玄関から考える住宅の可能性(前編)
まちと繋がる玄関の未来形
畝森泰行(建築家)× 大西麻貴(建築家)× 門脇耕三(建築学者、進行)
『新建築住宅特集』2015年9月号 掲載
大西:
また、伊東豊雄の「中野本町の家」(『新建築』7611)の玄関は、スタディ過程を興味深く感じた玄関です。設計途中で玄関の場所が変更されていて、はじめはUの字の中央部に玄関が配置され、真ん中から入って左右対称な空間に振り分けられる計画でしたが、だんだんとUの字が繋がりロの字になり、それと同時に玄関が中央からずれていきます。玄関が扉を隔てて内外を分けるものというよりも、外から吸い込まれるような場に変化していくのがおもしろいです。
遠野の民家の土間も印象的です。曲がり家の形式で土間が人間と馬それぞれの領域を分けつつ、馬とともに住むことが自然に感じられる楽しさや大らかさを生み出しています。玄関は人間のためのものと思いがちですが、動物もともにいる場所と考えるといろいろな可能性が広がりそうです。
門脇:
畝森さんが挙げた篠原一男の住宅では、玄関は特別な空間への入口と位置付けられることが多いように思います。つまり空間体験装置としての玄関ですね。「中野本町の家」のスタディ初期の玄関とも近しいと思いますが、これらの住宅が建てられた1960 ? 70年代、玄関は作品の空間性そのものを担っていた。それが今も建築家を惹きつけているのですね。レーモンドの「麻布の自邸・事務所」の玄関も非常に興味深く、家族の生活の場としての玄関という考え方は同時代の作品にはほとんど見られない。あれは民家の土間の変奏と捉えられるのかもしれません。
大西さんはさまざまなタイプの玄関に興味をもたれていますが、おふたりに限らず、この世代の建築家の共通項として、民家のような生業の場としての玄関に惹きつけられているところがあるようです。こうした玄関は近代化とともに途絶えるのですが、生業の場が住宅から消滅するということは、住宅が家族だけのものとなった結果、そのような場所が住宅から閉め出されたことだとも捉えられます。しかしこうした玄関が、改めて復活してきている。現代の決して広くはない住宅に、家族外のものを積極的に呼び込む場をつくるということが、今なぜ起きてきているのでしょうか。
内外の緩衝領域としての玄関
大西:
玄関が狭いと、居心地が悪いと思うんです。たとえば町家の土間のように、部屋と玄関の接している面が長くて、どこでも座れる、どこからでも上がれる、という空間であればゆったりと靴が履けますが、狭い玄関だと靴を脱ぐ行為は意外と面倒で、動作が優雅じゃないというか、もたもたするように感じるのです。それを変えたいと考えて、玄関を広くしたり、長くしたりしています。
門脇:
一般的な玄関だと、外に出る、中に入るという体験が唐突すぎて、身構えてしまいます。その感覚は、靴を脱ぎ履きするという動作に集約されていて、そこを連続的な体験へと変えたいということですね。
畝森:
クリストファー・アレグザンダーの著書『パタン・ランゲージ』(鹿島出版会、1984年)の中に玄関室というパタンがありますが、そこでアレグザンダーは内部と外部にまたがる玄関室によって空間的な膨らみと共に時間的な膨らみを生むことが大切だと語っていて、今のお話はその考えに通じるように思います。90年代頃からは玄関がどんどん小さくなり、その分リビングなどの居室に広さを求めた。それは、インターネットの発達により、社会や他者との繋がりを直接的な玄関が受けもたなくなった状況も影響していると思います。しかし東日本大震災以後、人間同士の生きた繋がりが見直される中、玄関が靴の着脱だけの場所でよいのかという問題意識が生まれているのではないでしょうか。
門脇:
住宅の狭小化とともに応接室のような接客空間が住宅から排除され、同時に玄関もないがしろにされていく戦後の流れに対し、異なる玄関のあり方が、今求められている実感はあります。その中で、内外空間の段階的連続性に意味を見出していこうという意識が生まれているというわけですね。また現在、玄関の多様な使われ方にリアリティがもてるのは、玄関先でやりとりをするという感覚が復活してきているからではないでしょうか。家族が小さくなると、生活を家族内で完結させることのリスクが大きくなる。したがって周辺とのコミュニケーションも、特に子育て世代などでは実感として重要に思えてきます。その周辺とのやりとりを取りもつ中間領域として、玄関の役割が高まっているのではないかと思います。
