パブリック・トイレ×パブリック・キッチンを提案する 7
もしも交差点がパブリック・キッチンになったら
中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)
江戸のパブリック・キッチン
江戸時代、人々の生活はいまよりもずっと地域と密着したものだった。キッチンも例外ではない。例えば井戸。江戸の町人の多くは井戸を中心にして炊事・洗濯・洗面を行なっていた。現代のキッチンという枠組みには収まりきらない、「水にまつわる場」は、とくに長屋(裏長屋)において、家の中ではなく、地域に共有のものとしてあった。炊飯はそれぞれの家の土間の釜で行なうにしても、七輪で魚を焼くのは外だったし、おかずの調理は井戸のまわりで行なっていた。人々はその存在を特別に意識することすらないほどに、井戸とともに生きていたし、同時に井戸とは、コミュニケーションの場であった★1。すなわちキッチンは、そもそも地域とともにあり、コミュニティと密着していた。
しかし、井戸はキッチンの役割をもつだけでなく、洗濯を行なう場だったし、その周りには共同のトイレやゴミ置き場もあったので、衛生的にはイマイチだった。そのことに加え、短時間で食事をとることができる屋台は、せっかちな江戸っ子の気質とも相性がよく、調理済みのお惣菜が気軽に買えたり、道すがら立ち寄れてサッと食べてすぐ帰ることができるため、たいへん重宝された。寿司・天ぷら・そば・うどんは、安くて気軽な江戸のファストフードであった★2。木戸に囲まれたコミュニティのなかにある井戸よりも、大通りや表通り沿い、花見や月見などのイベントに乗じて立ち並ぶ屋台は、より開かれたパブッリックなキッチンだと言える。井戸にしても、屋台にしても、江戸の食にまつわる場は、そもそも外部的であり、設備を伴うにもかかわらず、とても仮設的な場であった。
時間とともにあるパブリック・キッチン
ところで、現代において、パブリックとプライベートは、それぞれが別々にある対立した概念ではなく、とてもグラデーショナルに連続した概念だと思う。言い換えれば、パブリックとは、あらかじめ規定された量のための場というよりも、質のための場であると思う。個人が集まった結果、その場がパブリックな質をもち、集まった人々が散会すれば、パブリックな場はまた別の質をもつ。場の質は、グラデーショナルでもあるし、時間や状況に合わせて役割がスイッチもする。単純な図式では表わせない複雑な関係性は、「空間」だけでは、とても捉えきれない。時間とともにある質こそ、私たち現代人が当たり前に感じている自然なパブリックなのだと言える。
だから私は、パブリック・キッチンを、設備として固定されたモノだと捉えるのではなく、時間とともにある場として考えたい。それは、江戸のキッチンのように仮設的、つまり簡単に移動ができて、自分たちで自治できるようなパブリック・キッチンである。また、現代の既存の都市構造からなにか具体的で身体的なスケールを読み取ることで、匿名的でありながらも、シーンをありありと想像できるような、人間が集まることではじめてパブリックなキッチンだと認識できるような状況を、ここでは模索してみたい。
そこで目をつけたのが、住宅地の交差点だ。現行の法規により、住宅街の道路幅員はその多くが4mであり、東京都内の交差点には2mの隅切りが設けられている(幅員がそれぞれ6m未満の道路が交わる隅角が120度未満の角敷地の場合)。例えば、この一般的な隅切り寸法に合わせた、具体的な屋台を考えてみる。小さな屋台であっても、いくつもの交差点で同時多発的に現われると、地域を抱き込んだ壮大なパブリック・キッチンとなることも期待できるのではないか。
そこで、まず、4m幅員の道路が直行するグリッドの街を念頭に、交差点の、隅切られる前の三角形をそのままキッチンとしてみる。ここでは仮設的で移動が可能なキッチンとして、「三角屋台」を設計した。
パブリック・キッチンを街に配置する
交差点ということを活かして、この三角屋台を、4つで1セットという集まりで使用する前提とし、パブリック・キッチンを考える。4つで1セットとすることで、より多様な配置計画に対応可能であり、具体的なシーンを扱うことができる。そして、屋台が交差点を占拠するのとは違う、屋台に用のない通行人との共存を考えるおもしろさが生まれるのではないかと考えた。パブリック・キッチンに用のない人も含めた、より開かれたパブリックを扱うことが、三角屋台をへた地ではなく、交差点の隅切りに置く理由である。
おおまかには、交差点における配置は3つのパターンに分類される。仮に、「まんなか集中型」「分散型」「隅切りピッタリ型」と呼ぶことにする。
まず、まんなか集中型。交差点の中央付近に4つの三角屋台をひとつの大きな正方形にまとめる配置である。この場合、通行人は隅切り付近を移動することになる。
次に、分散型。隅切りにはくっつかずに4つの三角屋台を分散する配置であり、屋台それぞれに異なる役割をもたせることができる。通行人を巻き込みやすい配置とも言える。
3つめは、隅切りピッタリ型。三角屋台を均等に分散し、三角の長辺を隅切りにピッタリくっつける(もしくは隅切りを強く意識する)配置である。通行人は交差点の中央を行き、屋台の囲み方にはバリエーションが生まれる。
