「建築とまちのぐるぐる資本論」取材13
まちに根ざす建築家
森田一弥(聞き手:連勇太朗)
森田一弥さんは左官職人から建築家へ転身した異色の経歴の持ち主だ。活動拠点は京都市の山間にある小さな集落・静原で、自宅と設計事務所に加え、最近、宿泊施設をオープンさせた。集落に根ざす建築家が設計活動を介して新たな経済圏を生み出していく様子と、そこに至るまでの思考回路を伺った。
左官職人から建築家へ
連勇太朗(以下、連):
森田一弥さんが静原にオープンされた「shizuhara-stay」に泊まらせていただき、ご自宅、設計事務所、宿泊場所が、静原という小さな集落に存在していることのおもしろさを感じました。森田さんが宿泊業を始められた経緯などは後ほどお伺いすることにして、まずは森田さんのキャリア初期の活動を振り返っていただけますか。
森田一弥(以下、森田):
僕は1995年から1997年にかけて、京都大学大学院の布野修司先生のもとで、アジア各地の民家や集落の調査研究をしていました。現地へ行って、集落の宗教施設などの配置構成や、実測した民家に共通する平面の「型」を分析するような研究です。
大学院修了後はそういう土着的な建築を実際に「建てる方法」について知りたいと思い、左官の道に弟子入りました。そこでは金閣寺や京都御所などの文化財修復に5年ほど携わり、2000年に設計事務所を開きました。職人としての経験も後ろ盾となり、町家や古民家の改修から仕事を始めました。
連:
森田さんはアトリエや設計事務所で勤務して修行するという典型的なキャリアを経ずに、左官職人から建築家へと転身されました。設計の技術はどのようにして習得されたのですか。
森田:
独立当初は満足な図面を描けたわけでもなく、設計の実務的なことは何も知りませんでした。ただ、町家や古民家を直す方法はよくわかっていました。図面のスキルについては、やりたいことが職人さんに伝わればいいので、なるべく現場に常駐して職人さんから出た質問にその場でスケッチなどして答えるというスタイルで乗り切り、少しずつ設計の実務を覚えていきました。
大学院でたくさんの民家を見て、建物を型で見るという習慣が身に付いていたので、自分のプロジェクトでも、その建物の型を意識しながら現代の需要にどのようにアジャストできるかを考えていました。現在の仕事はリノベーションが半分、新築が半分ですが、新築の場合でもその地域の民家の型など、その場所にどのような型の建築がふさわしいかを考えるところから始めるのが自分のやり方だと思います。
実際の施工に関しては、自分たちでできるようなことは自主施工することもありますし、熟練の職人さんの技術が必要な場合は当然お願いします。一般の人が参加できるような技術にもプロの技術にも両方に関心があって、それぞれを現場によって使い分けています。
日本の左官技術は仕上げの技術を習得するのが重要ですが、世界の左官技術を見渡すと、左官材は化粧材としてだけでなく、構造や蓄熱材など様々な用途で使える素材です。物性に反した使い方をしないというはもちろんのこと、例えば土を蓄熱体や継ぎ目のない大きな面をつくる素材として見るなど、多角的に素材を捉えることができると、素材の可能性はどんどん広がっていきますし、プロの職人でなくとも施工の現場に色々な人を巻き込んでいけます。
静原との偶然の出会い
連:
静原に移住することになった経緯を聞かせてください。
森田:
独立したての頃は京都市内の町屋を借りて住んでいました。芸術家の海外研修のための奨学金をもらってスペインへ行けることになり、その1年間、大きな家財が全部入れておけるような場所を探していて、紹介いただいた古民家を見るために訪れたのが静原で、2006年のことです。静原の集落の佇まいに魅了され、何とかお金を工面し購入して、渡航前にはお風呂と台所だけ整備しました。帰国後に静原に移住し、現在に至ります。
連:
決断力の早さもさることながら、静原のプロジェクトが家財倉庫から始まったとは驚きです。静原はどういう場所なのでしょうか。
森田:
静原は京都市の北東部にある人口約400人の小さな集落です。戦前は農業が生業で、戦後に林業で繁栄しました。今は林業も廃れて、専業農家も2家族ほどです。ほとんどの人がサラリーマンで、車やバスで中心部に通勤しています。2023年に小学校が廃校になり、じわじわと少子高齢化も進んでいます。
これから静原の集落は少しずつ縮小していくと思いますが、30年後には僕も近所のおじいちゃんやおばあちゃんがやっているように、毎日野菜育てているのだろうし、最後は静原で死ぬのだろうと思っています。