大西:
今、小豆島で活動をしているのですが、そこではお互いに助け合い、地域全体で生きていくことに実感をもちます。むしろ地域と関わらない玄関のあり方では、住宅として成立できません。この状況は小豆島だけではなく、都市部でもいずれそうなっていくのではないでしょうか。
畝森:
民家型玄関の復活には、建主の価値観の多様化も影響しているように感じます。趣味やライフスタイルの多様化が自転車やベビーカー、車椅子などさまざまなものとして現れることで、玄関としての定型がなくなっているように思うのです。
門脇:
玄関が街との繋がりを生む場となると、扉1枚で内外を区切るという考え方はふさわしくないですね。こうした玄関の位置付けの変化は、空間ばかりでなく、仕上げやそこに置かれる家具といった設えも変えそうです。
畝森:
先日、ハウスメーカーが設計したスマートハウスを見学したのですが、電気自動車は排気ガスが出ないので、駐車場が玄関に入り込んでいました。車の荷重に耐える床仕上げとし、さらに内部で洗車したり充電できる設備が整えられていて驚きました。一方、温熱環境を縁側や障子などの緩衝体によって調整するのは日本の伝統的な手法ですが、それが見直され、玄関においてもこれまでと違ったあり方が現れているのかもしれません。
門脇:
環境を意識した住宅として思い浮かぶのが、温室のような居心地のよい空間を玄関とした小玉祐一郎の「つくばの家 I」(『住宅特集』' 85 winter)です。三分一博志の作品でもそのような玄関のつくり方が見られますね。また五十嵐淳の「矩形の森」(『住宅特集』0212)の玄関は、空間装置としての側面ももちながら、風除室が一般的であるという北海道の地域性が加わって、さまざまな意味が輻輳する豊かな玄関になっています。また、これらの作品に共通する、玄関を環境緩衝帯として位置付ける考え方も示唆的です。現在の住宅に求められる環境性能はますます高くなっていますから、扉1枚で環境を分断すると、内外のギャップが大きくなり過ぎて心地よくない。現代の建築家は半外部的な場所をつくりたいという意識が強いですが、これが環境的な配慮ともうまく相互作用すれば、豊かな玄関が展開していきそうです。
大西:
そうですね、境界となる領域の環境にグラデーションがあると、建築が面白くなるように思います。
生活する街が感じられる内外の連続性──実作を通して
畝森:
一方で、僕は外部と接続する場を玄関だけに特化する必要はないと思います。街との繋がりはもっと多様であってもよいのではないでしょうか。それはある意味、従来の玄関という概念がなくなってきているということなのかもしれません。
門脇:
たしかにその流れはあると思います。昔の住宅には玄関と勝手口のふたつの出入口があって、両者の役割が明確に分かれていました。しかし最近の住宅作品には、内部にどこからでも入れるというものも多い。出入口はたくさんあって、かつメイン、サブという役割分担が便宜的に設定されてはいますが、あくまで曖昧なのです。
大西:
私もひとつの住宅にたくさんの玄関を設計することが多いです。設計の際に、ひとつの空間をなるべくたくさんのルートで体験したいと考えるため、玄関も増えるのです。敷地が選べる場合には、そのような可能性がある敷地を選びます。また玄関を広くするだけでなく、長くすることにも興味があります。
門脇:
大西さんが百田有希さんと一緒に設計された「二重螺旋の家」(『新建築』1112)も玄関の内外の動線が印象的ですね。ここでは玄関をどのように考えたのでしょうか?
大西:
「二重螺旋の家」は、ふたつの路地に対してそれぞれに入口が付いています。メインの玄関は細長い廊下になっていて、廊下の入口と出口にドアがふたつ付いているのですが、街側のドアはいつも開け放しで、外からすっと中に入れるような場所です。長く暗い廊下を通るとドアがあり、開けるとトップライトがあるので、一度明るい空間に出て、そこにベンチがあって靴を脱いで中に入るというように、街からいつの間にか中に入っているようなシークエンシャルな体験をつくりたいと考えました。勝手口も同様に路地からそのまま入っていくような玄関です。住宅設計で街での体験が内部までが繋がることに可能性を感じています。
このコラムの関連キーワード
公開日:2015年09月30日