連載 明日のパブリック・トイレ×パブリック・キッチン 3-2
シェア型社会のパブリック ──
シェア・ハウスからシェア・タウンへ(後編)
三浦展(社会デザイン研究)
前編では、核家族を単位とした私有中心のライフスタイルから離れ、シェア的価値観が定着しつつある日本の現状について概観した。シェア的価値観がさらに浸透していくと、シェア・ハウスが特別なことではなくなり、シェア・ハウス的なつながりが街に進出しシェア・タウンとなり、シェア社会へと広がっていくはずだ。後編ではそうした状況が進展していくとパブリックはどのようになっていくのか、いくつかの事例を参照しながら考えていきたい。
シェア型社会のビジネス・モデル
ひとり暮らしと比べた際にシェア・ハウスに住む利点を具体的に挙げてみよう。食器、冷蔵庫、電子レンジなどの家電、ベッド、イス、照明などの家具は備え付けなので初期投資が少なくてすむ。数人で集まって住むので防犯上安心できる。そして、なんといっても住人同士によるコミュニケーションが期待できる。住人同士でモノの貸し借りも頻繁に行なわれるだろう。病気のときに世話をしてくれるケースも少なくない。
シェア・ハウスの住民に限らず、シェア的価値観においては、人からモノを借りたり、共有したり、共同利用したり、さらにはすでにあるモノを協力してつくり直したり、壊れたモノを修繕したりと、モノやコトを通じていかに人とつながりあえるかに価値が置かれる。モノを消費する、あるいはサービス(コト)を消費して満足するのではないのである。
一方で、モノを個人で所有するのではなく複数で共有し修繕していくとなると、個人単位での消費が減退していくのだから、多くの企業にとってはこれまでのビジネス・モデルをそのまま続けていたのでは立ちゆかなくなるだろう。ではどうすればいいのか。簡単に答えを見つけることはできないが、例えばトヨタがカー・シェアリング事業を立ち上げるなど、シェアにまつわる新しい市場は確実に生み出されている。つまりは、モノをつくって売るまでではなく、消費者の手に渡ったモノをどう活かすのかを企業自らがプロデュースしていくことが今後大きな可能性をもっていくはずである。つくったモノをケアし、購入した人をケアし、顧客と頻繁にコミュニケーションを取ってニーズを見出し対応していくようなビジネス・モデルである。
このモデルの場合は、顧客との人間的な結びつきが大きな意味をもつので地域密着型にならざるをえないはずである。地域密着を実現するためには、顧客サービスをする人の職場と住まいが近いほうが都合がいい。
ところが現実は反対方向に動いている。先日私は杉並区(東京都)の自分の住む賃貸マンションで、他の住人のエアコン室外機の騒音が気になったので、マンション全体を管理する全国チェーンの不動産屋にメールした。ところがクレーム処理をするコールセンターは東京にはない。しかも何度も電話をかけてくるのだが、そのたびに職員が毎回ちがう。こちらから電話をしても、いまは混み合っていると機械の音声がして、つながらない。室外機の様子を見に来た人と、その人の説明を受けて私の電話をかけてくる人が異なり、かつ彼らもおそらくメールだけのやりとりであり、コールセンターの職員はメールで上がってきた報告を読みあげるだけなのだ。私は頭にきたのでコールセンターからの連絡は拒否し、近くの担当者に直接連絡をもらうようにしたが、彼らにしてみれば自分たちのシステムに従わない面倒な客であろう。
だが賃貸住宅というまさに地域密着サービスが必須である分野において、このように全国チェーンの不動産屋が増えることで、逆にサービスがおろそかになっている。先日も消毒用スプレー缶のガスを室内で抜いて爆発させるという事件を別の不動産屋チェーンが起こしたが、この爆発事件も地域密着型の地元の不動産屋であれば起こらなかったであろう。そもそもガスが引火することを知らないのがおかしいが、住人と直接ふれあわずにクレーム処理したり、消毒したりするシステムで動くチェーン不動産屋というものそのものがおかしいのだ。
老人ホームなどの福祉施設も大手の会社が全国展開をするとチェーン店のようになってしまう。コンビニやファストフードの店員が客を一人ひとり違う存在として見ないように、老人ホームのスタッフも一人ひとりの老人を異なる存在としては扱わなくなる。もちろん、スタッフもひとりの個人としては、それぞれの老人を異なる存在として見るのだが、介護施設のスタッフという職能から見れば、「要介護2」などのように要介護度を示す記号で表わされる平均化された生物でしかなくなってしまう。だから老人の希望に添うことが十分できず、ファストフード的に誰にでも均一なサービスをすることになるのだ。