連:
移住されてからも、愛着が増しているのですね。古民家は先ほどお話のあった最初の棟に加えて、さらに2棟購入されていますが、それぞれどのような流れで購入することになりましたか。
森田:
2棟目は1棟目の隣にあり、僕たちが静原に引っ越してきたときには既に空き家でした。こんなに素敵な家が使われず朽ちていくなんて耐えられないと、ずっと気に掛けていて、その気持ちをたまに家の掃除に来られる方にもやんわりと伝えていました。すると数年後に、「将来、住むかもしれないと思っていたけれど、その線はなさそうだから譲ってもいい」という連絡をいただきました。その頃には事務所が手狭になっていたこともあり、2017年に購入しました。
この家には古い車庫が付いていて、まずは手始めにこの車庫を改修して、1棟目にあった事務所機能を一部移転させました。母屋の方は1階の畳だけ新調して、お客さんが泊まれるようにして、その後に浴室などの水回りを整えて、数年かけて徐々に2階の部屋も全面改修しました。2020年から僕たち夫婦はこの母屋に住み、以前の自宅は子どもたちの住まいとしています。
3棟目は2022年に購入しました。こちらもずっと空き家で、持ち主さんとお会いしたときに誰か買ってくれないかなと言われていたので、すぐに手を挙げました。建築家の性と言いますか、良い古民家に巡り合ったら放っておけなかったのです(笑)。
連:
最初の10年は1棟、今では3棟所有され使われているわけですが、その間に、ご自身とまちの関係に変化はありましたか。
森田:
最初の10年は、今ほど周りの人と接する機会がありませんでしたね。1棟目は道から奥まった場所にありますし、集落内に設計事務所をやっている人がいるというくらいにしか認識されていなかったと思います。
今の場所に事務所が移って、複数の建物を移動しながら日常を過ごすようになってから、集落の人々と出会う機会が増え、色々な人が事務所に訪ねてくるようになりました。事務所のあり方によってこうも人との出会いが変わるのかと驚きました。
3棟目は実は、株式会社はてなの創業者、近藤淳也さんが事務所を訪ねて来られて、静原に宿があったらいいのにと言ってくださったことがきっかけで宿泊施設になったのです。近藤さんは静原の集落が大好きで、事務所の前をトレイルで通り過ぎたときに、こんな集落でやっている建築事務所はどんなところなのだろうと興味をもってくださったそうです。当初は2棟で十分だと思っていましたが、縁あって3棟目も購入することができ、改修費用も銀行や補助金でお金を工面できることになり、これはチャンスだと思って民泊をやってみることにしました。
宿泊施設運営の資金計画
連:
購入費用や運用方法についてもお話いただけますか。
森田:
取得価格は土地の面積に比例していて、1軒目は900万円、2軒目が1,800万円くらいでした。3軒目も900万ほどだったと思います。それぞれ別の方から購入していて、ローンは銀行から事業として借り入れました。その都度ローンを組み、返済期間はそれぞれ15年ほどです。
1棟目は個人で買い、自宅兼事務所として少しずつ改修しながら活用し、既に完済しました。2棟目の土地も個人で購入し、事務所部分の改修費は事業用の融資を受けて、自宅部分は手持ちの資金で少しずつ改修しました。3棟目は土地も改修費も事務所名義です。今は残りふたつの返済が重なってローンが最大に膨らんでいますが、民泊が軌道に乗れば、まあ何とかなると思います。
宿泊施設の売り上げと返済は、直接的には関連づけていません。当初、宿泊業の事業計画についてこの連載でも取材されているエンジョイワークスの福田和則さんに相談させていただき、ファンドで支援してくださる方を募って1年くらいで本格営業を開始する目標を立てていましたが、設計事務所を運営しながらの民泊事業はかなり本業を圧迫するだろうと恐れをなして、これまでと同様に自分たちの設計で利益が上がったときに少しずつ改修して、徐々に民泊の運営も広げていくことにしました。あくまで設計事務所として民泊をやるのがおもしろい取り組みだと思うので、新しいスタッフを採用するときには、オペレーションや案内など、宿泊業にも関わってもらう可能性があることを事前に話しています。
これまでは知り合いを中心に試験的に泊まってもらっていて、数ヶ月前に宿の運営許可が取れました。今後の集客方法やWebサイトについては悩んでいる最中ですが、しばらくは集落の方の紹介や口コミをベースに、自分たちのペースで試行錯誤しながら進めていきたいと思っています。
