海外トイレ取材 7
西海岸とパブリック・スペース(後編)──
ハリボテの世界
浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)
「海外トイレ取材 7」は西海岸とパブリック・スペースの後編である。前編は、おもにITと実空間の融合について、その可能性についてのポジティブな話となったが、後編では、公園、美術館、そして近年次々につくられているIT企業のオフィスを取り上げ、ITと実空間の融合の際に起こりうる懸念を示したうえで、今回は現実の建築の可能性について論じることとしたい。
Mission Dolores Park(ミッション・ドローレス・パーク)
Parklet(パークレット)
今回訪れた公園のなかで最も印象に残っているのがサンフランシスコにあるMission Dolores Parkである。RAD(Research for Architectural Domain)の榊原充大氏に強く薦められて行ったのだが、週末になると芝生が人で埋め尽くされるほど人気の公園だ。筆者が訪れたのは平日だったのでそれほどの人出ではなかったが、アトラクションがあるわけでも、イベントがあるわけでも、近所に集客施設があるわけでもないのに多くの人で溢れている。なにより興味深かったのがそこにいる人々の多様性である。若物のグループ、仕事をする人、子ども連れ、犬の散歩に来る人、散歩している高齢者などじつにさまざまな人々が訪れていた。とはいえ、彼らが一緒になにかするということはないのだけれど、互いに付かず離れずの絶妙な雰囲気を生み出している。たんに人がたくさん集まる場所というだけなら、ほかにもあるだろう。ただ、ここにはそれだけに留まらない魅力がある。その理由を考えてみると、街を見下ろせる高台の(ただ頂ではなく)中腹に位置していること、街の中心部から遠すぎず近すぎない適度な距離にあることなど、相反する2つのものを繋ぐ場所であることが大きいと感じた。
トイレは2016年にリニューアルしたばかり。そして、じつはこの公園には議論を生んでいるトイレがある。公園とトラムのあいだにあるオープンな男性用小便スペースだ。外からほぼ丸見えの小便スペースなのだが、アメリカでは珍しいとのことでNBCでも取り上げられている(「San Francisco's Dolores Park Reopens With Renovations, Including New Outdoor Urinal」)。
ただ、そもそも公園にトイレが少なく、建物や茂みで排尿されていた問題を解決するためのものなので、一概に反対するのは難しい。トイレは人が集まるとどうしても必用になるスペースである。そもそも2016年のトイレリニューアル自体が、公園にあまりに人が集まりすぎたためにトイレを増設したものだ。ただトイレは匂いやイメージからどうしても敬遠される場所でもある。こちらのトイレにも早速落書きの跡があるように、掃除などの日々のメンテナンスの問題もある。そう思うと、ある程度オープンにして、普段の活動と切り分けるのではなく、ゆるやかにつなげることで負のイメージを払拭させるというのもひとつの手なのかもしれない。もちろん匂いや衛生的な問題は残るが、そこはそれこそ技術的なイノベーションが起こってほしい分野である。
前編との繋がりでいえば、近年のパブリック・スペースの議論では必ず話題に上がるParkletはサンフランシスコが発祥の地である。Parkletは、道路の駐車スペースを利用したごくごく小さなパブリック・スペースだ。そしてParkletは「道路」という行政の管理する文字通りの「公共の場所」を民間の手でパブリック・スペースに変えたものである。道路に面した建物の店舗やオーナーなどが行政に申請し、駐車スペースに一定期間ベンチやカウンターなどを設置してパブリック・スペースにする。メンテナンスなどは民間が行なうかたちだ。前編と同様にここでも民間の試みを行政とうまく連携させている。
しかしながら、パブリック・スペースは直訳すれば「公共の場所」なのだから、「公共の場所をパブリック・スペースに変えた」というのはおかしな話だ。ただこれは「公共性」という言葉がそもそも複数の意味をもっているからにほかならない。せっかくの機会なので改めて公共性の定義について振り返っておこう。公共性については、政治思想史の研究者である齋藤純一による『公共性』(岩波書店、2000)の定義が明確でわかりやすい。『公共性』によると、公共性は「オフィシャル」「コモン」「オープン」という3つの意味を含んでいる。「オフィシャル」は国などの公的なもの、「コモン」は共通のもの、「オープン」は文字通り開かれたものとするこの定義を前提にすれば、Parkletは「オフィシャル」の場所を民間が「コモン」かつ「オープン」なスペースに変えたものということになる。
