこんでしまった。そんな状況と同じです。なぜ井戸端でおしゃべりが盛り上がるのか。それは仕事を言い訳にして、うしろめたさのない気持ちがおしゃべりを促進させるからです。公衆浴場もまったく同じ状況であると言えます。
ふたつめ。おしゃべりには、始まりと終わりのタイミングを自分で決められたら嬉しい、ということです。会話には相手がいるものですから、その始まりと終わりにはそれぞれの合意のようなものが必要です。おしゃべりは一度始まってしまうと、そろそろ終わらせたいけど、なかなか打ち切ることができないとか、そういう不自由さがつきまといます。このことは、おしゃべりを始める時のリスクとも言えます。
公衆浴場では、おしゃべりの始まりと終わりを選択できる機会がじつに多いのです。湯船の中で、気軽に隣に座り、会話の機会をつくることもできるし、逆にのぼせてしまうことや、体を洗うことを理由におしゃべりを終わらせることもできます。このような環境ではおしゃべりへのハードルがとても低くなります。
道を歩いていて、たまたま知人に出会うというシチュエーションともよく似ていると言えるでしょう。急いでいる時は、挨拶程度で移動することを優先できるし、おしゃべりの途中でも「そろそろ行かないと」などと理由をつけることができます。おしゃべりの始まりと終わりを自分で選択できるのはとても重要なことなのです。
温泉の運営を通じて、日々このような状況を見ていると、パブリックとは、パブリックな行動をする人間そのものが主役なのではないかと思えてくるし、パブリックな気持ちになれるのかどうかがとても大切です。その気持ちをつくるための環境をどう整えるか、どう空気を満たしていくか。そんなことが設計やデザインの本質なのかもしれないと温泉を運営しながら考えています。
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公開日:2020年03月30日