ここで、上記をもとに、具体的な9つの配置例とその使い方をご紹介する。
屋台の具体的配置図(9パターン)
まんなか集中型
- ①ママ友や子どもたちと交流しながら料理を楽しむ中央1テーブルの例
- ②料理や飲料をサーブする人のスペースを確保するため、一部を折りたたんで使用。初詣の際の甘酒配布など
- ③ひとつのキッチンを端に寄せることで、料理教室のようなセミナー利用に対応。キッチン周囲を椅子が囲む
分散型
- ④キッチンとテーブルに分けて使用。バーベキューなど、調理の比重が大きい際に重宝される
- ⑤食べる+αのイベントの際は、通行人を巻き込むように、交差点に離散配置。バザーなど
- ⑥参加人数が事前に分かっている創作イベント。ワークショップなど
隅切りピッタリ型
- ⑦盛り付け程度の簡単な調理のみで、配布に重きを置いた場合。近所の子どもに手づくりおやつを配布するおやつ会など
- ⑧小さな4つのキッチンとし、利用者も4つのグループに分かれる。居酒屋的な利用
- ⑨塀に沿って利用者が列をなす場合。夏の納涼祭の給水ポイントとして
パブリック・キッチンによる具体的なシーン
このように、具体的な配置の例をきっかけに、より多くの配置や使い方を想像することができる可能性を感じるのだが、その一方で、配置例だけだと、静止した時間で捉えてしまいがちだということも、また事実である。そこで、時間とともにシーン自体が展開することも期待して、9つのうち、3つの具体的シーンをさらにスタディした。
9つの例の上段左、「①ママ友会」の例を見てみよう。ふだんは誰のものでもない道路のまんなかに、突如、パブリック・キッチンが出現し、ママ友会が行なわれる。一見突飛なシーンだが、じつは、子どもを迎えに行った帰り道、あるいはスーパーに行く道すがら、ママたちは自分の家から気軽に行ける程度の近所に、同世代のママと出会う場を求めている。最近、カフェでは頻繁にママ友会が開催され、毎度満席近い集客を誇る店舗が少なからずあるのだと聞く。道路はカフェと違って、大人にも子どもたちにも平等に開かれた場であり、そもそも外なので、気兼ねなく動き回ったりおしゃべりすることができる。時間で区切って、車優先ではなく歩行者優先の道路とすれば、十分可能であろう。食をきっかけに見ず知らずの人が集まり、地域の中で関係をつくっていくというのは、社会生活を送るわれわれにとってとても根源的な行動だ。ここにキッチンがあると知らずにたまたま通りがかった奥様が、スーパーの特売品をおすそ分けしてくれるかもしれないし、たわいもない喫茶コーナーとしてお湯を沸かしたり軽食をつくったりして、気軽に活用される。時間がきたら、すぐにキッチンごと、片付ければいいのだから。
次に、9つの例の中段中、「⑤バザー」の例。食べる+αのイベントの際は、通行人を巻き込むように、キッチンの表面積を増やすように配置する。分散することで、盛り付けの場、飲食の場、水場でのお片づけの場とそれぞれの屋台に異なる役割をもたせることが容易になる。地域のいくつかの交差点で、同時にパブリック・キッチンを使用したイベントを行なうことができれば、イベントに用がない通行人も、ただ前を通るだけで、この街を楽しく感じることができるという意味で、ひとつの大きな建物の中で完結するのとは違う、より開かれたパブリックの質を提供することができるかもしれない。例えば、4カ月に1回(年に3回)でも、このような場を地域に定期的に用意することができれば、人々の生活や関係性に、大きな幅を与える機会になると思う。
最後に、9つの例の下段右、「⑨納涼祭の給水ポイント」。交差点ということを活用し、パブリック・キッチンの配置によって、通行人のための道路とキッチン利用者のための道路を分節する例である。ここでは、隅切りの斜めのラインと平行に少しアウトセットして各キッチンを配置することで、塀に沿って利用者が列をなす場合を想定している。シンクで飲料を冷やすことができ、キッチンごとに、飲料の種類を分けることができる。交差点から外れた道路境界線沿いに椅子を置けば、交差点全体が、簡易のドリンクスタンドのような賑わいを得る。この場自体が主役というよりも、例えばお祭りなど、地域の活動をサポートする場として、活用される事例にもなることを示している。
ここまで、リサーチから具体的なモノの提案、配置例やシーンについてスタディをしてきたが、現代において、人々が集まるパブリック・キッチンを考えることは、自治できる地域のランドマークを考えることと似ているのではないか。人々に愛されるパブリック・キッチンは、その地域のシンボルとなる。パブリックが量に対する空間ではなく、時間によって変化する質を求めるのだとすれば、シンボルも、強靭に建つだけではなく、時間とともにしなやかに移ろいながら建ち現われる姿も、ありうるのだろうと感じている。
住宅街の塀で囲われた閉ざされた雰囲気の交差点の多くは、誰のものでもない、通行の用をなすだけのさみしい空間だが、仮設的だとしても、もしもパブリック・キッチンとなったら、住む人自身が場づくりをする新たなコミュニケーションの核となり、街の生きた風景を生み出すだろう。
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公開日:2019年04月26日