連載 明日のパブリック・トイレ×パブリック・キッチン 3-1
シェア型社会のパブリック──
シェア・ハウスからシェア・タウンへ(前編)
三浦展(社会デザイン研究)
シェア・ハウスから広がるシェア的場
私は20年前より、若者たちのあいだに「脱・私有」的価値観が生まれていることを指摘してきた★1。「脱・私有」は言い換えれば「シェア」だが、これらについて語る際に多くの人に理解を得られていると実感できるようになったのは、『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』(NHK出版、2011)を著す前頃からだった。このことは数字にも表われている。2013年に女性を対象として国立研究開発法人建築研究所が行なった調査によると、711人の単身者のうち24歳以下で42%、25歳から29歳までで31%が、シェア・ハウスに住んでみたいと思っているという結果が出ている★2。また2013年にリクルート住まいカンパニーが、東京、神奈川、千葉、埼玉における自社物件の賃貸契約者のひとり暮らしを対象に行なった調査によると、5%ほどがシェアハウスに住んだ経験があると回答している★3。この数字は累積していくので、一度住んだら嫌だったという人も含めて、シェア・ハウスに住んだことがある人、これから住みたいという人を合わせるとかなりの数字になるはずだ。つまり、キッチンやバス、トイレを共用することはごくあたりまえの経験になっていくだろう。
本サイトの「国内トイレ×キッチン・サーベイ」では、さまざまな人たちに開かれ、時間や場を複数の人々がシェアするようなパブリックな場づくりの様子が、それぞれの運営者自らによって紹介されている[田中元子「パブリックの手触りを探して」、宮崎晃吉「パブリックを持ち寄る。みんなで食べる。」]。この二つの事例は、シェアすることと公共性をどのように結びつけるかがテーマとなっており、家や仕事場から、街や社会にまでシェア的な場を広げていこうとする活動だと捉えることができる。
人の集まりを共異体として捉える
数年前まではシェアハウスで赤の他人同士がトイレを共用できることに対して不思議がる人がかなりみられた。しかし、血のつながった家族の場合であっても子どもが高校生以上になれば、バス、トイレを共用しているだけといってもいいくらい、生活はばらばらになる。そうなると、一緒に住んでいる血縁といえども、家族なのかという問題が出てくる。
上野千鶴子が言うように、家族というのは共食を基本としている★4。だが、核家族というのはじつは共食をしなかった。なのに家族らしさを演じなければならないところにひとつの息苦しさがあった。それがさまざまな家族事件の一因だろう。
シェアハウスの場合は、住人は血のつながりはなくても食事を共にしうる疑似家族であり、また、住人同士が一緒にいなければならない理由がない「共異体」★5である。したがって、いやだと感じたならシェアハウスから出て行けばいいので、住民同士の殺傷などの事件は起きづらいだろう。
私たちは、血のつながりや法的な束縛があるので家族を共同体だと考えてきたのだが、むしろ共異体だと思えばすっきりとするはずだ。男女とも働くことを前提とし、またLGBT同士の婚姻が法的に認められるようになれば、ますます家族を共異体的に捉えることになるだろう。
孤独死問題なども人の集まりを共異体として捉えると解決できる可能性がある。例えば、高島平団地(東京都板橋区、1972? )ができたばかりの頃の映像を見ると当時はエアコンがないのでどの室もドアを開けているし、ベランダで子どもを抱きながら隣の人としゃべっている様子などが映っている。ところがエアコンが付けばドアも窓も閉められてしまう。閉じた空間に閉じこもっていては、隣人がどんなことをしているのか、どんな人間なのかを知ることはできない。
一方で、ペット可のマンションであれば、ちょっとずつお互いに迷惑をかけてもいいという雰囲気がある。自分自身の経験としては、エアコンを使わずドアを開けて音楽を聴いていたところ、2軒先の人もドアを開け始めたことがあった。つまり、ドアを開けてもいいのだという認識が波及したといえる。みんながドアや窓を開け始めたら、少なくとも同じフロアの住人の様子が少しはわかるようになる。毎日同じ時間に聞こえていたはずの音楽が聞こえなくなったとしたら、隣人に異変が起きたことを察知できるかもしれない。
シングル化していく社会のよりどころ
未婚でなくても、子どもが巣立ったり、なんらかの理由で配偶者がいなくなれば、シングル化していく。そういう社会を考えると、共に食べることを主な軸としつつ、会社でも家族でも地域でもない集まり方というのは、すごく大事になっていくはずだ。現在60代以上の男性は共同体以外での活動に消極的であり、したがってシェアハウスにはあまり向いていないと言われるのだが、今後中高年になっていく男性にとっては苦手意識のあるなしとは無関係に、シェアハウスに住むことを余儀なくされるケースが多くなると考えられる。
なぜならシェアハウスに住まないで済む人とは、会社というコミュニティに属し、収入が高く安定している人たちだからである。ロスト・ジェネレーション(バブル経済崩壊直後に社会に出た1970年代?80年代初頭生まれの世代)以降、結婚せず会社というコミュニティに属さない人たちが増加している現状を振り返るならば、どこかのコミュニティに属したい、あるいは疑似家族的ななんらかのシェア的な場に属したいという人は増えていくはずである。
例えば、東京都国立市の「国立家」というコミュニティ・スペースは月会費を払う形式で運営されており、ここは住む場所ではなく、シングル化が前提となった社会でシングル同士が集まってご飯をつくったり食べたりおしゃべりをする場所となっている。
庶民にとって合理的なシェアするスタイル
シェアハウスに住む生活者同士は疑似家族であり、ひとり暮らしでは買わないものが共有物として購入される。キッチン用品やスパイスなどの調味料もひじょうに充実したものになる。
さらに、原宿(東京都渋谷区)の「THE SHARE」のように60人で住むとなると、キッチンは大規模になり、シアター・ルームやライブラリーもあり、住人の誰かが持ち込んだソフトウェアをプロジェクターの大画面に投影し大音量で楽しんだり、自分ではふだん買わないような大判の写真集を眺めることなどができる。
結婚して夫婦でマンションに住もうとした場合に同じ環境を用意することは難しいだろうから、結婚後もシェアハウスに住みたいという人は増えていくだろう。実際、既婚でシェアハウスに住む例も出てきている。
例えば、建築家である瀬川翠さん夫妻のほかに一組の夫婦とシングルの2人が住むシェアハウス「井の頭アンモナイツ」(東京都三鷹市)では、共同生活を始めてから一組の夫婦に初めての子どもが生まれた。つまりこのシェアハウスで6人の大人が暮らし、ひとりの子どもが育っていくのだ。瀬川さんは自分の子どもが生まれても一緒に住み、子ども二人を同じ部屋で育てたいとも言う★6。核家族化する以前は、夫婦だけでなく、祖父、祖母、隣のおじさん、おばさんまでもが一緒になって、複数の子どもを育てていたわけだから、ある意味では伝統的なかたちに戻っているとも言える。
人とのつながりが自然に生まれる社会へ
このように共異体として人々が集まり、物や時間や場所を共有するようになったのは、高度経済成長期の核家族を単位とした私有中心のライフスタイルが特殊であることにみんなが気づき始めているからだ。私有主義によって個人化し孤立化した状況から脱却し、人とのつながりが自然に生まれる社会を人々は求めているのである。
後編では、喫茶ランドリーやHAGISOなどを例に徐々に広がりを見せつつあるシェア・タウンの可能性を探っていきたい。
[後編につづく]
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公開日:2018年11月28日