住宅をエレメントから考える

セイナルベンジョ──便所のこれからを思考する(前編)

須崎文代(神奈川大学特別助教/日本常民文化研究所所員)

『新建築住宅特集』2021年7月号 掲載

タウトの見た「床の間の裏側」

建築家ブルーノ・タウトは、亡命先として滞在した日本で小堀遠州や桂離宮を見出した。世界的建築家のタウトが「細心周到な観察とをもって深く日本文化の全般に渉って、その根幹を射貫き」、『日本文化私観』(ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、明治書房、1940年)を著したものだと訳者の森儁郎は評している。そんなタウトは、日本家屋の特質として「床の間とその裏側」の関係性を指摘した*3。床の間については「地球上どこにおいても達成され得なかった所の、まことに世界の模範と称しても差支えないひとつの創造物なのである。」とまでいい切り、その設えのもつ意味を高く評価した。それと同時に、床の間の裏側には、便所が配されていることが少なくないという現象に着目し、次のように述べている(図11-1,2)。

「壁一重を隔てて、およそこれ以上のものはないと云ってよい対立! さらにこの対立によって示される二つの世界。
日本の家屋がこの事実によって創り上げた著しい象徴は、恐らくこれ以上説明の要はなかろうと思えるのである。」
すなわちタウトは、床の間という芸術性の象徴空間と便所という生活上の穢れの空間を壁1枚で同居させる斬新さに、日本家屋の特質を見たのだと思われる。こうした対照的なふたつの空間が壁1枚で隣接する特質について、タウトは、便所で行われる営み(自然的な必要事)は生存の原則的な前提ではあるが、それは「他方において文化的なものが高く保持されているからこそ、汚穢の観念を脱却して行きとどいた注意が払われる。」という結論に達したと述べている(ブルーノ・タウト著、篠田英雄訳『日本の家屋と生活』、春秋社、昭和25年)。では、便所そのものに関してどのような評価をしたかといえば、単に床の間に対照的な醜い空間として評価していたわけではない。「和風の便所は欧風便所より遥かに衛生的で、腸の排泄作用にも好適であるのではないであろうか。私はそう確信しているのである。」と好意的に評価している。さらに、「だがこれらの中のいずれを取り、いずれを棄てるべきかとなると、これははなはだ問題だ。棄てるに当っては、美の問題と若干の衛生上の問題が、実用としての問題の支障となり、また取るに当っても、実用上の問題とそしてまた若干の衛生上の問題とが、美の問題において矛盾をきたすからである。」と、その扱いのあり方について論じている。タウトは、日本の家屋が近代化する様相を目の当たりにし、実用と衛生上の問題を優先させることを見抜いていたのかもしれなかったのだ。

図11-1:床の間とその裏側(『日本文化私観』、ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、明治書房 、1936年)

図11-1:床の間とその裏側(『日本文化私観』、ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、明治書房 、1936年)

図11-2:タウトが住んだ「洗心亭」平面図(『日本文化私観』、ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、明治書房 、1936年)

図11-2:タウトが住んだ「洗心亭」平面図(『日本文化私観』、ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、明治書房 、1936年)

「辺縁」から「中心」へ

住空間の変遷を便所の配置に着目してみると、面白い傾向が炙り出される。それは、住空間の辺縁にあった便所が、やがて住宅の中心へと位置付けられていく現象である。先述したように、日本の伝統的家屋の便所はその辺縁に位置していた。縁側の先の隅(床の間の裏)や別棟の外便所などである(図1・12、写真5)。庶民が住む長屋には個別の便所はなく、共同便所がコモンズの領域に設置されていた*4(図13)。農村住宅では、肥やしの発酵が重視されたことから、南側の正面に便所が設けられた例も多い*5(写真6、図14)。

図12:明治の東京の住宅平面図(『日本のすまい・内と外』、エドワード・シルヴェスター・モース、鹿島出版会、1982年)

図12:明治の東京の住宅平面図(『日本のすまい・内と外』、エドワード・シルヴェスター・モース、鹿島出版会、1982年)

写真5:縁側の奥に手洗い(便所)が見える(「Japan」Francis Brinkley、J.B.Millet、1897年)

写真5:縁側の奥に手洗い(便所)が見える(「Japan」Francis Brinkley、J.B.Millet、1897年)

図13:重要文化財『洛中洛外図屏風』(歴博甲本)に見られる16世紀前期の共同便所(国立歴史民俗博物館WEBギャラリー)

図13:重要文化財『洛中洛外図屏風』(歴博甲本)に見られる16世紀前期の共同便所(国立歴史民俗博物館WEBギャラリー)