建築は普段、引き渡してしまうと、自分の手から離れてしまいますが、宿はずっと手をかけられる楽しみがあります。どういう室礼にするか、どんな絵を飾るか、どんな食器を置くかも自分たちで決められますし、宿だからこそ実現できるデザインもあります。特に古民家はメンテナンスにとても手間がかかるものなので、こうやって改修設計を手がけた設計事務所自身が長く関わり続ける付き合い方が合っていると思います。
連:
事務所の主要業務が設計だからこそ、宿泊業も設計の関心と繋げながら無理のない範囲でやっていくということですね。森田さんが宿を始めることで、集落はどのように変わっていくと思いますか。
森田:
集落全体としての課題は、協働の場だった農業が衰退してしまった現代に、いかに人と人が出会う機会をつくれるかだと思います。設計事務所が複数の建物に分散することで、集落の人との会話の機会が激増した経験から考えると、宿泊施設によって、お客さんが集落内を歩き回ったりするようになり、色々な出会いが生まれるはずです。朝食をケータリングしてくださるCafe Milletさんとは、カフェの敷地内に移動ができる屋台型の食事スペースを計画していて、集落の様々な場所に移動させて人が集まれるような場所をつくりたいと思っています。
集落での学び
連:
静原にいることで、森田さん自身が学ばれたことや、森田さん自身に起きた変化はありますか。
森田:
本当にたくさんのことを学びました。京都市中心部にいるときには、感じられなかったことを感じ、設計に良いフードバックができていると思います。例えば、この集落にある古民家は2階に子ども部屋が設けられているのですが、たいていその家で一番眺めが良く暖かい部屋なのに、子どもが大きくなって出ていくと、物置になってしまうことが多いのです。1階の土間は、かつては中心に
連:
町家でも民家でも、温熱環境はクリティカルですね。実験を繰り返して、重いものを温めるという考えにたどり着いたのでしょうか。
森田:
いえ、静原のおじいちゃんたちの話がきっかけです。元々この集落では、土間の中心に大きな竈門があって、冬は24時間火を絶やさないようにしていたので土間が一番温かかったと聞きました。戦後になって竈門が使われなくなりガスコンロになったから、土間が一番寒い場所になってしまい、古民家が嫌われる最大の理由である底冷えを生み出したのです。 気密性の低い古民家では、温かい空気は上がって逃げていき、冷たい空気を余計に呼んでしまいますから、ストーブやエアコンのような空気を温める方法は不向きです。竈門のように、熱容量が大きい重いものからの輻射熱で身体を温めることが古民家には有効だということです。それ以来、自分が設計する建物では基礎を構造だけに用いるのではなく、基礎を温めたり冷やしたりして安定した熱環境を保つために使うことを心がけています。 2021年に、教鞭を執る京都府立大学のキャンパス内で学生と一緒に、3棟目の工事で解体した土壁の土を使って日干し煉瓦によるピザ窯をつくりました。ピザを焼く前に、学生がコンビニで買ってきたパンを置いて焼いてみると、外はカリカリで中はふんわり、信じられないくらいおいしくなったのです。ここで焼いたピザも本当においしくて、学園祭では飛ぶように売れました。現代の調理器具は便利な反面、食べるという行為の楽しみを退化させてしまったと痛感しました。竈門や火が生活から消えたことが現代の住宅をつまらなくしている一因ではないかと思っています。
連:
重いものを温める方法や熱環境の問題については、森田さんなりの解が得られたのでしょうか。
森田:
基本的な原則は既に言った通りですが、具体的な温め方やそれに使える熱源はその場所によって様々で、試行錯誤の繰り返しです。韓国のオンドルは土で盛った床の底に竈門の煙道を通して下から温めていますし、現代では電熱線や温水で温めるとか、熱源も薪以外に電気や灯油や太陽光など色々な方法があります。OMソーラーは、屋根面で温めた空気を基礎へ送り込んで基礎を温めつつ建物全体に暖かい空気を循環させるという方法ですよね。 最初の事務所スペースは基礎を温めることに気づく前にコンクリートを打ってしまったので、温水を流せないと悔やんでいたのですが、ロシアにあるペチカと呼ばれる蓄熱式の暖炉の技術を知って、自分で煉瓦を積んで試作してみると、朝に燃やした薪の熱が翌日の朝まで保たれて本当に温かいのです。世界にはいろんな知恵がありますね。