コミュニティ・コンビニエンス・プレイス(Community-convenience place)=コムビニ
老人ホームはもちろん住生活も食生活も広い意味では福祉であり、ウェルビーイングのための基礎である。これから紹介する事例はまさにウェルビーイングを市民が市民のために行なっている例である。
私はマーケッターでもあり社会デザイン研究者でもあるので、社会のさまざまな問題を解決するのは行政だけの役割ではなく、企業が新しい事業を展開しつつ問題を解決すること、また市民自身が問題を解決しながら生活の質を高めることを望んでいる。
だから、地域密着型という観点ではコンビニエンスストアに可能性を求めたいと思う。数万という数の店舗が日本全国にくまなくあり、食べ物を中心として個人向け商品を幅広く手に入れることができる。現在のコンビニは、とくに都市部では店員と客とのコミュニケーションが希薄なことが、むしろ気軽に利用できるイメージにつながっているが、今後は顧客とのコミュニケーションを図ったり、コミュニティの形成に貢献しうる可能性がある。
例えば、コンビニに託児所的な機能をもたせたり、顧客の家に出向いて困ったことを助けるなどのサービスをすることがありうる。
このようにコミュニケーションとコミュニティを活性化させる場所を、私はコミュニティ・コンビニエンス・プレイス(Community-convenience place)、略して「コムビニ」と名づけた★1。
「コムビニ」的な役割をもつコンビニの店舗を展開し利益を生みだそうとするには、現状では企業にとって乗り超えるべきハードルがかなり存在するが、将来的にはさまざまな展開が期待できるだろう★2。ほかにも、宅配便の配送センターや外食産業などにも以上のような機能を付加することができるかもしれない。一方でやはり理想的なのは、家庭でも会社でも学校でもない新しいコムビニを、地域の住民自らが運営することではないだろうか。
例えば松本真澄さんが本サイトで書かれた記事(「外出時、高齢者はトイレが心配」)で事例として挙げている多摩ニュータウン永山地区(東京都多摩市)の「NPO福祉亭」は、住民グループが運営するコミュニティ・カフェであり、唱歌や童謡をみんなで歌う「歌ごえ」、アマチュア噺家の落語を聞く「落語」、プロからの指導を得られる「手芸クラブ」などのイベントが開催され、お年寄りが集まる地域の縁側的な場所となっている。
また、やはり本サイトの記事(「パブリックの手触りを探して」)で田中元子さんが自身の活動のひとつとして紹介している「喫茶ランドリー」(東京都墨田区)は、どこにでもあるふつうのマンション街にある既存の建物をリノベーションした、喫茶店であり、レンタルスペースであり、さらにはレンタル家事室を備える、「新しい公共」を模索するユニークな場である★3。
家事室には、洗濯機、乾燥機、ミシンやアイロンなどがあり、その場にいる人たちがそれぞれ別々のことをしながらコミュニケーションをとることができる。喫茶ランドリーのレンタルスペースには、食べ物を持ち込めることもあって、お年寄りがおしゃべりをしたり、子どもが宿題をやりにきたりする様子が見られる。
家事を含め多くの手仕事は、孤独な作業で、ひとりきりで同じ作業を毎日繰り返し行なっているとノイローゼになったりもする。同じ作業でも誰かが周りにいる状況で行なうのであれば孤独にさいなまれることはない。食に限らず、洗濯やミシンがけ、宿題、あるいはちょっとした仕事など、家事をはじめとした個人の行ないの外部化が進んでいく様を目の当たりにすると、なにかをだれかと一緒にすることを快適と感じる感性が広がっているのだと捉えることができる。高度経済成長期以前の、日本における一般的な暮らしぶりが再発見されているのだともいえる。そしてその発見を現代の生活に取り入れようとすることを私は「再・生活化」と名づけた★4。