写真6:「旧古井家住宅」外観写真。正面中央に便所が見える。兵庫県姫路市に現存

写真6:「旧古井家住宅」外観写真。正面中央に便所が見える。兵庫県姫路市に現存

撮影:須崎文代

図14:重要文化財 千年家「旧古井家住宅」平面図(『兵庫の民家─播磨地区調査概報─』兵庫県教育委員会、1969年)

図14:重要文化財 千年家「旧古井家住宅」平面図(『兵庫の民家─播磨地区調査概報─』兵庫県教育委員会、1969年)

近代における住宅の変遷過程を見ると、中廊下を介在して南側は居室に、北側は台所・風呂・便所などの水回り空間に充てるという平面計画の考え方が大正期以降に普及する。応接間も付くような中流以上の住宅では、玄関回りに便所を配した例も多く見られる。こうした考え方は、一定程度定着した傾向のように思われる。いずれにせよ、便所は平面的には住空間の辺縁に位置付けられる傾向が強くあった。
しかし、近代が目指した衛生という命題は、もうひとつの変容をうながした。それは、便所を中心に位置付ける計画である。ル・コルビュジエは衛生を建築思想の中心のひとつに据えていた建築家の代表だと考えられ*5、身体モジュールへの着目をはじめ採光への希求やブリーズソレイユに象徴されるデザインは、水回りにこそ表れている。身体形状を反映した浴槽形態や台所空間のデザインはもちろん、便所に着目するとそれはより明白だ。コルビュジエ自身が住んだ「ナンジェセール・エ・コリ通りのアパルトマン」(1934年)(写真7)や、1929年開催のサロン・ドートンヌ展の出展作品「Un appartement moderne」(写真8)では寝室のほぼ真ん中にビデが設えられている。普通なら隠す装置が、居住空間に露わにされているのだ。

写真7:ル・コルビュジエ「ナンジェセール・エ・コリ通りのアパルトマン」の寝室。ビデが中心付近に、露わに設置されている。

写真7:ル・コルビュジエ「ナンジェセール・エ・コリ通りのアパルトマン」の寝室。ビデが中心付近に、露わに設置されている。

写真8:ル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレ、シャルロット・ペリアン「サロン・ドートンヌ展」展示作品の再現展示「シャルロット・ぺリアン展」(LVギャラリー、パリ、2020年)

写真8:ル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレ、シャルロット・ペリアン「サロン・ドートンヌ展」展示作品の再現展示「シャルロット・ぺリアン展」(LVギャラリー、パリ、2020年)

上記2枚撮影:須崎文代

図15:バックミンスター・フラー「ダイマキシオン・ハウス」立面図、アイソメトリック、平面図(『建築20世紀PART1』、新建築社、1991年)

図15:バックミンスター・フラー「ダイマキシオン・ハウス」立面図、アイソメトリック、平面図(『建築20世紀PART1』、新建築社、1991年)

これと前後して、バックミンスター・フラーの提案した「ダイマキシオン・ハウス」(1928年)(図15)は、居住空間を地盤から浮かせているが、そのプランの中心的位置を占めるのがバスルーム(風呂+便所)である。中心軸の配管系統を通して、給排水とベンチレーションが可能になっている。まさに、コアシステムの嚆矢といえる。
ミース・ファン・デル・ローエの「ファンズワース邸」(1951年)は、地盤面から切り離したユニバーサルスペースと銘打った居住空間を提案した一方で、便所空間は中心のコアに幽閉されている。マルセイユの「ユニテ・ダビダシオン」(1952年)もまた、水回り設備は建築の中心に集約されていることが理解できる。こうしてみると、建築の近代化が衛生をひとつの主眼としたため、給排水等の配管系統を集約しつつ、居住空間の中心へ意識的に位置付けるようになったのだとも読み取れる。近代が、人間生活を自然から切り離そうとしたものだとすれば、その扱いは意図的だったか否かはともかく、ある種必然の流れだったとも考えられるのだ。
こうした考え方は、戦後日本の小住宅でも、池辺陽や増沢洵といった建築家たちの実践によって展開された。やがて集合住宅などの大規模建築では、合理性の観点から水回りをコアとして集約させる計画へと繋がった。便所は、こうして住空間の辺縁から中心へと在り処を変えたのだ。

  • *3: 『日本文化私観』、ブルーノ・タウト 著、森儁郎 訳、講談社、1992年
  • *4:たとえば上海の中心部でもそうした状況は残っており、おまると共同便所の利用は現在進行形である。
  • *5:拙稿「住むための衛生の軌跡」、LIXILビジネス情報、2020年6月
    https://www.biz-lixil.com/column/urban_development/sh_review001

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公開日:2022年02月22日