住宅をエレメントから考える

おふろを建てる──風呂と入浴のこれからを思考する(後編)

髙橋一平(建築家)

『新建築住宅特集』2021年8月号 掲載

『新建築住宅特集』ではLIXILと協働して、住宅のエレメントやユーティリティを考え直す企画を掲載してきました。「玄関」(JT1509・1510)、「床」(JT1603)、「間仕切り」(JT1604)、「水回り」(JT1608 ・1609)、「窓」(JT1612)、「塀」(JT1809・1904)、「キッチン」(JT1909・1910・1912)、「トイレ」(JT2107)と、さまざまなものを取り上げ、機能だけではなく、それぞれのエレメントがどのように住宅や都市や社会に影響をもたらしてきたのかを探りました。
今回は住宅の「風呂」を取り上げ、建築史家の須崎文代氏(前編・中編)、建築家の髙橋一平氏(中編・後編)に3回にわたって紐解いていただきました。風呂は現代の住宅に欠かせない存在となり、また住宅の機能の中でも特に、製品化によって普及したものであるといえます。その現状とこれからの可能性を問うべく、最後となる後編は、髙橋氏にこれからの風呂の具体的なアイデアを、都市スケールにまで拡張し提起いただきました。

※文章中の(ex JT1603)は、雑誌名と年号(ex 新建築住宅特集2016年 3月号)を表しています。

1. 行動的な建築

住宅を建てるのではなく、おふろを建てる、と考えたい。
これからの暮らしを、住宅という既成の枠組みで思考し続けることはもはやナンセンスだ。かつて、住宅は「全体/部分」という従属関係のもと、用意周到に設えられた。浴室、キッチン、リビング、玄関、窓、塀、洗濯機、冷蔵庫など、数々の「部分」は、これさえあれば生活が豊かになると謳われ、住宅という「全体」(パッケージ)へ向け、機械のような進化を遂げた。しかし、私たちは日常生活を住宅だけで過ごしているわけではない。外部の環境と共に生活している。今や都市や自然も住まいのひとつであり、無限に拡張可能だ。住宅自体がもはや閉じられた「全体」といえ、「部分」に過ぎない。一方、上に挙げたさまざまな「部分」は、「全体」に抑圧され多くの自由を封じ込められている。たとえば浴室は、住宅内で適切とされたサイズや位置によって、束の間の入浴行為しか許容しない。入浴前後の行為や、入浴しながら別の何かをしたくても、間仕切壁や防水ドアがその自由を拒む。入浴が済んだら、身体の水滴を完全に拭き取りほかの場所は決して濡らさないという習慣も同時につくった。濡れたら耐久性を失う脆弱な住宅も生まれた。「全体/部分」でつくられた住宅は、自由な意志を携えた人間にとってはよく考えれば理不尽だらけである。住宅は機械であってはならない*1
しかし、それでも計画の場面で私たちが「全体/部分」の概念に囚われがちであるのは、思考の限界がそこにあるからだろう。「全体」を決め、次に「部分」を決定するという、形骸化した手順は事務的には爽快である。ただしその結果として、工場で大量に生産された同じ住宅や、それらが一様に並ぶ同じ住宅街、それらをほぼ同じ年代で購入する慣習が生まれた。この機械のような思考プロセスも、自由を想像するうえでの強い制約なのである。
そこで、まずは「部分」を「全体」の呪縛から救い出すことから始めたい。事実、近年の画像共有コミュニティは「部分」への関心を煽り、「部分」を「全体」から解放した。好きな場面を写真に収め、好きなところだけを集めて楽しむなど、人それぞれに「部分」が嗜好されている。その時、「部分」を生じさせた元の「全体」は意識されない。作者が組み立てた理由律や、構築の際の価値観を、人の認識が自由に裏切るのである。しかし、この事態を残念がるだけでは作者側の敗北である。人の認識に目を合わせることで、より豊かな方向へ人を鼓舞できるあり方が、建築においても存在するはずだ。この解放された「部分」を「エレメント」と改め、「全体から部分をつくり込む」これまでの思考を、「エレメントから無限の広がりを想像する」と逆方向に読み替える時、既成の「部分」は、世界の見方が変わることでその存在価値の位相が変わる*2。その「エレメント」とは、私なりに翻訳すれば、断片、シーン、直感、閃きといった類の微小で原子のような存在である。この論考ではそこへ、おふろを定義づける。おふろという「エレメント」を自律させ、「エレメント」から住宅を変えるあり方を想像する。「おふろを建てる」とは、そういうことである。それは、建築を理性的に計画することではなく、行動的につくることを意図する。たとえば、ある環境を経験し、その場で何かを想像し、即座に具現化するような、感覚的で一回性の高い建築の現れ方を模索することだ。