「再・生活化」とは異なるが、実際に高度経済成長期以前の生活のあり方を参考にしながら現代のわれわれの生活に取り入れようという動きは起きている。例えば、本サイトでインタビュー記事(「閾、個室、水まわり──そして未来のコミュニティへ」)が掲載されている山本理顕さんが提唱する「地域社会圏」は、核家族化や住宅の標準化によってひとつの住宅にひとつの家族が住むこと(「一住宅一家族」)が前提になっている社会を変えていこうとする試みである。「一住宅一家族」が広く浸透した結果、家の外との関係が希薄化し失われた地域社会を、現代の私たちの生活に合ったもの──必ずしも家族を前提とせず、周辺環境とともに小さな経済圏が成立するような共同体──として設計しようとするものである。先ほど例に挙げた「NPO福祉亭」や「喫茶ランドリー」が、既存の建物を再活用しながら、独自の運営方法や運営者と利用者との積極的なコミュニケーションによって、地域の人たちとの関係を築いていこうとしているのとは異なり、建築家の存在が重要であり、都市計画や建築計画として考えられているところに大きな特徴がある。
実現に向かうシェア・タウン
前編で紹介した瀬川翠さんのシェア・ハウス「井の頭アンモナイツ」では、(山本理顕さんが「地域社会圏」で考えられているよりおそらくずっと)小さな経済圏が身近な場所と離れた場所とのつながりを通じて成立している★5。管理栄養士の資格をもつ住人に食事をつくってもらった場合は労働の対価としてお金を支払うし、カメラマンの住人に撮影の仕事を発注することもあるという。また、雑貨をつくれるスキルをもつ住人がいるので、ガレージを改造して簡単な売り場を設えるなど、シェア・ハウスを街に開くことも行なっている。さらには、農家を営む実家でつくられた米を住人のひとりが送ってもらったときには、家賃代わりに受け取り、このことがきっかけでみんなで農作業を手伝いに行ったそうだ。それぞれの得意なことを活かし、住民同士でスキルを交換し合うだけではなく、地域とのつながりをもち、さらにはシェア・ハウスをハブとして実家の第一次産業とつながるなど、さまざまな広がりを生んでいる。
地域に根を下ろし街全体と広く関わりをもった事例として、本サイトでも記事(「パブリックを持ち寄る。みんなで食べる。」)を書かれている宮崎晃吉さんの谷中(東京都台東区)での活動がある★6。谷中は古くから残るまちの雰囲気を維持しつつ発展させようと住民たちが長らく尽力している場所である。ここで宮崎さんは、まず古いアパートをリノベーションし、1階にカフェとギャラリー、レンタルスペース、2階には自分たちの設計事務所などがある「HAGISO」をつくり、次にホテル「hanare」の運営を始めた。「HAGISO」では、「hanare」のチェックイン業務のほか、カフェで朝食の提供を行ない、希望を聞いたうえで夕食の店を紹介する。
宿泊客は近所の別のアパートをリノベーションしてつくった「Marukoshiso」に泊まる。また、宿泊費には近くの銭湯のチケット代が含まれており、泊まって完結するのではなく、宿泊客が谷中をさまざまに体験できるように街全体をホテルに見立てた運営方法が取られているのだ。
現在設計事務所は隣町の千駄木に移って、事務スペースの半分を「まちの教室KLASS」というレンタル教室にした。「KLASS」では、尺八や三味線、料理や裁縫などそれぞれのもつスキルや知識をだれかに伝えたいと考える地元の人たちが講師となって、住民同士の交流が行なわれているのだが、地域に眠っている人材を発掘する場ともなっている。
もうひとつシェアタウンの萌芽を感じる街に西荻窪(東京都杉並区)がある。JR中央線の東京都区内最西端の駅である西荻窪は、閑静な住宅街であり、文教地区でもあり、大資本の店は少なく、駅周辺には小規模の飲食店がひしめき合っている。こうした小さな店のなかには、日替わり店長のカフェや日替わりママのスナックなど、訪れた客とのコミュニケーションを楽しむことを大きな目的としてカウンターに立つ人々の姿もある。
「okatteにしおぎ」は、会員制の「まちのパブリックコモンスペース」である★7。2階建ての戸建て住宅はシェア・ハウスであり、シェア・キッチンであり、土間スペースや畳スペースを備え、さまざまな使い方が可能である。共用部分を利用するには「okatteメンバー」になる必要がある。メンバーはイベントや食事会を開催したり、平日の夕方にみんなで集まって食事をつくって食べる「okatteアワー」に参加することができるほか、1階のキッチンは飲食店営業と菓子製造業の許可を取得しているため、つくったものを販売することができる。「okatteアワー」には、単身者だけでなく子ども連れの家族も多い。料理教室の主宰者や管理栄養士、パン職人といった食関連のプロのほか、デザイナーや建築士、SEなどさまざまな職業の人々がメンバーになっている。