サンフランシスコにあるParkletをプロットしたマップがあるので、自転車で回ってみた。突出したデザインというより、セルフビルドの延長線上のようなものが多く、ストリートをハッキングしているような感覚はたしかにある。そう考えると、パークレットは「行政」と「市民」という、現状ではあまりにかけ離れてしまっている両者を繋ぐ試みとしても捉えられるだろう。また、前編のリサーチを引き継げば、自動運転やシェアカーなどとの関係も気になるところだ。というのも、自動運転やシェアカーが普及すれば、現状ほどの駐車スペースは必要がなくなるだろう。そして自動運転やシェアカーが普及した際の駐車スペースとしては、一カ所にまとまった大きな駐車場よりも、各エリアに分散された、それこそ道路のパーキングエリアのようなもののほうが利用者としてははるかに便利である。駐車場から建物まで移動する必要がなくなるからだ。このように、道路というインフラと建物のあいだにある幅3メートルに満たないこのスペースは、「行政と民間」の、「建物と人」の、「車と人」のインターフェイスとして大きく発展していく可能性を秘めている。
また、この路肩のスペースに関連していえば、前編では興味深くも取り上げられなかったシェア電動スクーターBirdの充電方法がある。Birdは前篇で述べたように街のどこに駐車しても構わないので、スクーターは大量に街中にばらまかれているような状態にある。駐車スペースが決まってさえいれば充電することは容易だが、充電の前にまず街中に広がっているスクーターを探して回らなければならない。Birdは従業員が充電を行なっているわけではなく、充電キットをユーザーに貸し出し、一回充電する度に彼らに報酬を与えるかたちを取っている。つまり街中にいる人々に充電させているのだ。アプリで充電が必要なスクーターの位置がわかるようになっていて、ユーザーたちはまるでゲームをするかのように、それらのスクーターを発見して充電を行ない(狩りをするかのようにして)報酬を手にする。発見が困難な場所にあるスクーターも報酬額を上げればあまねく充電させることができる。建築家の豊田啓介はビットコインの物質化という喩えでこれらのBirdの充電方法を論じている(「ビットコインが物質化したら」ArchiFuture Web、2018年8月21日)が、新たなビジョンが必用だという結論も含めてまさにその通りだろう。
前編にも記したように、Uberは人が運転しているにもかかわらず、自動的に移動しているという不思議な感覚をもたらすサービスだ。そしてこれは、明らかにそう感じるように「設計」されている。どういうことか。Uberは、原理的にドライバーと乗客がアプリを通してしかコミュニケーションしないサービスとして設計されている。実体験として考えればわかることだが、人と人は対面しているからといって、コミュニケーションが円滑に進むとは限らない。むしろ目の前にいるからこそ言いにくいことは存在する。にもかかわらず、われわれは「コミュニケーション」について、「コミュニティ」について考える際には、生々しい実体験の部分は切り捨ててしまう。それこそ括弧付きの抽象的な言語での思考に陥ってしまう。そうでなくとも、うまくコミュニケーションが行なわれた例だけを思い浮かべて議論を進めてしまう。Uberは、いわば目の前にいる人をアプリで動かすことを可能にするツールであり、これは配車サービスに留まらない可能性を秘めている。もちろん、それをディストピアだと糾弾することも可能だが、現在はグローバリズムの発展により、さまざまな人種の、そしてさまざまな文化を背景にもった膨大な人々が都市というごくわずかな場所に集中して暮らしており、そうした状況への方途だとも言える。
整理しよう。Uberは目の前にいる人と自分とを切り分ける、いわばフィルターバブルを実空間で可能にする技術でもある。もちろんそれだけではないが、Amazon Goも同様な技術と捉えることもできる。しかしながら、切り分ける技術が進めば進むほど(そして実際に進むだろう)他者への不寛容を冗長させてしまうだろう。ブレグジッドやトランプ就任が立て続けに起こった現在、ありえない話ではない。ダイバーシティを標榜しながら、その実はフィルターによって切り分けられた都市。このままいけば近い将来、都市はそのようになっている可能性は大いにある。とはいえ、どうすればこの流れを少しでも和らげることができるだろうか。そこではアート(芸術)やラーニング(学び)がキーワードになるのではないか。
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公開日:2019年01月30日