  1. *1:「建築をめざして」(ル・コルビュジエ、1967年、 鹿島出版会)
  2. *2:映画というメディアは、その点で人間の感覚を速くとらえ、構築(作品化)しやすい

2. エレメントから住宅を考える

図0:エレメントを建築する

ここまでの論理展開を図に示した〈図0:エレメントを建築する〉。また、本論の仮説をふたつに整理した。これらは以降に続く具体例の裏付けとなるものである。
〈図0-a:部分が全体を包含する〉では、かつての「部分」の存在価値が大きくなり、「全体」を呑み込む状態を示す。具体的には、「全体」としての住宅は実生活の「部分」に過ぎなくなり、むしろおふろが人間の実生活と重なり、暮らしに溶けるあり方である。〈図0-b:部分と全体が等価値になる〉では、同様に「部分」が「全体」から飛び出し、外部に独立して存在する。いい換えれば、おふろも住宅も同じ純粋な「エレメント」として自然や都市などの外部環境に建つ、ということになる。

図0-a:部分が全体を包含する
図0-b:部分と全体が等価値になる

〈図1-1・2:おふろのいえ/住宅を併設した風呂〉は、〈図0-a〉を最も直接的に建築へ置き換えたものである。すなわち、おふろが住宅を包む。〈図1-1〉は、既成の分譲住宅の土地を被い、住宅の外におふろを据えるものである。帰宅は入浴から始まり、玄関で新しい部屋着を身に付け、住宅へ入る。庭の物置には、タオルや肌着が収納され始め、隣に洗濯機が置かれる。このように、まずは「全体」(住宅)と「部分」(風呂)、それぞれの性質を維持しながら両者の関係をただ逆転させるだけでも、異なって認識されるはずだ。このことは、建築が経験可能な哲学であることを証明している。〈図1-2〉ではこれを新築で示した例である。おふろが覆うことで住宅側に必要なくなる部分が淘汰され、進化する。
次に、肥大化したおふろが、外部へ関係を構築しようと試みたのが〈図1-3:おふろの町家/町にひらいた風呂〉である。これまで町家の構えは店であったが、商業形態の変容に伴いその必要も薄まった。そこで店に使っていた土間に浴槽を設え、おふろを介し交流する。町では浴衣を着て歩く人が増える。おふろの所有者ごとの個性を、近隣で訪れ合って楽しむ。

図1-1:おふろのいえ/住宅を併設した風呂
図1-2:おふろのいえ/住宅を併設した風呂
図1-3:おふろの町家/町にひらいた風呂

メーカーハウスのプランに手を加えるだけの操作でも、このような論理の転換は可能かもしれない。〈図1-4:おふろの土間Ⅰ〉は、一般に北側に計画される浴室、玄関、廊下、トイレを一体化し、「おふろの土間」としてまとめた場合である。さらに南北を反転させおふろが南向きになる。〈図1-5:おふろの土間Ⅱ〉は、1階をおふろとほかの水回りのみとし、2階に寝室を集めたものである。テレビを前にしたリビングでの団欒がもはや空虚であるならば、おふろがそれに置き換わる。
このような些細な進歩から始め、機械のようなメーカーハウスの概念に慣れ切った人びとを現実的なやり方で救い出す努力も必要だ。

図1-4:おふろの土間?
図1-5:おふろの土間?

〈図2:アパートメントバスルーム〉は、私が以前発表した「アパートメントハウス」(『新建築』1808)の各室をすべておふろの部屋とし、より広く、かつ1フロア当たり1室として積層させるものである。広いおふろは入浴行為のほか、前後の行為(着替え、洗濯、夕涼み、ストレッチなど)に加え、入浴と一緒に行うと豊かになる行為(家族交流、映画鑑賞、飲酒など)を存分に楽しむことができる。家に対する価値観が多様化する中、おふろの充実を求める人びとの家であり、広いおふろが集まった「集合おふろ」である。近く実現するかもしれない。
〈図3:「ファンズワース邸」リノベーション〉は、こうした価値観を近代住宅に投影したスタディである。原作ではコアに仕舞い込まれていた浴室を、ガラス張りのリビングに配置することによって、基壇状のテラス、その周囲の緑、川の環境と連続し、異なる魅力を放つだろう。

図2:アパートメントバスルーム
図3:「ファンズワース邸」リノベーション

図1~3では、どれも外部から生活を覗かれる恐れがあるといわれるかもしれない。しかし、衣服の工夫(身体を多めに覆うウェットスーツ、外出時はその上にワンピース形式の服を頭から被るだけなど)により、十分可能ではないだろうか。住宅という枠組みが引き起こした多くの物品も変わっていけば、より豊かだ。

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公開日:2022年01月26日