私もイベントに参加し食事をいただいたのだが、ここに集まるお母さんたちの料理はすべてがほんとうにおいしい。それぞれの家族だけに料理を供するのではもったいないと感じるほどである。レストランを開いて経営するのはたいへんだけれど、こうした場であればプロフェッショナルとしての主婦の腕を存分に発揮できる。
また、ここにはたとえお母さんたちほどおいしくなくても一品つくったり、田舎から送られてきた大根をもっていくだけでも受け入れられるような気軽さがある。前編で、60代以上の男性は共同体以外での活動に消極的であると書いたが、「okatteにしおぎ」の参加者のなかには、自分の父親の特技を中心に据えてイベントを企画することで、こうした場への参加を促す人もいるようだ。
地方都市の可能性
これまで取り上げてきたのはすべて都市生活者の事例である。共同体が残っている地方にはいろいろなものをシェアする土壌がまだ残っている。実際にわれわれは東日本大震災後、東北の街に残る共同体が復興への大きな足がかりとなった例を目にしている。いまは、都市で生活し共同体から孤立しシェアすることがあたりまえではない状況に置かれた人たちが、シェアすることをおもしろがっている時期だといえる。都市部と地方の問題のあり方が異なっていることの表われでもある。
こうしたシェア的な感覚とは、つながりたいが縛られたくないというものであり、農村漁村の共同体や、企業といった共同体における、つながりたいなら縛られなければならないという価値観とは相容れない。コミュニティとかつながりとかシェアとかいうと、昔の社会を思い出して抵抗感を示す人がいるが、だいたいそういう人は65歳以上である。コミュニティがイヤで田舎から出てきた世代である。
だが、地方においてはモノや行動をシェアすることはいまでもそれほど特別なことではないため、共同体をベースにしない「共異体」(前編、★5参照)的なつながりがもたらされると、一気に「新しい公共」的な動きが波及する可能性がある。
また、地方を「再・生活化」へのヒントの眠るリソースと捉えるならば、「井の頭アンモナイツ」の住人たちが農作業を手伝いに行ったように、地理的に離れていたとしてもシェア・タウンとしてのつながりを感じられる場所となって、若者が地方へと足を向ける呼び水となる可能性がある。
人間のいる場所としての新しい公共
「パブリック・トイレ×パブリック・キッチンのゆくえ」というように、「パブリック」という名前を冠した本サイトの執筆者やインタビュイーに、これまで私が取材をしたり、共著書を出したり、一緒にシンポジウムを行なったりしてきた人たちが多くいることは偶然ではないだろう。空き家問題、高齢者問題、孤独死問題、子ども食堂的問題などを探るうちに、シェア型社会に解決の糸口を見出せるのではないかと調査研究を進めてきたが、私が興味を引かれたのは、いずれも「新しい公共」について考えたり実践したりしている人たちである。所与の場所を分析的、批評的にみて、自らの手で「人間のいる場所」★8にしていくことを模索する人々と言い換えてもいいだろう。
行政のつくるパブリックな場は往々にして、子どもは保育園、お母さんたちは子育て支援センター、子どもが少し大きくなると小中学校、高齢者は老人ホームやデイケアセンター、病人は病院、健康な人はスポーツセンターというぐあいに、年齢や役割、健康状態などで行くべき場所が区分けされている。
一方、これまでみてきた各事例は、人々が年齢や職業などとは無関係に各種の行動によってつながりをつくっていくような場となっている。利用者たちはそれぞれがもっている知識やスキルを交換、共有することを好む傾向があり、完全なビジネスでも完全なボランティアでもないお互いにフラットな関係性が築かれているケースを多く目にした。そしてなんといってもどれも食を共にすることが前提となっていることが興味深い。
前編で家族とは共食を基本としていると書いたが、まさに時間と場所と食をシェアすることでつながり「共異体」を形成しているのだ。「人間のいる場所」で、われわれ一人ひとりがプライベートを少しずつ開き誰かと共有することによって「新しい公共」が生まれているといえるのである。
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公開日:2019年01月30日