まちに根ざす建築家
連:
集落の人の話を聞いて、集落の風土に呼応するような設計をする森田さんの姿勢は、顔が見える関係性のなかで地域の環境や特性を配慮にしながら設計活動をしていく、まちに根ざす建築家を想起させます。森田さんは静原で設計事務所と自宅、そして宿を行き来する生活のなかで、建築設計とまちづくりの関係をどのように捉えているのでしょうか。
森田:
僕自身、最初から集落に対して何かしようと気負って構えていたわけではありませんが、日本の建築家は大都市にばかり集まっていることをずっと疑問に感じていました。最初にここを訪れたときに、この小さな集落を拠点に建築家として活動することが新しい建築家像をつくることになるのでは、と思ったのです。ここで生活し、事務所を運営し、地域での活動に少しずつ取り組んでいるうちに複数の建物を使わせてもらえるようになり、近隣の方々との関係が深まっていきました。小さな集落であれば自分の活動の影響が都市での活動よりもダイレクトに現れてくるし、それが楽しいです。現代は戦後の高度成長期のように未来を見通して計画をすることが難しい時代だと思いますので、集落をどうしたいかという大きな絵を描くのはあまり現実的ではありません。目の前に現れる課題をひとつずつ乗り越えることで見えてくる新しい景色には、僕自身いつも驚かされています。またここで学んだことを他の地域での設計にも活かすこと、例えばあえて機能を分散させて移動する機会を増やすことは近代的な計画論とは逆のアプローチですが、その結果生まれる他者との出会いの機会は、孤立しがちな現代人の生活に豊かさをもたらすものだと思います。
連:
集落にポツンと設計事務所が佇むケースはヨーロッパではそれほど珍しくはないものの、日本ではまだ稀有ですね。今回、静原にお邪魔して、森田さんはまさに先駆者だと感じました。
森田:
静原のように過疎化や空き家の問題を抱えた集落は日本にたくさんあります。建築を志している人がそういう場所へもっと入って行くべきだと強く思いますし、何よりそれは建築の設計と同じくらい創造的で楽しい取り組みですよ。だから、そういう気持ちをもっている人の背中を押せるように、自分の経験を伝えていきたいです。
「集落アーキテクト」として生活を成り立たせていくための術として、僕は事務所の収入源を設計だけでなく、施工、宿泊施設と分散させることを心がけています。集落は経済規模が小さいので、設計業というひとつの近代的な業種だけに固執して事業を成り立たせるのは、原理的に考えてもかなり難しいのは明らかです。
でも実際に、百姓という言葉通りに色々なことに関わりながら生計を成り立たせて暮らしてみると、これはこれでかなり楽しい生き方だと思いますよ。小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学
もう一つの資本主義経済』(光文社、2016年)ではひとつの職能に固執せずに色々な仕事を渡り歩くアフリカの行商人の話が出てきます。何かを極めることで専門性を身に付ける日本的なプロフェッショナリズムの意識も大事ですが、それに固執せず様々な生業にトライすることは、リスクの分散にも繋がりますし、生活の豊かさに繋がっていくと思います。
それから、人と話すことも大事です。お天気のことなど、他愛もないことで十分です。これまでも地元の方々との接点が、思わぬ気づきを呼び寄せてくれました。月2回ある消防団活動でも、同世代の地元育ちの男性たちから集落内外の知らないことについて教えてもらうきっかけになり、その情報は知らない土地で生きていくために欠かせないもので、重宝しています。
アナ・チンの『マツタケ─不確定な時代を生きる術』(みすず書房、2019年)に、資本主義の外でもなく内でもなく端っこで生きるという意味で「ペリキャピタリズム(周縁資本主義)」という言葉が出てきますが、集落で建築家として生きるということは、まさに都市という資本主義のなかで日銭を稼ぎつつ、同時に自律的な独自の環境を構築し、そこで得られたものを都市に送り返すというイメージで気に入っています。
連:
集落のなかで人間関係を築き、仕事の選択肢を多くもつということですね。実際、森田さんの事務所で修行したら、様々なスキルが身に付きそうです。 建築家の生き方のモデルとして、森田さんを真似するような人が出てくることを私も期待しています。
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公開日:2024年11月28日